お寺の前の小さな店、お椀二つで一人前
今回はもう一度大阪舞台の小説を見てもらって、言葉、方言などを考えてみようと思う。現在大阪の観光名所にもなっているところが、法善寺横丁。そこの甘味屋もこの小説で有名だし、近くのカレー屋も有名なんだ。オダサクの作品は今でも力を持っている。
これは『鱧の皮』、『河内屋』とそれぞれ比較して、内容としては『鱧の皮』と非常に似ている印象です。男と女の仲のうっすらとしていても確実な愛情みたいなものが似ているんです。小説の中で描かれる夫婦という、なんだか生ぬるい関係。それなのになかなかしぶとい結びつきのようなものが、読者にとって心地よい。そういうことが『鱧の皮』と『夫婦善哉』には感じられる。この生ぬるさが日本人の好む「適温」なんですね。
そして、同じなのは男がダメであるという点。ダメな男を女が支えて生きていく、という点です。たぶんこれも多く好まれる要素なんでしょうね。類型的で、予定調和的で、僕なんかはこういうところが気持ち悪いんですけどね。
後ほど少ししゃべりたいんですけど、そういう点が、全く大阪弁にふさわしく思われるんです。なんで大阪弁にふさわしく感じるのか。これは不思議ですね。今日の先生の出したテーマに沿っていると思うんですけど、こういう関東と関西の差異には僕も興味があります。『河内屋』のお弓のおっ母さんの口調で、こんなぬるい雰囲気を小説空間に作られたらどうだろう?面白いかもしれないが、なんだか合わないかもしれないなあ。いや、絶対このおっ母さんに大阪弁や京都弁を喋らせたくないなあ、と思います。
三作とも「女とは何か」がテーマじゃないかな。あたしはそれぞれの女が、それぞれの男をどう生かせるのか、そこが小説の中心のテーマだという気がする。二作の関西の女は生まれながらのマネージャーみたい。『河内屋』の女はうまくマネイジメントしていない。踊る男を作る役目をお弓もお染もできなかった。自分が踊るんじゃなけくて、人を踊らせるなら、言葉でうまく人を動かせなきゃあね。
『夫婦善哉』の蝶子は、牛蒡や蒟蒻、小魚などの一銭天ぷら屋に生まれた。家にはいつも借金取りが出入りした。蝶子は貧乏ゆえ小学校卒業後女中奉公に出された。最初河童(がたろ)横丁の材木商から声がかかったが、父親はそこにゆくゆく妾にするとの意を読んだので断り、日本橋の古着屋に出した。材木商は炯眼だった。のちに曽根崎新地のお茶屋へおちょぼ(茶屋などにいて娼妓の用を足す十三,四歳の少女)になり、17歳で芸者になった。彼女は声自慢で、陽気なお座敷にはなくてはならない妓で、はっさい(おてんば)で売っていた。
これが蝶子の設定ですね。お弓と比較してしまいますが、全く違う印象を受けます。もちろん東京の花街にも、こういう陽性の女性は大勢いるんでしょうが、でも不思議なことに、たとえば東京の芸者は、ツンと高い鼻の美人を連想してしまう。これは私だけかい。蝶子のような明るい人のよさ、人好きする女性は大阪が似合いそう。あたしには東京が似合うわね。(冗談だよ。笑いなさいよ。)
たしかに言葉が違うと、何かが違ってくる。不思議だ。
今言った「おちょぼ」や「はっさい」という言葉こそポイントじゃない?この言葉に込められた、付け加えられたニュアンス。その微妙さだよね。なんだろうなあ、これ。「雑用をする少女」「おてんば」とは違うよなあ。でもどう違うのって、説明できないよ。
「河童横丁」と書いて「がたろよこちょう」と読む。これも気になるな。「がたろ」の方がなんだか邪悪な、気味の悪さが引き立ってくる。言葉の響きが小説世界を関東とは違うものに仕立て上げてくるねえ。そこが嫌だという人もいるだろうが……。
