われら二十世紀の人間が誇るべき小説の一つ、とD・キーン。ほんとかよ?
この小説を読まなくっちゃ本当の文学がわからない、と誰かが言ってた。へー、そうなの?と、若い頃私は思いながら読み始めたら嫌になっちゃって。どうせオレには本当の文学はわかんねーよ、なんて思ったもんだ。今回2回目のチャレンジ。いちおう読み終えた。意外と面白く感じたが、決して高級文学じゃないと思ったよ。なんで西洋の国で人気があるのかはわかんないけど、今までの小説に比べてそれほどの傑作とはどうしても思えなかった。まあ、君たちのご意見を聞こうと思うが、その前に文庫本の裏表紙に書いてある文章を見ると、
”サスペンスあふれる展開のなかに人間存在の象徴的姿を追求した書き下ろし長編。20数カ国語に翻訳された名作。”とあるよ。
私はへへーと恐れ入るしかないが、腹の中では反発しちゃう。皆さんもぜひ批判的に感想を言ってね。もちろん感動でもいいよ。ただこういう言説に影響されずに読んでほしい、ということ。
僕は安部公房という名前だけは知っていた。なんだか難しい小説で、同じクラスの生徒でも「こういうの好きなんだ!」という男子もいた。できる奴、という見本みたいな生徒だった。僕にはそんなこと言うことはできなかった。全く読んだことないし、読もうとする気にもならなかった。でも少しばかりの興味はあったんだ。
初めて読んで、確かにどこか惹かれるものを僕は感じた。途中で投げ出したいと思うところもあったけど、最後まで読んでみた。やっぱり訳わからない。しかし、そこから何か意味を掬えるようにも感じた。もしかしたらいろんな、大きなものが隠れているのかもしれない。それこそ砂の中に……。
僕はもっと突拍子もない、訳のわからない小説だろうと想像してました。またはむずかしい理論によって構成されているんだろうと。でも、読み出すと案外先へ先へと理解できる進行があって、高尚な文学とは言えないみたい。それとも僕が高尚な文学を理解できるように進歩したのか。(そんなことあるかよ!と、すかさず声をかける曽宗)
まあ、ともかく突拍子もないストーリーとは言えないような、変にリアリスティックな話の流れですね。ここがまずこの小説が評価されている理由なんじゃないかとも思うんです。それでもなお読み取った内容の解釈についてとなると漠然として、すっきりした納得感がないんです。束縛されるということ、理由なく人生を強制されること、それでもその状況に甘んじてしまうこと、などを考えますがそれがどうした、ということなんですよね。
でもそれが名作の条件とはいえないと思う。外国語への翻訳がいくらされたってそれが小説そのものとしての価値とはいえない、とは僕も思います。
改めて振り返ってみると、やっぱり僕はよくわかんない小説だなあとしかいえない。”人間存在の象徴的姿”という言葉が文庫本にありましたが、それってどんな姿のことなんですか。「孤独」?確かに、砂のあるところに団体の行進なんて風景は似合わないもんね。
あるいは「男と女の惰性的な関係」?これは砂は無味乾燥なものを連想させるな。男と女もそういう関係になっていくのはよくある話だし。(ちょっと教室がざわつく)
あるいはこの集落の住人は、どいつもこいつもどうしようもない(ような感じがする)から、……「閉じられた社会の不正義」とかも言えるかもしれない。どれも、物語のテーマとして考えられると思う。結論めいた話になっちゃうけど。
そういうことを意識しながら読めるといいなと僕も思う。
ただし、純粋に楽しんで読む、というか、何かモヤモヤしたものを感じながら読むのはいけないの?不純な読み方とも言えるんじゃないか。先生には悪いけど、この『砂の女』で初めて気になったんだ。”ただ読む”はいけないんですか?
言いたいことはわかるよ。小説を読むことに不純さを持ち込むような感じがするんだろう?
だけど、この小説を読んで、何かを引っこ抜いて頭の中に植える。これは必ず小説を読んですることだろう?たとえばよ、「おれはこれを読んで砂という無機質なものに、人間を支配する力を感じた」とかいう読み方をしたらそれはまさしくその人が(作者の意図がそんなことには無くても)物語を作ったことになる。それはすごく純粋な人間の行為だよ。だから、宣伝文句で「人間存在の象徴的姿」としかいえなかったんじゃないかなあ。
そして、いま「モヤモヤした」という言葉が出たけど、そのモヤモヤに対してある方向から光をあてるのは重要だよ。これは何度も言ってるけど、そういう能力(反論する力や抽象的な語彙で言い換える力など)が大事なんだ。
集落の不正という構造は日本の小説になりやすいの?
じゃあ、お言葉に甘えて言うけど。家に閉じ込められたその周辺の砂の掻き出しについて。部落の人たちの意地悪さやオート三輪とか、すごく日本の田舎のリアルな情景なのに、主人公の立場は「そんなことあるわけねえ」っていうくらい非現実の中にある。このギャップはわざと作ってあるんだけど、これは何じゃ?砂の中で砂を掻き出してどこへ持っていくのよ?そんな徒労の苦役の中に女は一人で男の世話をする。囚人の世話をするためにつきっきりで女が配置されている、なんて喜劇だよ。
その喜劇に、悲劇の主人公の教師が生きる。もしかしたらこの変なバランスがこの小説の価値なんじゃないかなあ。
『楢山節考』の集落と比較しても面白い。僕は『楢山』に一票入れるけど、どうして日本というところはこうなっちゃうんでしょうね?集落というバケモノ的集団による犯罪っていうの。この排他的”ムラ”って映画でもいっぱい作られているでしょう。『八つ墓村』などの横溝正史もそうだし、最近『トリック』って映画もテレビでやってたけど、同じ構造の焼き直しばかりだ。
あの何ともいえない不気味な、頑迷な集団。ああいうのが日本には多い感じがする。そういう観点からなら、『砂の女』じゃなく『砂の村』じゃない?
