では、漱石の『夢十夜』を読んでみよう
次の週、先生の切り出し。
では、漱石の『夢十夜』を読んでみよう。第一夜だな。これは難しい小説だ。何を言いたいの?と聞いてみたくなる作品。わたし自身はこういう小説がどうも苦手で、長い間授業でも避けてきたんだが、みんなはこういった話はどうかな?
いよいよ小説の授業だ。
『夢十夜』なんて読んだことなかった。
死にそうな女。
もうすぐ死にます。あなた百年待ってください。
男はずっと待つ。すると、石の下から青い茎が伸びてきて、真っ白な花が開く。
そこにぽたりと露が落ち、フラフラとした。男は白い花に接吻した。
遠い空を見たら、暁の星が一つ瞬いていた。
百年はもうきていたと、初めて気づいた。
という話だった。何も面白くない。何がいいんだよ、と言いたいくらいだ。これをどう授業するの?
学校で読んだ小説といえば、たとえば僕は『走れメロス』なんか思い出す。これは覚えている。この時の先生は、友情って命をかけるくらい大事なものなんですねと、締めくくったっけ。ふーんと僕は思った。高校生になった今も僕はそんな友達には出会っていない。太宰治という人は幸せな人だなあ、と思いながら、彼が何度も自殺未遂したことを知ると、何か不思議な気持ちになったものだ。でも『走れメロス』はわかりやすい小説だ。「友情を大切にした男たちと、それに心を動かされた王の物語、とでもいうのか。しかし『夢十夜』は何なの?
御神酒徳利の頭の中
先生はこんなことを考えていたらしい。
物語の解釈とはつまるところ「~について」のゲームである、とジョナサン・カラーは『文学理論』で書いている、ということは前に言った。このゲームで重要なのは、人が簡単に思いつくものであってはならない。あるいはどのようにしてその結論に辿り着いたかが、簡単に予想がつくようなものであってはならない。そしてそこに至る解釈の妥当性が間主観的に妥当性を持たなければならない、ということ。
さてそこで『夢十夜』だ。『夢十夜』(第一夜)は何の物語だろうか。漱石の作品を研究し続けている石原千秋はかつて「これは美しい恋の成就の物語としか読めない」としていた。当然こう読む見方はあって当たり前である。今は彼はこの意見を変えているかもしれないが、美しい恋の成就という解釈を生徒はどう思うだろうか。そんな解釈は私は受け入れ難いんだけど…
さて、ふと思ったが、
以前毎日新聞に鹿島茂が書いていたコラム『引用句辞典』は面白かったな。今でも覚えているのは(いくつかあるが)モンテーニュの『エセー』を引用した記事で、学校教育の本質を書いたものだった。鹿島は学校教育の本質は、自分の子供については『愛玩動物のように可愛い』が、また『一番面倒くさいものである』という親の心理が学校を成り立たせる本質だとする。『我がままな消費者』という心理が教育にも応用されているのだと。当たっているなあ。
構造主義とか記号論とかを利用して、こういう問題に、なるほど!と手を打ちたくなる解釈を読むと、おれのような素人はすぐ納得してしまうのだ。
これが今教室で話している小説解釈にも関係している。生徒に話してみるか、いつもの授業のマクラにちょうどいいかも。
今日はちょっと質問から。
なぜバレンタインデーなんかあるんでしょうか?
ハリウッド映画で一番フェミニズム的なものは何でしょうか?
なぜサッカーは手を使わせてくれないんでしょうか?
この手の問題を出すための宝庫は、内田樹の著作物。私の浅薄な知識の大半は内田樹からのものである。哲学がちょっと気になっていた高校生の頃(40年も前!)はこんな良い著作物は(たぶん)なかった。この辺りについての恩人は内田樹と竹田青嗣だな。本当にもっと早くに彼らが出てきてくれていたらなあ、とつくづく思う。文芸評論だって小林秀雄やら平野謙くらい。そして中村光夫か。小林秀雄なんか全然合わなかった。大学入試問題だって、何だか作問している本人だって言ってることが本当に理解できていたのかどうか、なんて思えるようなシロモノだったな。
やっと『夢十夜』
まあとにかく、最初の問題。バレンタインデーは恋の告白は男がするべきだ。女に告白させるなんて男の恥、という社会的ジェンダー差別を人々に確認させるため。
次は、『エイリアン』。女が男の手を借りずにミッションを完遂させるのを初めて描いた。それまでのハリウッド映画は実は女を嫌悪してきた。この映画に出てくるエイリアンの様子は全て「男の表象、性的記号」である。
最後、手を使わせないことで、ファンタジスタと呼ばれるような選手をはじめとして、超絶的技巧が際立って人々に示されるから。なるほどバレーボールではファンタジスタと呼ばれるようなほどの選手は出現しない(だろう)。不自然な不自由さだからこそマラドーナやメッシが生まれるんだな。
というわけで、なるべく新しくて納得できるような論で『夢十夜』(第一夜)に結論を出しておこう。今言ったクイズみたいなものと関係あるんだが、こんな解釈を教わると思いもしない評価の参考になるね。
ひとまず、書き出しからみていこう。夢を見た、とあるがこれはどう?」
夢に見たことをそのまま覚えていることはないと思うけど。これは夢そのものではないですね。
「あー。大隅、勇気出してよく言ってくれたね。」
「いや。でも前回先生はどのように考えてもいいということが基本だと言ったけど、これを夢のまま、なんの意図もなくただ文字にした、と考えるのは間違いだと思うなあ。」
「それはなぜ?なぜ間違い?大隅、どう思う?」
「だって、それを小説として発表して、何より読者が小説として読むわけでしょう?夢をただ文にしたようなものが小説であっていいわけ?何かしらの作者の意図はあるはずです」
「そうだね、どんな小説もあっていいとは思うけど、でもそこはみんなも同意できるんじゃないか。いいよね。これも間主観的な同意だね。じゃあ、ここ以降はどんな点に気づく?」
「まあ死にそうな女で美人。目全体が黒目という点がちょっと気になる。」
「死にそうもないのに、なんか切実感がない。」
授業前に言っとくべきことだったの?