そんで、柳吉の方も独特な男だ。うまいものに目がなくて、しかしそれが安価な料理だった。「高津の湯豆腐」って江戸時代からの有名な料理でゲテモノではないだろうが、つまりあんまり高級とは言えないグルメということらしい。
そして、多少の吃音がある、ということになっている。実は僕もなんだか妙に緊張する場面でちょっと吃音になる時があって、自分でもびっくりすることがかつてあったんだけど、柳吉の場合これが却って誠実さや人柄の良さを示しているように読んだ。
「ど、ど、ど、どや、うまいやろが、こ、こ、こ、こんなうまいもん何処(どこ)ィ行ったかて食べられへんぜ」
こんなことを言って蝶子に奢ってくれる。蝶子には彼が頼りになる男のように感じられたんだ。殿様のおしのびめいた感じの食べ歩き、そして父親の油滲んだ手を思い出させるようなことからだんだんと二人は親しい仲になっていった。柳吉の家では寝たきりの父親が居たが、その父が通帳を握っていて「釜の下の灰まで自分のもんやと思たら大間違いやぞ。久離切っての勘当……」と申し渡されて家を出なければならなくなる。彼は東京に未集金がずいぶんあるのを知って、蝶子に「ものは相談やが駆け落ちせえへんか」と。この辺の誘い方も、面白い。
二人は東京に行くが大震災のために大阪に戻り、蝶子はヤトナ芸者というのになった。自分の力で柳吉を世に出してやる、と腹を括ったのである。
こうした話の流れはまさしく女が引っ張る男、という大阪の定番物語構造。妻が苦労して夫を世に出そうとする。「糟糠の妻」って日本人の好きなパターンだからね。この時柳吉は山椒昆布を作りながら、彼女に金をせびり、「僕と共鳴せえへんか」と安カフェの女性に迫るんだ。
いつでも食べ物と恋。恋愛はどの作品にも絡むんだけど、ここでは食べ物、それも高価なものではない食べ物が絡む。そうでない作品もあるけども、大阪には食べ物が、なぜか似合うんだよなあ。そしてその言葉もね。「どや、良え按配に煮えて来よったやろ」と昆布の沸具合を自慢し、「僕と共鳴せえへんか」と口説く男の滑稽さ。東京には似合わないな。そう思わへん?
「へん?」おまえ足柄の怒田出身だろうが……。
まあいいや。さて、ここで今回は言葉が与える印象の違いを話し合いたい。『河内屋』と比べて『夫婦善哉』はどう?
東京の下町ではこんなふうに喋っていたのか?
口調で思い出すのは『河内屋』のお弓とお倉の語りですねえ、強烈なお倉の口調ですねえ。すごくお倉の語りに違和感があって……。簡単に言って男のような乱暴な言葉遣いにびっくりしました。いや、偏見を持っていることになるかもしれないけど、あのおッ母さんの言いようはちょっとねえ。実際の当時の江戸言葉とでもいうのか、年配の女性の普通の言い方だったのか……?(でも、それほど言葉というものがジェンダーの問題に関わっているということだよね。)
・「お前の様に解らねえ児ッちゃあないよ。何もお前、あんなに怒らせてまで返(けえ)そうとしねえだっていいじァないか。しようがないよ。構うもんかね、いなさるだけ置いとくがいいんさ。客を勧めて無理に返すなんて、あんまり馬鹿馬鹿しいじゃないか」
・「なんだとえ。どうするか。関わないで見ていろと言うのかい。いんにゃ、おいらにゃ黙って見てる事ァできねえよ」
・「そんな事は今更言わないだッて、此家(ここ)を開業(だし)たのも、お前の働きなんだから、そりゃ言わねえだッて知れ切ってらァね。それだから母親(おっかア)も心配するんさ。お前が今ッから老け込んでくれちゃァ、おいらがどうしようたッてしようがないんだから、心配して種々(いろん)な事も言いたくなるんさ。お前も考(かんげ)えてみるがいいよ。今じゃァ河内屋さんより他にこれというお客があるんじゃァなしさ。お前が今ッからそんな気になられちゃァ、おいらだッて心配しねえじァ居られねえよ」
