単純な友情のお話、なんてことじゃないみたいですね
今回はお馴染みの小説。教科書の定番の一つらしいからみんな読んだことあるんじゃない?それをもういっぺん考え直してもらおうじゃないか。
中学校ではどんな授業してた?まずその辺から言ってもらおうかな。
僕は中学2年で教科書で読みました。正直感動もしなかったし、なんか先生が友人の大切さを強調してた。申し訳ないけど、感動の押し売りみたいな感じがしてた。そんなにいい話かなあ、と。
私も中学2年の時に読んだ。わりと面白いと思った。と同時に私は友人に限らず他人を信じる、ということの厳しさ、というか……。つまり、……他人に対して簡単に「信じている」なんて言えないことなんだというふうに思った。そんなこと覚えています。
やっぱり、中学生の私に与えたものはずっと残っているようです。だって他の教科で習ったことは忘れてしまったことも多いんだけど、いくつかの国語で習った作品はなぜかみんな覚えているようですから。「ああ、あの話か……」ってね。けっこう「刷り込み」的に入ってるんじゃないでしょうか。
今ではこう思うんです。この小説を「バカくさい、ありえない話」とは、私たちは考えなかった。むしろ素直に、というか道徳的に、「こうするべきなんだ」という話として捉えていた。そしてそれで何の問題もない。それでいいんだと思っています。
人を信じることは大変なことだが、大事なことです。
先生は、それじゃいけないというんだろうけど、やっぱり国家が「信義を大切にする人」を作ろうとするのは当然じゃないの?それは別に悪いことじゃないと僕は思う。国の方針としてこういう小説を生徒に読ませて、頭ん中に染み込ませておこうとするんでしょう。目指すべき人間像って、国にも、学校にもあるんだからね。
そうそう。先生、意外に今の中学の国語の授業ってみんな流行りの「話し合い」ばかりですよ。この授業と変わりないですよ。いつもグループになって、どう思う、こう思うの連続ですよ。先生によっても違うかもしれないけど、決して知識押しつけじゃあないですよ。
そして、僕たちは、そういう授業の中でうまく泳いでいく方法を探って生きてきたんです。小学生の時からです。教科書の作品に「感動した」という感想を先生や、教室のみんなに示していくんです。もしかしたら今、ここでだって同じことかもしれません。もっと言えば、先生や級友に見せている仮面を自分の本当の顔だと勘違いしているのかもしれません。『走れメロス』の、人を信じる姿に感動しました、と仮面が言っているのを、その内側の本当の自分の顔は人ごとのように聞いている、ということかもしれないです。
うーん。それもまた仮面が言ってるのかもしれないよ。おまえの一番うえの仮面の下には何重にも仮面が重なっているのかもよ。一番上の仮面は、「感動しました」と言い、その下には「そうでもないよ、読めと言われたから読んだだけだ」と言い、その下に「いや本当は感動しちゃった」と言ってる仮面があり……、ということになってるかもよ。
ヘー!オレって、複雑!
まあ、冗談ぽいけど、本当かもね。でも私には丁寧な仮面で発言してね。
さて、どう?ほかの複雑な若者たちは?
