44 『キャラメル工場から』  佐多稲子

『キュらメル工場から』  佐多稲子  平凡社 「モダン都市文学 Ⅷ」

覚えておこう 時間配列の組み替え

弟の寝床の裾を上げて、ひろ子は朝食をそそくさと終えた。祖母は心配し、もっと食べて行きなさいと言ったが、時間がないとベソをかきながら彼女は工場に出かけた。

四、五日前に彼女は遅刻した。その朝の電車で彼女は遅刻しそうなことを感じたが、電車は労働者風の人がいなかったからだ。電車には身綺麗な人々が乗っていた。すでに工場には入れなくなっていて、工場の決まりでその日彼女は否応なく休まねばならなかった。ひろ子は凍えるよりも遅刻が恐ろしかった。

祖母に心配をかけながらも、朝食を終えたひろ子は軋むような寒さのなか電車に割り込んだ。

彼女の父親は小都市の勤め人だった。三、四年患って死んだ妻の存命中にわずかの不動産も無くした。二度目の妻との結婚もうまくいかず、母親と子供たちを連れて上京してきた。上京後の仕事もうまくいかなかった。

ある晩父は「ひろ子もこれに行ってみるか」と新聞を投げだした。そこにはキャラメル工場の女工募集が載っていた。学校が……とひろ子が言いかけ、祖母も可哀想にと反対したが、父親は強引に彼女に働くことを命じた。「学校の方はまたそのうちどうにかなるよ」と言って。

工場では二十人ばかりの娘たちがキャラメルを小さな紙で包んでいった。全て競争だった。優等者三人と劣等者三人が貼り出された。ひろ子は学校ではいつも張り出されていた。しかし学校では劣等者は張り出さなかった。彼女たちはその成績表目当てにからだを根限り痛めつけた。

キャラメルは女工たちの仕事部屋とは別のところで作られた。「今日はレモンよ」とレモンのキャラメルが作られた日は彼女たちも嬉しがった。やがてそのキャラメルが店に出て子供たちを喜ばせるように。

地下室の瓶洗いをさせられる日もあった。じめじめした三和土の踏み板の上では剥き出しの足も冷たかった。みるみる手のヒビが切れていく。彼女の鼻先からはなみだが落ちた。

一ヶ月がたった。ひろ子も工場に慣れていったが日給制が止められて、できた缶の量で給金が決まっていくことになった。ひろ子の給料は三分の一値下げになった。女工頭は彼女たちを追い立てる必要は無くなった。そうしなくても彼女たちはコマ鼠のように仕事をするからだった。

家では父がなんでもないように仕事をやめろと言ってきた。「毎日電車賃を引きゃ残りやしないじゃないか」と。

まもなく彼女は住み込みである盛り場の中華そば屋へ入った。そこへ郷里の学校の先生から手紙が来た。小学校だけでも卒業しろと。彼女はそれを便所で読もうとした。暗い中でしゃがみ越しになって彼女は泣いた。

先生
先生

もう十五年以上も前に出版された中公新書『批評理論入門』という本がある。メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』をもとに小説についてのさまざまな方法・文学理論について紹介したもので、当時ちょっとした話題になった本だった。好評だったことは続編が出ていることでもわかる。

みんなは『フランケンシュタイン』は知っていても、読んだことある人はいないでしょ?これ読んでみると自分の先入観が間違っていたことがわかる。決して怖ーいお話じゃないよ。漫画とは全く違うんだ。というか、そんな怖さばかりじゃないと言った方がいいかな。で、その新書の中に小説の書き出しについてこういうふうに書いてある。

ストーリー(仏:histoire/露:fabula)とは出来事を、「時間順」に並べた物語内容である。他方プロット(仏:discors/露:sjuzer)とは、物語が語られる順に出来事を再編成したものを指す。

この『キャラメル工場から』では最初に主人公が工場へ通う朝、時間に間に合わないかもしれない、という状況から書き出されている。四、五日前には遅刻をしてしまい、そのときの電車内の空気がふだん彼女が乗っているものと違ったこと、遅れてしまって工場に入れなかったことなどが描かれている。