「はすっぱ」という言葉があるけど、こういう言い方をする女のことなんだろう。しかし、これはお倉からすれば、自分たちの世界を渡る女の自恃を主張する言葉だったのかもしれない。「あたしたちはこういう世界に、女一人で生きているんだ」という気持ちの現れだったのかもしれない。彼女たちの感じる「粋(いき)」が言葉として現れる、そんなところを読者が感じるんだと思う。
単に男っぽい、荒っぽい言葉、そして女たちのどうにでもなれ、というような自棄の心。そんなものが充満している空間。という感じでもないというんだな。むしろ一種の自尊心が感じられるのかな。
方言は標準な言葉を拒否した集団のプライド
それで『夫婦善哉』ですけど、何か江戸弁の醸し出す雰囲気に対して、大阪のプライドみたいなものを感じさせます。二つ並べると、特に大阪の言葉の柔らかさが感じられます。このことを関西人は、自分たちの地域についての優越感としてもっている。特に関東や東北の方言に対して、自分たちの言葉が洗練されていると思っている人が、年齢問わず多いのではないか。
テレビなどでも言葉、食べ物、風習の違いをおもしろおかしく視聴者に伝えている番組が人気だ。そこに出てくる「地元民」が地元の物事が一番、と一生懸命に主張している。こういう心理の中には、自分たちの周囲の物事が認められないことへの口惜しさ、悔しさがあることも事実だ。どうしてこんな心理が働くんだろう?この感情が行くつくところ、それが「誇るべき日本」というネトウヨたちのさもしい言説だよ。これはみんなには賛成してもらえないことかもしれないが、ずっと一本で繋がっていると思うよ。
いやちょっと待って、それは言い過ぎだよ。自国を愛す、文化を大切に思うことは。そんなに責められること?おれは日本の穏やかな精神性が好きだよ。それを世界に発信することはいいことだと思うよ。
そうだ。そういう気持ちが自分たちの言葉を尊重することに繋がるんだと思います。正直にいえば、日本人は主張しなさすぎるように思う。もっと主張し、自慢し、説得すべきじゃないかな。
むしろもっと謙虚に、反省するのが愛国なんだよ
私はそういう主張にはついていけない。いま学校でも臆せず発言せよ、ということを盛んにいうけど、ほっといてもらいたいわ。人には人の選択があるのよ。そういう、心の中に手を突っ込むような教育は、正当ではないと思うわ。私は人に自慢する前に、自分の国の自慢できないところを指摘し批判するべきだと思う。そういう姿勢こそ、他の国の人たちが評価しているんだと思う。
なんでそんなに卑下しなくちゃならないんだ?それぞれの国がその良いところを主張すべきじゃないか。
それは、私がこの国を好きだからよ。愛国心があるから、日本への批判を言うのよ。あんたたちとは違う。あんたたちは本当に日本という国のことを大切に思ってんの?あんたたちは単なる嫌韓・嫌中なだけなんじゃない?
要するに悔し紛れのお子ちゃまなのよ。他国から受けた批判にはもっと大人の態度を持って答えなさいよ。向こうのお子ちゃまの批判に悔しがるお子ちゃまのなんと多いことか……。そんな大人も多いわね。いわゆる右翼の大人たち。内閣にも、そんな女の人がいるじゃない。そういう人たちが、あんたたちお子ちゃま高校生を引っぱって行くんだわ。情けないわ。
と、と、と。まあそんなに対立しなくてもいいじゃん。それに話が変な方向にいってるぜ。
地元の自慢をみんなしたがる、という話が愛国心の表し方というふうに広がっちゃったよ。先生もこんなこと授業で論争しちゃうとまた校長に呼ばれちゃうんじゃないの?
最近の言語研究なの? 本当のことを言っているのは何語?