驚くべき単純な男。それが一日で変わる
正直、あんまり小説で感動したことはないので、私もこの小説には「ああ、そうですか」って感じだな。でも、話の筋は妙に頭に残っている。やっぱり自分の行動で、どうすべきかということについて影響されてるんじゃないかしら。あんまり道徳的な行動というような縛りじゃなくて、人は信じ合うことで世の中うまくいくよっていう単純な行動の基準、それを言ってるような気もするんだけど。
うん、これもそれぞれあるね。
さて、これまで授業でやってきたように、もう少しひねくれた読み方はないかな。今聞いたところでは、中学校の「走れメロス」授業でも、道徳押しつけの授業ではないようだけど。
とにかく、この主人公メロスという男の単純さ。驚くべきこと。だって、街を歩いてて王様の噂を聞いて、怒って、ナイフを持って王宮に入ろうとしたんだろ?バカじゃねーの?って……。基本的にこんな主人公を設定することが、もう小説として成立してるとは言えないよ。何か意図するものがあるのなら別だけど。
その王の言い分も変だよ。「おまえにはわしの孤独がわからぬ。」とメロスに言っているけど、暴政の原因は「孤独」だと言ってるんだよ。孤独だから人々を疑って殺してるんだというのかな。
そのあとで、周囲の人間たちへの不信が語られるが、孤独と不信は同じものだろうか。不信は裏切られた結果だからわかるけど、孤独が暴政の原因になるとはね。オレだって孤独だけどクラスの連中に暴力振るったりしないぞ。
王はメロスが戻ってきて、友の命を救うという事態になった時、その自分とは直接関係ないところで示された友情の結果に感動し、その不信、孤独の恨みを忘れてしまい、彼らの仲間になることを望む。自分が裏切られた体験は明らかにされないように描かれているけど、その体験を忘れて感動するんだ。メロスたちの友情が自分と関係のないところで発露されているだけなのに王様は感動する。本当にこの王様も安直な気分屋であることに驚く。なにもメロスたちは王に対する誠意を示したわけではないんだ。あくまでメロスたちの二人の間の関係の問題なんです。
王は人間に感動したんでしょうよ。でも、そうであるなら、僕の予想としては、きっとまた彼はどこかで人間不信に陥りますね。だってこの王様はあまりに簡単に人の「信実」を信じますからね。現代ではあり得ない心情の変化だから、古代ギリシャの話にしたのかなあ。おとぎ話にして単純化していることには作者の意図があるような気がする。
生意気のように思われちゃうと思うけど、何か作品の完成度っていうか、そういうところに問題があるんじゃないかな?今の意見のように登場人物の設定が単純すぎると感じてきました。
でも、それにもかかわらず私たちの頭の中に残る物語だということも事実です。じゃあ、それななぜ?。それを考えるべきじゃないかと……。これは中学ではやらないでしょう?
そこに私も引っかかった。単純に見える人物たちをどう考えるのか。それでもなぜか頭に残る作品、ということね。
私はそれを考えてる際に、メロスが十里の道を行き帰りした、ということに気がついた。
つまり、以前に教えてもらった、物語は「行って、何かして、帰る」という基本的構造を持っている、ということに関連して考えられるんじゃないか、ということです。「浦島伝説」の、「舞姫」の、「坊ちゃん」の、それぞれの物語構造の中にあるものと同じじゃないか、ということです。
考え方は、シラクス→故郷の村→シラクスという移動の物語、というわけです。そして彼の体験したこととは何か。簡単に言えば故郷からシラクスに戻る道でのいくつかの試練ですね。
ナラトロジーっぽくみることができる
そこ、ちょっと口出して、悪い。これ、前にはこんなことは言ってないよね。
このあいだ大谷翔平の活躍に関連して思ったんだ。なんでこんなに野球が人気あるのかなあ、ってね。私自身も、同級生の岡田率いる阪神を応援する一人なんだけど。去年はすごかったな!いや野球の話。
これ無理なこじつけかもしれないけど、打者が球を打って、走って塁を巡ってきて、最後にホームベースへ戻ってくる。そこでやっと点が入る。戻ってくることで点が入る。ここが野球の話のミソで、つまり物語の構造と同じじゃないか、ということよ。たとえばよ、三塁までたどり着いたら一点になる、なんてルールにしたら、なんか気持ち悪いわな。
野球では三つの塁を経てホームへ帰ってくる。この三つというのも物語においての主人公の越えるべき課題の数としてちょうどいいんじゃないか。映画だって、主人公の前に立ちはだかる障害はそのくらいの数じゃん。障害が一つだけでは物語にならないし五つも十もの困難を乗り越えて帰ってくるようでは、物語はだれちゃうよ。
野球と物語って意外と共通したものがあるんじゃないかな。
ちょうどメロスは川の流れ、山賊、フィロストラトスによる断念の忠告。この三つを乗り越えて城に辿り着く。
ちょうど具合がいいんだよ。
へえ、なるほど。「ナラトロジーとしての野球」ってことか。日本人は物語が好きだから野球も好きなんだということね。でも確かに野球のベースが四つなのは何か意味あるような気もする。
話を『走れメロス』に戻して、この小説が、「行って、何かして、戻る」という構造になっているということはわかった、として、大事なところは、何かして、という部分だろう?行って帰るだけなら誰でもできる。どこにこの物語の価値があるの?可愛い妹の結婚を見届けることが大事なの?妹の幸せに命をかける兄、というところが作品の価値?