この部分で読者が仕入れる情報はいくつかある。

・弟の布団の裾をめくったところで朝食を取ること。

・祖母が朝食と弁当を作ってくれる。孫の食事に気を配ってくれる。

・出勤するのに電車に乗るが、彼女がふだん乗るのは労働者や女工たちが客だが遅い時間になると身綺麗な女たちが乗っている。空気感の違いがある。

・遅刻したら工場で働くことができなくなる。

・普段の電車の中では彼女は幼さから周りの大人に痛ましく思われている。

など。我々はそれらを仕入れて物語の世界にすんなり入っていけるのだ。地方の小都市で父親が没落していくプロットと比較してみると、いきなり現在の状況を読者に突き立てることがわかるではないかな。

『批評理論入門』では『フランケンシュタイン』についても、このプロットの手法について、単純な因果関係では説明がつかない、という点で効果があり、また謎やサスペンスが生じると言っている。確かに単純な時間配列の組み替えの効果が小説に与えられるのではないか。

ディビッド・ロッジ『小説の技法』では、小説の冒頭はわれわれが住む現実世界と小説家の想像力によって生み出された世界を分ける敷居に他ならない。したがって、まさに作家がわれわれを中に「引きずりこむ」場所であると言っていい、と書いている。

このプロットという考え方は、みんながさまざまな文章を読む、あるいは書くときに、効果を高める新しい武器として使えるんじゃない?

さてここで、もう一度この小説に戻る。

最初に書いてあるひろ子の生きる社会はどういう社会なんだろう?

彼女は弟の寝ている布団の裾をまくり上げないと朝食を食べられないような狭い住居で生活している。彼女はまだ幼く、それでも家のために働かなくてはならない。仕事は厳しく、朝は暗いうちから家を出て行かなくてはならない。彼女の通勤時間は貧しい労働者の通勤時間で、社会的富裕層はもっと遅い時間に通勤するようだ。(格差が朝の通勤時間に現れている)もうひとつ印象的なのは、ひろ子の祖母は優しくて、孫のことを心配してくれる人で世話をしてくれる。読者にとってはこの点だけがホッとできるところ。

君たちは、こういうところから出発して、この小説世界に入っていくわけだね。この家族が没落していく過程を順に理解していくのとどう違うかな?

佐々木
佐々木

やっぱり、この小説の冒頭の方がいいですね。確かに作者のテクニックに乗ってしまいます。つまり、現実の不合理な弱いものいじめという感覚にされてしまいました。たぶん地方都市での一家の生活から話をされると、何か淡々とした事実の流れ、のように読んだかもしれませんね。感情移入したまま最後の彼女が泣いてしまうところまで行きました。

先生
先生

小説のテクニックとしてこのプロットということは覚えておいといてね。自分の文章表現にも使えることだと思うよ。

じゃあ、また全体の感想や批判なども言ってもらおうか。

確かに物語として読ませるが……

原戸
原戸

わたし、世代的にも当然ですが、昭和、戦前の時代のを歴史の授業でしか知識がないので、正直プロレタリア文学ってピンと来ないんです。日本が貧しかったことはわかります。でも、なんかこの派の人たちの話って変に臭い正義感があるようで……。今だって格差社会ではあるけど、社会主義っていうのが全く現実感を持てないですよね。資本家とか労働者とかいう言葉もピンとこない。今の社会で超高給取りのエリートたちも結構ストレスフルな生活をしているらしいですよ。いわゆる汚れ仕事をしている人でも、意外に高給で人生を楽しみ、余裕がある人はいるんじゃないでしょうか。つまり、昔みたいに単純な善悪の構造になっていないんでしょう?話に出てくる工場主の威張ってる奥さんなんていまいるの?今どき経営者の家族が会社に来て見て回るなんて……。

この小説自体については、自分の中の正義感がメラメラ萌えてきたりするように、確かに面白かったです。ストーリーとプロットの話も納得しました。単純に社会に対する怒りもありました。ただし、今日的であるかどうか、が?ですね。