おう、そうだ。いや、でも、聞き入っちゃったよ。
しかし、方言の問題がいま話してた自分の国、地方、組織のプライドの問題と結びついていることは大事なことだ。誰だって、自分の所属する組織や集団に思い入れを持っていたり、プライドを持っていたり、あるいは反発したりすることがある。その時に各人がコミュニケーションの手段とする言語、方言に基づいて主張するわけだからな。
最近読んだ本で面白かったのは『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』というものだ。難しい本じゃない。結構売れている本らしい。
その中にヒルトン他編『Sound Symbolism』という本の引用があって、それはこうだ。
子供はこれ(=名前の「自然さ」)をとくに強く感じる。[編者]の一人の継娘ステファニーが以前このことを例示してくれた。「英語だけが本物の言語だよね?と彼女は言う。その意味を尋ねると、彼女はこう返す。「えっと、[メキシコ人の友達]ルーベイが「アーグヮagua」って言ったら、「ウォーターwater」って意味でしょ。でも、私が「ウォーター」って言ったら、「アーグヮ」って意味じゃなくて本当に「ウォーター」って意味だもん!」
『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』(今井むつみ・秋田喜美 中公新書)p166
ある女の子の、友達との会話で感じたことを書いているんだが、まさしく、自分の使う言葉へのプライドが小さな子にもあることを示している。もちろんこの本の言ってることは、女の子の言いたいこととピッタリしている、いない、の差の問題なのだが、当の女の子の主張はそれだけではないね。
本書は、「馴染みのないスペイン語の『アーグヮ』では、どこかしっくりこないのであろう。」と書いてあるが、「しっくりこない」という言葉だけでは説明できない母語へのプライドが、女の子の言い分の中には見えているのは確かだ。「私たちの言葉、英語こそが本当の意味を持つことができるんだ。」というプライドがあるね。これは方言にも当てはまる原理が働いているんじゃないかと思う。
感情的になる愛国心、自国の文化への無条件の自信。これがもしあるとすれば、この子供の「water」への自信と同じことじゃないかな。
だから、感覚的な好き、嫌いの感情だけで主張をしているかどうかの自省は誰にも必要だと思うわけ。私だって感情では言いたいことはすごくある。ちょろちょろ喋ってんから、みんなにも私の思ってんことはわかるだろ。
ただねえ、またまた横道だけど、高校の授業でこういうちょっと政治的な話題をも忌避しなくちゃならないのか、という気持ちが正直、あるね。もうちょっと政治的な議論をしてもいいんじゃないかなあ。私の高校生の時なんか、完全に左翼的な思想を語ってた先生もいたけどねえ。反対に中国の悪口ばかり喋ってた先生もいたねえ。最近は全く先生のダイバーシティーなんか無視されてるからねえ。生徒の多様性を認めよう、なんてことはいうけど。
それからね、この新書にはオノマトペについてなかなか興味深いことが書いてある。関西弁が柔らかい、という話があったが、言葉に(特にオノマトペには)柔らかい、硬い、という印象がどの言語にも認められる、と書いてある。共通してk・t・pなどの音はどこの言語でも固く感じられて、m・n・yなどは柔らかく感じられている、というのが調査結果で出ているようだ。関西弁は柔らかい音が多いのかなあ。「血」を「ちい」と発音するねえ。
さて、今言ったように、方言がどうして存在するかという問題だけど、やはり自分たちの仲間だけのものに価値がある、という意識の現れは、狭量な感情でもあり、またより優れたものへの羞恥が反発に転ずる感情でもあるのだろうが、それは古くは『枕草子』や『徒然草』にも書いてある。
『枕草子』には「むとす」というべきなのに「むずる」と人々が言うことに、良くないと言っている。(195段)この段には、「ひなぶ」という語で「田舎っぽい」と切り捨てている言葉もある。まさしく京都人の、上から目線である。
最近は、国語の先生でも「見れる」「食べれる」を平気で使うが、言葉ってほんのちょっとした耳障りな感覚でいろいろ正当な言い方を主張する人もいる。私自身は、あんまり目くじら立てて指摘するのもどうかと思うが、まあ、それほど言葉って感情的になるものなんだね。