妹なんかほとんど出てこないよ。さっき「川の流れ、山賊、フィロストラトスによる断念の忠告」というのが出てたじゃん。メロスの体験したこととはシラクスにもどる道筋での困難に尽きるよ。
問題は、そこで何をメロスは得たのか、ということじゃないでしょうか。メロスはどう変わったんでしょうか。
場面は、やっとのことで濁流を越えることができて、その先の峠にたどり着いたところ。山賊が待っていた。それも一気に峠を駆け降りたところ。彼はもうヘトヘトになっていた。後悔と弁解、言い訳、自己批判、友への謝罪などが繰り返されている。
特に気になるのは、ここでメロスは完全な自己否定の境地にには至っていないということ。メロスには今まで貫いてきたという自覚、つまり正義感、勇気、力強さなどの美徳が強くあるという自覚があった。そういう自分なのに今は何という姿だ!という気持ちだ。つまり、全部言い訳。「勇者に不似合いな不貞腐れた根性」という自己評価が僕にはすごく嫌な印象なんだ。メロス、何様だよ、勇者じゃねえだろってね。「ああ、もう、どうでもいい。」っていう表現もあるね。
まあ、完全な人間なんていないし。また完全な人間じゃあお話にならない、っていうところじゃないの。
そういう人間が、どうして精神的復活を遂げたんだろうか。ここがいちばん引っかかるところ。本文では……
ふと耳に、潺々(せんせん)、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々(こんこん)と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!メロス。
岩の裂け目から湧き出るひと掬いの水が彼に自分を取り戻させている。こういうものなのかなあ、というのが僕の感想。
メロスを復活させたのは何?謙作は?
それが不思議なんだけど……。ありえない、とか、ありそうだ、ということではなく、つまりこの小説の一番の解釈のしどころだと思う。
さっきの話。物語は、「行って、何かあって、帰る」というのが典型だ、みたいな話があって、その何かある、ってのが何か。それが大事という話も出ていた。その答えがここなんだ。
メロスを変えたのは一杯の水、自然だよ。それこそ、何だか不自然のようだが、自然が彼に或る癒しを与え、立ち直りの力を与えたんだ。これ興味深いよ。
僕は同じようなことを(まだ読んだことないけど)『暗夜行路』にあったように聞いている。自然が主人公を癒す、という大きな物語の構造が指摘されていると聞いていた。『暗夜行路』と『走れメロス』って、根幹は案外同じようなことを書いているんじゃないかなあ。
ああ、『暗夜行路』の大山(だいせん)の場面だね、なるほど。『走れメロス』は、自然が人を恢復させる物語でもある、ということか。私たちは人生でいろんなダメージを受けるけども、それを優しく包んでくれるものは自然だった、っていかにも東洋的だね。類型的かもしれないが、なんか納得させられるとこであるなあ。西洋なら自然の代わりに神様の出番かないかな。フローベール『素朴な人』なんか思い出すね。
でもそれって皮肉だなあ。志賀直哉と太宰治って相当軋轢があったというぞ。太宰が志賀直哉に食ってかかったのが『如是我聞』という文章だが、一度読んでみてみ。まあ、今話題にしていることはバルトなら、作品ができたら死ななければならない作者を、生きかえらすようなことなので、無視してもいいんだけど。
先生、これはなかなか面白い指摘ではないですか?でも私、『メロス』と『暗夜行路』なんて連想できなかった。なんか、拝出君には悪いけど、トンチンカンな解釈じゃないですか?誰かこういうところを指摘してるんですか?