竿頭
竿頭

わたしも、そう。この子健気でかわいそう、と単純に思う。そして、書いている人のエモーショナルなものが、鼻について嫌味に感じるということはなかった。こういう作品って、嫌味な感じが強いものがあるでしょう?大上段に正義を振りかざすようなのが。

曽宗
曽宗

ただ、やはり父親ですよね。中産階級の出身らしい父親。妻に死なれてから家族を顧みなくなり、没落していく。上京しても自分の役目を果たして行かない。この前にやった家父長の私小説とまるで反対ですね。徹底的にダメ親父として描かれている。この人にライトを当てて描けば、太宰治になるんじゃないですか。だからおれ、太宰が嫌いなんです。読みが間違ってるかもしれませんがね。

丸楠
丸楠

父親は良くは描かれないねえ。嫌われ役だね。たしかに「ひろ子も一つこれへ行ってみるか」とか、「学校はどうにかなる」とか。読者は「誰のせいだよ!」と言いたくなっちゃう。小学生が父親の見栄のために仕事させられて、競争させられて。娘は出来高の給料となって落ちこぼれていく。

ところが、こういう図式は現代だって変わらないんだよ。グローバルスタンダードって言ってどんどん余裕のない社会になって行ってる。っと、これはうちでオヤジが言うんだけど。確かに、昭和の初め頃の女工たちの状況と今、21世紀のサラリーマンと、基本的にはいっしょだと言うんだよ。自分は決して幸せなサラリーマン人生ではないと。遅くまで働いてるオヤジもかわいそうだよ。

基本的には今も、昔も同じ

先生
先生

君たちにとっても、人ごとじゃないね。

でも、この学校だって実はそうだよ。有名大学への合格者数で県立高校も競争させられているんだよ。某S高校と某S高校と必死になって競争してるわ。そして先生たちだってその流れに必死になって流されていってる。それを疑問に思う先生なんて今いないよ。文科省だって、県の教育委員会だってみんな流されているんだよ。とにかく勝たなきゃ、って。グローバルな人材をつくる、なんて言ってるけどさ。どいつもこいつも”2ちゃんねる”作るような人ばかりできたらどうすんの?

岡野
岡野

先生!漱石思い出しますね。最近教科書で読んだ『現代日本の開化』ね。行き着くところまでいかないと仕方ないのかも。

このわたくしたちへの高校教育の不毛さよ!

僕もトイレで泣きたくなるよ。 (嘘つけ!との声あり)

竿頭
竿頭

やはり、こういう小説を読むとある種の感想、怒りとかも喚起されますね。文学ってものにとって、感動と同じ大事な力ですよね。政治的な目的のための小説っていうこととは違うと思う。読書をするという大事な目的と言えるんじゃないでしょうか。今の自分はどうなんだろう、とか、今の日本は、今の世界は、という連想は当然私にも起きますよ。

先生
先生

キャラメル工場、という設定はどう影響するんだろう?たとえばセメント工場だったら?あるいは化学薬品の工場だったら?

丸楠
丸楠

キャラメル工場という場は父が娘を働かせるのに、罪の意識を和らげるものです。そして、その工場での幼い労働者の苦しい労働、というギャップが読者に迫る。少女たちへの巧みな(?)競争心の煽り、そしてキャラメル自体は金持ちの家の幼い子供のお菓子になるんだ。

彼女たちはキャラメル工場にいながら、休み時間に一人一銭ずつ出して焼き芋のおやつを買ってくる。それで自分たちの口に入らないレモンキャラメルを作っていく。食べられるのは、キャラメル作りの時に出るかけらだけだった……なんて、頭に残ってしまいます。こういうエピソードがたたみ込まれることによって物語はスピードを上げていくようです。

でも描かれない他の女工たちは、描かれない

栄古
栄古

僕は気になる人がまだいるんです。病床にある叔父さんとひろ子の弟なんです。最初に工場に行くと決まったとき、叔父は仰向きに目をつぶっていた。弟はそっとひろ子をのぞいていた。この二人の気持ちです。

