47 『屋根裏の法学士』 宇野浩二

『屋根裏の法学士』宇野浩二   ちくま文学の森 9

優秀な学生だったんですねえ

大学を出てから五年にもなる乙骨三作は無職で、下宿屋に住んでいる。彼の家は裕福で本人も優秀な学生であったが、早くに父親を亡くし財産も失ってしまった。父に恩がある大池によって学校は続けられたが、勧められた商学校へはどうあっても進学を拒否し、文科にこだわっていた。援助者との妥協で法学部を卒業したのであるが、大池の死後定まった職業にもつかず下宿でくすぶって、人々の観察や妄想に生きていた。
要するに、彼には世の中に処していく最大の要素である根気と勇気と常識が欠けていたのである。世の中にある何もかもが彼にとってつまらないものであり、下宿ではますます妄想をつのらせていた。中学時代には彼は幅跳びの名手で、飛んでいる最中の浮遊感を覚えていた。彼は飛行しようとした。下宿の廊下で、夢に暗示された飛行術で我を忘れて飛ぼうとした。しかし、実際には下宿の廊下に出て踏み切った拍子に下宿のおかみとぶつかってしまったのだった。彼はおかみに言った。「奥さん、浮き世は面白くないね」。すると女は「お互い様ね」とはっきりと答えるのだった。
法学士、乙骨はひとり「なるほどね。なるほどね」というばかりだった。

先生
先生

なんという小説だろうね。このダメダメ感。かえって気持ち良いくらいだと思う人もいるかもせれない。どう?

ダメ男、でも変ないやらしさがない かな?

圭

受験生に読ませるのに適当なのか、と思わせる小説ですね。まあ、先生らしいといえば先生らしいけど。先日やった『キャラメル工場から』の父親とはだいぷ違った色の違ったダメさの芯が入ってるような感じ。

拝出
拝出

日本の小説って、よくダメな男が出てくるようだけど、たとえば太宰なんかそのダメ感の裏側にある恨みとか悲しみとかが、僕には「ウザい」感じがするんだ。でもこの乙骨はそんなもの吹っ飛ばすようなダメ感です。太宰とは違ってこれはいい。結末もぶっ飛んでいていい!

そこで、まず気になるのは、元来彼が上流階級出身で、学歴としてもエリート層に属していること。これは例のお決まりのパターンですね。こうじゃなくては物語は成立しないという、コードに従っている。社会に有効な人材になるなんてちっとも考えない。進学させてもらうことだけでもラッキーなのに、商学の学校は嫌だって!この教室の連中にもっと聴かせなけりゃいけませんよ、先生!

なんと、拝出のツッコミ炸裂!一橋志望みたいな奴らここには何人もいるからなあ。

圭

それで、法学部卒業か。法学だって同じようなもんだと思うけど。法学士なんて今では掃いて捨てるほどいるけど、この時代(明治後期から昭和初期?)では彼らは本当のパワーエリートですよね。それを読者は頭の中に強く刻みつける。「法学士」というくどいほどの強調は、今とは全然違っていたでしょうね、読者にとってね。
ところが、社会には出ない。しかも彼は引きこもることをしない。これが大事です。つまり、後ろめたい気持ちが全くないんだ。高慢で、法学や商業どころか芸術にも不満で、軽蔑していた。面白いですねえ。芸術のために全てを賭ける、というのでもないんですよ。

物語の喪失という物語を持つ

岡野
岡野

今の話だと工学部志望のおれなんてどうしようもない人間かもしれないが……。

まず、いろんな分野、実務的な学問でも何でも、その分野を勉強するということが世間的な成功を目指すためばかりじゃないこともわかってもらいたい。工学部だってすごいロマンがあって目指すんだ。就職のためじゃないんだ。面白いんだよ。

で、それはともかく、この小説では主人公にはどんな分野にもある、本当の面白さがわからないんだよ。かわいそうなやつなんだよ。そうだ。この人は物語を喪失しているんだ。いや待て、「物語を喪失した人物、という物語」を歩んだのかもしれないな。

登場人物の設定で作者が考えたのが、非常に消極的なもので、主人公は楽しんだり、苦しんだりすることは捨ててしまった。そうすることで一つ残ったことを際立たせたかったんだ。

先生
先生

ちょっと待った。なるほど君がいう通り読むなら、残ったものはなんだ?