すると、どこからか声がした。「先生はそういう意見とか黒板に書いていくんですけど、それノートにとるんですか?」
「そんなこと自分で考えろよ。」
とは言わなかったが、またこんな質問。いろんなことに指示を出されてそれに従うことに慣れてしまってるんだな。ちょっと可哀想にもなる。高校生ってもっと大人じゃなかった?しかしこういうことにも口出しする先生が多いんだろう。考えたら自分だって同じことをやっているのだが、それは忘れてしまっている。お恥ずかしい。
「ノートはご自由に。さてこの後のいろいろな記述で、読者はどう導かれていくだろう。どんな言葉からどんな雰囲気に引き込まれるだろう。ちょっと用語を教えておくと、読者にある雰囲気に引き込ませる事物を『イメジャリー』と呼ぶ。メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン」』で
フランケンシュタインが生命創造の作業に没頭しているとき、『月が深夜の私に仕事を見守っていた』とある。「仕事」=laborには、『分娩』という意味もあり、ここで月は、人造人間を製作するフランケンシュタインの「出産」行為を象徴していると言えるだろう。
と『批評理論入門』(廣瀬由美子)という本の中に記述がある。この新書は話題になった本だが、いろんな分野の批評に有効で、面白い。興味のある人は読んでみて。またこの授業でも出てくると思うけど。」
「この第一夜にはどんなイメジャリーが使われているだろう、という問題だが、どう?…じゃあ原戸さん。」
えーと、すぐあれっと思うのは、面長な顔。真っ黒な目、その中に浮かんでいる自分、月と赤い日、あと真珠貝なんかそのイメジャリーだと思うけど、どうですか。
「いや、その通りだと思うよ。真珠貝、そして後の方では、百合のつぼみと花、空の星とかね、イメジャリー満載だね。これは全体として読者をどのように誘っているかな。」
「やっぱり、ロマンティックなイメージであり、ちょっと恥ずかしいけど、甘い恋が百年経って成就するっていう話、ということでしょうね。」
「そうだよな。男は一度、騙されたと疑ったんだものな。大体白い花びらにキスなんて、騙されたと思ったならありえない感じだよな。」
私は素直な生徒のおかげで思い通りに話を進めていった。
「この第一夜は結局『女の死後も恋し続けて、百年のちに恋を成就させた美しい物語』とでも説明するべき話ということか。でも他の読み方をした人はいないか?解釈は自由だからさ。」
誰も、何とも言わない。教室は沈黙。
「まあ、いろんな読み方をする人がいるけど、結局この小説の読解のキモは、女は男のところに帰って来たのか、来なかったのか、という点に尽きるようだな。みんな女は帰ってきたと解釈するんだな。」
多くの生徒は頷くのみ。しかし、正直なところどうしてそんなことを尋ねられるのか、わからないというのが顔に現れている。女は死んでもユリとなって帰ってきたんでしょう。ああそうですか、別に何かあんの?というところだろう。
「確かにユリの蕾は瓜実顔にふさわしいしなあ。それに、ユリって漢字でどう書いてある?そう、百と合だろ、いかにも…だろう?みんな気がついてた?」
正直にいうと、それを聞いてびっくりした。気づかなかった。こんなところにはっきりと答えが書いてあるとは。
(先生はわざと、一呼吸置いて言った。)
「しかし、私自身は女は帰って来なかった、という読みをしているんだ。話をひっくり返すようで悪かったけど。
それは、百年経ったら会いにくると約束した女がいて、百年経ったことを男はいつ気がついたか、ということにこだわるからなんだ。男は百年経ったことをいつ気がついたかな?広田から行くか?」
ユリが咲いたときでしょう。女がユリなら、それにキスするんだから。まあお久しぶり、というご挨拶なんじゃねーの?