ひろ子は人柱なんですね。父親はどうしようもなく娘に学校を諦め仕事に出ることを言い渡しているが、この叔父と弟だってひろ子を追い詰めている人間なんです。つまり、この家族は自分たちではどうしようもない罪を作らざるを得ない人たちなんです。何も父親一人が悪いんじゃない。家族の中でひとり働ける小学生を助けてやれない社会(というとちょっと語弊があるけど)みたいなこの国の仕組みがやっぱり問題なんじゃないでしょうか。そういうことは今だって変わらず続いている。世界中で。僕はそう感じました。特に叔父の思いが胸に響きました。

先生
先生

叔父さんね。いいところに気づいたな。叔父は何を考えて目をつぶっていたんだろうなあ。これが間主観的に共通理解が得られることだよな。まさか全然別なことを考えているように読み取る人はいないだろう。叔父はどうしようもない自分を責めている。兄を責められない自分を責めている。辛いだろうなあ。

実はまだ女工仲間の娘たちにも目を向けなけりゃいけないかもしれないが、ひろ子とは違って、もともと学校だのなんだのという気遣いさえ思いつかない娘たちもいるんだよな。

さて、その後ひろ子が工場から退いたところからは、どういうふうに読んだ?中華そば屋働苦ことになって、そこへ故郷から先生から手紙が届くんだが……。

よし子
よし子

ちょっと不満でした。学校に行けないことでトイレで泣いてしまうという結末はわたしとしてはあまりに予想通りで、これこそ「お涙ちょうだい」になっちゃった。実際、感動と紙一重ですがね。

右棘
右棘

学校というものに虚構の価値を置いていることに、現在の高校生である私たちは気づいていますが、それは仕方がないとして、トイレから涙を拭いて出てきたらどうだっただろう。しばらくして店のお客に笑顔で対応するような強さを彼女が持つようになったらどうだろう。少しずつ現実を乗り越えていく姿を見せる、とか。プロレタリア文学ではなくなっちゃうけど、そういう小説にすることだってできると思う。

だって、この時代ひろ子の直面した現実なんてそんなに珍しくはないことだったと思うんです。いや、冷たい見方になるけど、目の悪い女の子もいたよね。あの子のこれからの人生はどうなるんだろう、と考えますよ。現実社会を告発するんだったら、あの女工たちの中にもっと主人公になるべき人たちはたくさんいたんですよ。

こういう小説の主人公って、みんな貧しくても向学心があって頭の良い子。そんなこと考えたこともない子は絶対に主人公にはなれない。たとえば、目が悪くて学校に行くことなんて考えもしない女工。彼女は物語の主役にはなれない。「貴種流離譚」は貴種でなければ成立しないのよねえ。この小説だって、没落という要素がないとダメでしょ?

先生
先生

うーん、厳しいけどそうだね。

触毛
触毛

僕はこの後の少女の幸、不幸ということとはちょっと小説の趣旨とずれていると思います。現実を描く、というのがこの物語ですよ。

郷里の先生から、「たいしたことではないから、小学校くらいは卒業しろ」という手紙が来る。たいしたことない、というこの先生の言葉が彼女の胸に突き刺さるんじゃないかな。たとえこの後ガンガン金儲けをする人生を歩んだとしても、この手紙の中のひと言はまさしくその時の現実を写していると思います。読者が感想として怒りを持つなら、少女に非情な資本家や、家庭に厳しく迫る社会に対してではなく、学校を出て行ったかつての生徒にわざわざ心配して手紙を送ってくれた、優しい先生のひと言に怒りを持つべきじゃないの?むろん先生を責めるんじゃなく、たいしたことなくても学校に行けなくなっているこの過酷な現実に対する怒り、ですけどね。

先生
先生

小説には閉じた小説と開かれた小説があるというけど、一見閉じた小説と見えてもいろいろと考えられるいい例だな。他にも考えれば自分だけの考えが可能な気がする。じゃあ、自分なりに文章にまとめてみようか。

コメント