誰か今の話を聞いて答えてみて。……

拝出!お前が読み込んでいたんだから、チャレンジしてみろよ。

拝出
拝出

ハイ……。乙骨の捨てなかった、最後の問題ですね。
なんでこの世の中は”つまらない”のか、ということでしょうかねえ。やっぱり、なんかしらの”面白さ”は僕たちに絶対必要ですよ。面白さは苦しさでもありますが……

先生
先生

うん、そう読めるな。これは間主観的な合意になるかな。

拝出
拝出

”つまらなさ”を知ったというのが彼の高慢の原点です。オレしかわかっていないだろう、という自負です。

この世はつまらないんだよ、みんな……

岡野
岡野

ところが、そんなことなかった。ここがこの小説の価値じゃないでしょうか。おかみさんが「おたがい様」と言った、この一言が乙骨の意表をついたのは、この世が”つまらない”ことをわかっていながら無学な連中も黙って生きているんだということを知ったから……ということですかね。最後の行で、「法学士、乙骨三作は、尻もちをついたままで、お上の後姿を見送りながら、独り言をいった。」というふうになっています。「法学士」という三文字をわざと付けている、というのはこういうことだったんですね。だから法学士というエリート意識の強調をはじめにずっとやっていたんですね。

なるほど、”つまらない”っていうことは実は乙骨よりも下宿屋の上さんの方がよっぽど知っていた。実感していた。しかもその上で黙って生きていた、ということかなあ。

先生
先生

なるほど。「法学士、」と読点を付けているのはここだけだったかな?

小池
小池

わたしはちょっと別のことを感じました。というのは、階級没落の物語は世の中に多くありますけど、それはいったん没落しないとその後の物語進行の感動が盛り上がらないからじゃないでしょうか。特に教養小説、大河小説なんかそうでしょ。わたしは中学生の頃長編小説を読んでずいぶん虜になっちゃったの。ここで初めて言いますけど『次郎物語』なんです。あれほど感動した小説は今でもないんですけど、最初の方の家の没落はすごく次郎の精神に影響してますね。だから没落は主人公にとって蜜の味なんです。

ユニークなのはこのあと乙骨は”つまらない”ということにあくまでこだわって、決して成功に目もくれない天才だったというところです。つまらない世の中をしんから見抜いた人間を見て、それを追っていくわたしたちにとっては面白いというのは皮肉ですね。

ということは、全てがつまらないという人間を見て面白いと思うのは、わたしたちがみんな全てがつまらないということを、実は知っているからだ。とも思っちゃいました。何だか訳わからなくなりますけど。つまりわかっていて、つまらないことにこだわって生きているんでしょうかね。

「夢をかなえろ」なんて言う先生もいるけど、「浮き世に生きるのはそういうこと」なのかもしれないわね。皆さんはそう思わない?

先生
先生

ちょっと待ってくれよ。幻想の中にある何かでも、それを糧に生きていくってことだってあっていいことかもよ。あんまり極端に走らないで。……え?言ってみただけ?まあ、そんならいいけどさ。

曽宗
曽宗

今の先生の言葉、ちょっと説得力なくない?また授業中に変な流れ作っちゃった、なんて思ったんじゃないの?大丈夫だよ、外じゃあ授業のこと言わないから。

先生
先生

ありがとう。でも、おれみんなに大学なんて行ってもしょうがないなんて言ったことないよ。お好きなように〇〇大学なり✖️✖️大学なりに行ってくれ。

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