いや、知らん!
でもまあ「そう読んじゃったんだから仕方がない」がモットーだから、仕方ないじゃん。
メロスは岩清水、陽光によって、つまり自然によって恢復する。彼は自然によって希望を持って生きることができるようになった。いや、たとえ友が死んでいようとも自分の生を生ききることができるような気になれた。もう、セリヌンティウスの生死も問題とはならないようなものを彼は手に入れたんだ。これがもし本当にあるんなら本当に素晴らしいことだと言ってもいいんじゃないかな。確かに、物語だなあ。物語のプロトタイプというか……。意外やこの『走れメロス』って、道徳的な話ということ以上のものかもしれないわ。
そうだねえ。それについてはみんなどうかな。水ひと口で「夢から覚めたような気」がして「歩こう。行こう。」ってなるもんかね。
誰も意見ない?だってそう書いてあるんだからねえ。
じゃあ、ここも私の考えを聞いてもらおうか。
結論からいえば、自分なりの発見の「身体的了解」とはそういうものだと、昔から言われている。この本文はたぶん正しいんだ。
岡野。アルキメデス知ってんな?
ギリシアの数学者でしょう。
ああ、水中で体が軽くなることを風呂で体験して、アルキメデスの原理を発見したっていうことを先生は言いたいのか。「エウレカ!」と叫んで裸で走り出したとか言われている……。ちょっと違うような気もするけど、とにかく「なんとひらめいちゃった!」という驚きとか感動みたいなものは、確かに共通しているかもしれないですね。
目指すものは接地的理解なんだ、ということ
同じようなことはいろいろ伝えられているよ。例の内田樹の著作(『先生はえらい』(ちくまプリマー選書)に教えられたんだけど、能に『張良』という演目があって、張良が兵法を会得した時の事情がやはりこういうことにあったようだ。(調べてみると話がちょっと違っているようにも感じるが……。他の本でもその逸話が載っていたな。)
また『言語の本質』(今井むつみ、秋田喜美 著 中公新書)でも、認知科学学者のスティーブン・ハルナッドは、身体的な了解にいたらないAIの記号処理をたとえて、「機械が辞書の定義だけで言葉の意味を「理解」しようとするのは、一度も地面に接地することなく、「記号から記号への漂流」し続けるメリーゴーランドに乗ってい
るようなものだと述べている。」と記してある。(p126)
この接地にはどうしても自分で自分を接地させる何かを為さねばならず、どの赤ん坊も母語習得にはこの体験をしているはずだというんだ。
これが、メロスにも起こったんだと考えたらどうだろう。
さて、一つの答えとして、この体験をきっかけとしてメロスは再生したとして、まだまだこの小説には変だなと思うような記述があるだろう?
初めの王城でのメロスの王への語りについて、誰もが気になるのは、
「ああ。王はりこうだ。うぬぼれているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟でいるのに。命乞いなど決してしない。ただ――。」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落とし瞬時ためらい、「ただ私に情けをかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えてください。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰ってきます。」
と、王への懇願の文には不自然に(あるいは自然に言うべき?)敬語で話しているということだ。メロスが無計画で、激情的で、ある面で打算的な男ではないか、とも思われるような子供っぽい男だ。
そして最後には、友も死なないで済んだ。そしてここで王の態度が激変したんだ。この王様の様子はどうよ。お仲間に入れてくれ、なんてなんか違和感ある終わり方じゃない?