おっと、ところでこんな文章もある。さっきのナショナリズムにも関係することだから、みんなからもぜひ冷静な感想を聞きたいものだ。
読んでみよう 『日本語のしくみ』
町田健 編 加藤重広 著 『日本語学のしくみ』 研究社
社会方言という考え方
同じような社会階層に属している人たちは、特に仲間という意識がなくても共通する志向や行動パターンをもっていることがあります。同じことがことばにも当てはまると見るのが「社会方言」の考え方です。一九六〇年代にラボフという言語学者がニューヨークで高級デパート・中流デパート・庶民層デパートの三つで店員の発音を調べ、階層と発音に関係があることを示しました。
社会方言という考え方は、◯✕語とか◯△方言とかいってもみんながみんな同じことばを話すわけではないという素朴な観察から出発しています。二十世紀の後半に主流となった生成文法では、化学でいう理想気体に相当する「理想言語」の記述と分析と説明を目標にしましたが、理想状態の言語を話す話者は実在するわけではなく、個々人によってずれや違いがあるわけです。しかし、個々人の違いやずれは無秩序にあるわけではなく、一定の傾向や方向性や規則性をもっているのだ、と考えるわけです。こうして 生まれたのが社会言語学という分野です。社会言語学は現在では、方言学やコミュニ ケーション研究など、いくつかの分野を含む一つの総合的な学問領域になっています。 ある社会的な条件があれば、話し手がそれほど意識しなくても、同じようなことばを 使う傾向が見られます。例えば、男性のことば・女性のことばにはそれぞれ一定の傾向 が見られます。また、地域が異なっていても、若者のことばには共通性が見られます。 これは、全国の女性が集まってことばづかいを決めたり、若者が自分たちの話し方に統 一基準を作っているからではありません。自然にそうなっているのです。
一方、特定の集団では、自分たちのことばを意識していることもあります。専門家ど うしは専門用語を使って、また、特定の業界の人は業界のことばを使って話をするで しょう。これは、そのほうがより細かく微妙な内容を効率よく話せるからですが、専門 外の人や別の業界の人が聞いても分からないかもしれません。このように限られた人に しか分からないことばを「ジャーゴン」と言うことがあります。ただし、専門用語や業界用語は、もともと回りくどく説明しなくても特定の概念が分かることを目的にしたもので、部外者に分からないようにするという目的はありません。 しかし、仲間内でしか通用しないことのほうを目的としたことばもあります。いわゆる「隠語」と呼ばれるも のですが、これには、外部の人間に知られたくないことでも話せる、仲間意識を高 める、といった機能があります。 機能とまではいえませんが、 ことば遊びとしての側面もありますね。本来、ことばは何かを「伝える」ものですが、こういう場合には「隠す」はたらきをもちます。また、仲間意識を高めるという機能は、内部と外部を明確 に分け、分からない人間を排除するというはたらきもします。分からない人間は「仲間ではない」ということになり、疎外感を味わうこともあるでしょう。こういう機能をもっていますから、隠語はあまり品位を伴うことばとは見なされません。
隠語も一般に知られることばになることがあります。例えば、本来隠語であった「ダフ屋」などは知っている人が多いでしょう。警察関係者が言う「マルソー」「マルボー」 や芸能界で言う「ケツカッチン」や「ばみる」なども知っている人が多いかもしれませ ん。隠語というほどではなくても、特定の職場や特定の学校(あるいは特定のクラス)でしか通じないことばというのは、結構あるものです。
どう?面白いでしょ。要するに、方言や符牒、ジャーゴンなどの現象は仲間意識と排他主義がもとにある、ということなんだな。関西人が、経済的、政治的に劣位にある東京に対して、
そして、ついでにこれも……。横道に逸れるが、外国語を学ぶ本当の理由もあるということだ。読んでみて。
読んでみよう 「外国語を学ぶことの意味』
田中克彦 「外国語を学ぶことの意味」 『国家語をこえて』筑摩書房