「ずいぶんすごい挨拶だな。原さん、君はいつ男が気づいたと思う?」
それはしずくで花が揺れた時ですよ。だってその時気づいたと書いてあったでしょう。
「そうだ!露が落ちてきた時だ。その露はどこから落ちてきた?暁の空から。空にはその時何があった?。星だ。暁の明星。金星だ。英語では?ビーナス(愛の女神)。そこから落ちた雫ってなに?」
…… 涙だよなあ。
「圭くん。久しぶりに意見があったね。…って、おい、なぜそんな嫌な顔する?。
でも、美の神の涙だったら、嬉し涙かな、それじゃあちょっとおかしい。もうそこにはユリが咲いているんだから。
私は、悲しみと謝罪の涙ととりたいね。帰ってこられなかった女の涙ととりたいね。百年経って、ユリとしてでしか帰れなかった女の涙じゃないかな。
漱石って読者を騙すのが好き!意図的に読者を間違った方向へ導いて、喜んでいる?
この間ちょっと志賀直哉の夏目漱石評をどこかで読んだんだけれど、志賀直哉は系統からいって、漱石に近しい感情を持っていた人物だったらしいけど、「夏目さんのものは、最後に読者を背負ってひっくり返すものがある」という批判をしていた。(『沓掛にて』)それから漱石の小説が面白いのは、探偵小説の影響があるという見方もあるそうだ。
いつものように、断定はしないけど私はそういう「漱石は騙しの小説家」説を持っている。他の作品でもそれが当てはまるような気がするよ。漱石が今でも読まれているのは、そういう創作作法も理由になっているのじゃないかな。志賀直哉の小説観には合わないところがあるんだろう。
と言うわけで、『夢十夜』(第一夜)女は結局約束を守らなかった説を披露してみた。原稿用紙を配るから、みんなはこれに流されず自分だけの解釈を書いてみてくれ。
それから、『正解でないと気持ち悪い病』をどうしても克服できない人は、この辺から自分を変えていって。成績評価はその書いたものによって文章表現上のうまさ、主張の根拠の強さなどから私の一存で!決めるから。『えー』とか言うな。こういう成績評価こそがこれから君たちが体験する評価なんだぞ」
僕は思った。なんていうことだ。成績評価は公平で公正であるべきだ。推薦で大学に行きたい人は評価平均で人生が決められちゃうこともあるんだぞ。文章の出来具合で決められちゃうなんて、と。
そう思ったが、あとで他の生徒に聞いたら、どんな教科の成績だって根本的にはそういう曖昧なところがあるのは当然だというヤツも多かった。さて、どういうものかな。確かに試験に限らず全て完全に公平な評価なんてないんだろう。公平性なんてありもしないものを、さも実在するかのようにお題目として唱えて評価する。そのいい加減さをみんな知っていながら、成績評価を受ける。どうしようもないね。と今の僕は考えている。
なんだ圭。何か考えがあるんか?思いがあるなら、言ってみちゃあどうだ?
と先生が僕をみている。
いや特にないけど、国語に関していうと、成績を出す時に公平な評価なんかあるんすかねえ。
学校で出す成績評価とはその教科の実力の一面でしかない
「正確な評価なんて、どんな科目だって神様がいなきゃあ出せないよ。だって、1点の差だってどうして差が1点なのか、2点じゃないのか、なんて合理的に説明なんか絶対にできないよ。ならばその積み重ねの点数だって合理的であるはずがないじゃないか。なぜA君の答えとB君の答えとに差がつくのかをうまく言いくるめる先生がいるけど、あれずーっと突き詰めて問われると、完全に合理的な答えなんて出せないんじゃないかな
だけどこうも思っている。それでもやっぱりいろんな人ごとに出来不出来の差はあるなあと。良い答えと、正解としてもいいけど、いい答えじゃないものと。それで人間の価値が決まるわけじゃないよ。でも、国語で言えば、こいつは敵わないくらい文章への迫り方が鋭い、とか、表現力はダントツだなあ、という生徒はいるね。でも、その子たちが全員素晴らしい成績になる、とはいえないよ。
みんなのいるこの高校でも長い歴史の中で文学史に残る小説家を出してきたが、その人たちはすごい才能を見せてきたんだろうな。君たちぐらいの歳で。でも、成績はどうだったのかなあ。あんまり国語の成績と作家としての評価は関係なかったんじゃないかな。成績ってそういうもんじゃないかな。(テレビドラマの大御所みたいな脚本家がOBでいるけど、一度高校の時の成績を聞いてみたいものだね)
まあ、とにかく今日のところは、小説の読み、解釈の多様さを覚えておいてほしいな。新たな自分だけの解釈を発見することは本当に面白いぞ。それをうまく文章化するのがこの授業の最終目標だな。」
というのが御神酒徳利先生のお話でした。現状の成績評価は矛盾が大きいと、僕は思った。もちろん完全な客観的、公正な評価なんか幻想でしかないことはわかっているけど。
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