そう思う。ここ、説明しにくいなあ。
なんか納得できないなあ。
……ご意見出ないね。じゃあ私から言わせてもらうか。一つの意見にすぎないけど。
たった今ハルナッドについての記述に関連して『言語の本質』っていう本を紹介したんだけど、赤ん坊が言語を獲得していく時に乗り越えていかなければならないことが、ブートストラッピングサイクルだという。自分の力で自分に靴を履かせる、というやつ。これがないと赤ん坊は言葉を身につけられない。人任せではダメ。自分だけが自分を引っ張りあげられる、というんだった。ヘレンケラーとサリバン先生の話もあったね。サリバン先生の努力もあっただろうが、ヘレンケラーの自力の発見でしか、この驚くべき体験は起きなかったんだ。ヘレンケラーには強烈な了解したいという欲求があって、それが「そうか!」という身体的な了解感をもたらした。それと同等の体験をメロスもしたんじゃないかな。
反対に王様はどうだろう。王は自らを引っ張り上げただろうか。また、王はメロスたちに受け入れられただろうか。私はそう思わない。この結末は、決してハッピーエンドじゃないと思うんだけどね。王様は自分自身の力で精神的な向上を果たしていないのではないか。感動は決してメリーゴーランドの非接地状態から抜け出ていないと思うけど
ね。(このあたりはぜひ本を読んでみてね)
王の感動を見て、人々はバンザイして、読者も良かった良かったという結末。
私はここにも非常な違和感を覚える。王はメロスとセリヌンティウスに認められたのか。二人が王を受け入れたということは明確に書いてないよね。周りの人々は浮かれてるけど、正直なところ、私は「読者よ、お前ら太宰に騙されてるぞ」なんて思ってるんだ。
さて真面目な話ね。そこで君たちは(私自身も)、この自分の生を、反省してみなければならない。オレは何事かで、自覚的にブートストラッピングサークル状態に入ったことがあっただろうか?と。アタシはヘレンケラーの感動を体験しただろうか?と。ここにいる誰もがそれを母語獲得の場面で体験したはずなのに。もし、その自覚がなかったら手遅れにならないうちに、何か自分を「やったー!」と思わせることができるテーマを見つけないとね。そしてそれに夢中になるという体験をしてみないとね。ずっとメリーゴーランドに乗ってるだけじゃいけないよね。自分への反省もあるけど。
フィロストラトスはメロスについていかなかった!
おっと忘れてた。もう一つ。
メロスの道の途中、友人セリヌンティウスの弟子の青年と会いますね。この人との会話にちょっと引っかかりました。彼はメロスに対してどういう意図を持ってしゃべっているんですか。恨みに思う、と言いながら、もう走らないでくださいなんて頼むのは、どういうことですかね。
それはこの石工も王の策略で、メロスの帰還を失敗させようとしていたということでしょう。だって、メロスに「ついてこい!」と言われたのに、そうしなかった。私はそう読みます。その前の山賊たちと同じことですね。
魔法民話でいえば、国王が竜から国を救ってくれるものに姫を与える、という約束をする。若い王子が魔法を使って竜を退治し、姫と結婚する。これが基本的なんだって、ずっと前に雑談で聞きましたけど。それでこの王は若者の送り手であり反対者の竜でもあった、フィロストラトスはその手先になった、という感じかな。
最後の石工がどういう立場の人間だったか。王の指示によるメロスを邪魔する存在だったのかどうか、これはちょっと根拠が薄いんじゃないかな。まあ、そう考えた方が面白いことは面白いけどね。これはもうちょっと考えてみよう。キリストと弟子たちの関係も連想させるような感じもしない?
いや、『走れメロス』って、つまらん話と私も感じていたんだが、なかなかそうも言えないかも。知らない研究もあるだろうけどね、考えること自体大切だ、と思うことにしよう。
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