ことばの教育は、決して科学になることはできず、それは言語の規範を教えることを通じて、言語外の社会規範をも教えるのである(近代言語学はこの点に気づかせる上で大きな役割を演じた)。人間の 卑屈さというものを、人はまず言語によって学び、言語の教育によって固定されるとさえ言えるのである。そのために言語のもつ自由さ、創造性は、あらゆる制度維持者によって押しかくされ、閉じ込められなければならなかった。オーウェルの描いたニュースピークは、じつは専制国家のためだけのものではない。学校に国語教育が置かれて以来、あらゆる「国語」は、ニュースピークさながら、目 に見えないが、しかしあらゆる領域を浸す権力機構となったのである。
学校国語のページには決して印刷されないところで、それをまるごと受け入れることを本能的に拒む人たちによって、ことばが創られ、発見されている。無意識の膜におおわれて、つやを失った母語への自覚を開く一つの道は外国語である。 外国語は、それが存在し、話され、書かれているかぎり、 人は聞きたいと欲し、読みたいと欲し、他の人々とは異なる言いかたを、母語とは別のことば表現を試みたいと思う。この欲求は自由にもとづくものであり、誰も禁じることはできない。そこでは、ことばじたいが、すでに一つの思想である。外国語を知りたいという欲求は、それゆえに潜在的に、自国の文化や制度のそのままの受容と容認ではなく、それへの不満や批判を含んでいる。無意識に行動を身につける子どもとはちがって、もうおとなになってしまった人間は、意志がなければほとんど何も身につかないからである。外国語の学習は、強固な意志によってはじめて獲得されるのであって、その意味において、マースがJ・グリムのことばに託して言うように、「ことばは教えることができ ず、ただ学ぶことができるだけ」なのである。その教えることができないものを一般的に教えるようにしたてあげたのが近代学校教育であった。
私たちの母語意識、とりわけ国語意識の中には、私たちの近代国家が植えつけられた、ナショナリスティックな母語教育の支配がすっかりとりついていて、それに気づき、それを外から眺めることはもう ほとんど不可能になってしまっているが、「外国語の知識」は閉じられた窓を開くための手がかりを 与えてくれるであろう。しかしここに言う外国語の知識は、「学校内・外国語教育」とはかならずしも一致しない。
この点でいえば、ことば教育を、それ自体として切りはなし、それが持っている社会的かかわりを見ないようにしてきた言語学、より適切に言えば言語学主義の大罪は決してゆるすことのできないも のである。言語学主義は、日本語において、支配被支配を制度的に固定した敬語とか、女用の専門の表現を、体系的に整理し、規範化し、学校国語によって、そんなものをもともと必要としない地域にも全国的に普及させ、強制した。その強制を合理化したのはほかでもない言語学主義である。それをしつけとしてではなく、言語内的体系としたため、それは話す主体である人間の批判の及ばぬ聖域に 持ち去られてしまったのである。日本の言語学は、それが本来持っていたラジカリズムをすっかり骨抜きにしてしまった上で、こうしたナショナルな利益に合致する特性だけを抜き出して維持し、強化し合理化する以外の何に貢献したのであろうか。
この二篇が何を言っているのか、簡単に百字から二百字くらいでまとめることができれば、入試のための評論文読解力はいい線いってると言っていいと思うよ。ただし、意味のあやふやな言葉は調べておいてね。たとえば、「生成文法」とはどんなものなんだろう?、「理想言語」とか、「ジャーゴン」「ニュースピーク」などの意味。そういう言葉を頭の中に貯めておくと、後でかっこいい文章を作れるよ。「生成文法」なんて難しすぎて私もよくわからないが、歴史で「BC」なんてことばを使うでしょ。それを「Before Chomsky]」の意味でつかうべきだ、なんていう人がいるくらい、チョムスキーという学者が与えたショックは大きなものだったらしい。
また、田中克彦の文章は、内容がわからなくてもその強烈さは頭にのこるよ。立派な学者というのはこういう人のことを言うんだろうと思う。「ことばじしんがすでに一つの思想である」、そして「自国の文化や制度のそのままの受容と容認ではなく、それへの不満や批判を含んでいる」というところを読むと、この先生の主張する精神的な健全さのようなものに、感動までするねえ。
とにかく、いろんなことを知っておいて損はないと思う。人間の言語ってのは、不思議なものなんだということと共に覚えておこう。
コメント