『監視と処罰』って聞いたことある
そして、この二木という昆虫好きの先生って、あの教科書に出てきたパノプティコンを連想させませんか。フーコーとかいう学者が出てきましたね。監獄の効率的な監視方法で、それが自分が自分を監視するようになっていくというヤツでした。閉じ込められるという点ではこの小説での二木も同じですよ。
22にこういう記述があります。砂の除去という労働を強いられていくうちに彼はこんなことを思います。
いざ仕事にかかってみると、なぜか思ったほどの抵抗は感じられないのだ。この変化の原因は、いったい何だったのだろう?水を絶たれることへの恐怖のせいだろうか、女に対する負い目のせいだろうか、それとも、労働自身の性質によるよるものなのだろうか?確かに労働には、行き先の当てなしにでも、なお逃げ去っていく時間を耐えさせる、人間の拠り所のようなものがあるようだ。
これは、自分を監視する囚人、とはちょっと違うとも思うが、しかし自分を飼い慣らすように仕向けていくという点では共通するものがあると思ったんです。そして、この直後に書かれている幻の城を守る衛兵の話。敵の侵入を警戒していた衛兵がいて、ついに待っていた敵の侵入が起こると守ろうとしていた城自体が幻影であったことを知る、という話も、自分の中にある犯されることのない部分なんていうのは幻想なんだということを語っているように見えます。それはたとえば「自由」です。
ひとつ言わせてよ。まず「八月のある日、男が一人、行方不明になった。」と語り手が言うわけだが、これはわかる。この物語をこれから説明していくわけだ。男が昆虫採集が目的で砂丘に来ていた。ニワハンミョウに執着していてすっかり虜になってしまった。これもわかる。ニワハンミョウの意味するものは思いつかないけど……。わからないのは、と言うよりすごく違和感を覚えるのは2で語られる次の部分だ。
”そうなると、そのニワハンミョウを存在させる条件である、砂に対する関心も、嫌が上にも高まらざるを得ない。彼はいろいろと、砂に関する文献に目をとおしたりしはじめた。しらべてみると、砂というやつも、なかなか面白いものだ。たとえば、百科事典の項目をひいてみると、次のように書いてある。
《砂――岩石の破片の集合体。時として磁鉄鋼、錫いし、稀に砂金等をふくむ。直径2~1/16m.m.》
いかにも明瞭な定義である《……》
ある解説書は、風化や水の侵蝕による土の分解を、ごく単純に、軽いものから順に遠くに飛ばされる結果だと説明していた。《……》
そこで、さきの定義につけ加えれば――
《……なお、岩石の破砕物中、液体によってもっとも移動させられやすい大きさの粒子。》
と砂の説明が続くんだ。
砂それ自体が非常に大きな問題であることはここでわかる。というか砂とはなにか、というのがこの小説に関して読み取りの中心になるんじゃないかということだ。
でも、ひとまず問題なのはそのことじゃないと思うんだ。なんで語り手がここで「百科事典では」と語るのか、ということなんだ。砂に関してこだわるのはいい。でもここは違う。
もしも、この男がこの砂丘まで百科事典を持ってきていて、砂という項目をひいてみていた、と描写するなら何も感じないよ。でも語り手は百科事典を出すことによって突然、生に読者に説明しはじめちゃってる。何のため、とかはわからないけど、そういうことをしている。
しかも、その語り手はすぐに消滅してしまうんだからなあ。だいたいこの小説、語り手の位置がよくわからないよ。
前に示した『批評理論入門』という本では、そういうのをメタフィクション的と説明しているよ。
それで、何よりも「砂とは何か」だ。
これを自分に納得させて読めるかどうかが勝負の分かれ目であるような気がするんだ。
砂って、やっぱりあれだろ。賽の河原みたいなものを連想させてるんだろ。やってもやっても何にもならないってことの表象だろ。そして砂によって閉じ込められて、というのと、絶海の孤島に閉じ込められて、とは違うとも思ったね。だって砂って固体でありながら液体みたいな。そこで砂なら”未練”が残るじゃないか、脱出の。
(誰かが「うまい!」と言った。確かに砂の方が脱出の未練が残る)
それはおれも、そう思った。それに砂って”時間”と考えることもできると。止めることはできないし。しかもここでは砂は木を腐らせて体なまとわりつくんだ。これも時間を連想させるもんだ。
でも、それがなに、っていう感じなのよ。ただ抵抗不可能って言ってるの?
時間って、よくわからないものだね。前に読んだ本では、時間は”人間における実存的な時間性と客観的な時間性の二重性にある”って書いてあった。これだけではよくわかんないけど、いずれ人間が滅亡したら人間の実存的な時間も消滅するっていうことかなと思った。(竹田青嗣『哲学とは何か』)そうすると、砂は客観的時間を表象するものだったんじゃないのかな。
意味するのはなに?ってことばかり気になっちゃって、読んでて不安になるってことはない?そうなること自体「砂のとりことなってしまった広田くん」っていうことなのよ。
おれが「砂の男」なのか?そんなことあるかよ。
どうせここでのわれわれの前提とすれば、ただのホラ話として読んだっていっこうに構わない、じゃなかった?それだっていいんでしょ、先生?
まあそういうことだけど、いや違うかな。よくわかんなくなってきちゃったよ、わたしも。
まだ気になるところがあります。骨です。25で、女がここを離れられないのは以前台風の日に埋められてしまった亭主と子供の骨のせいだ、と言っている。男は骨を掘り出すために九日間無駄にしてしまった、と。これは砂の意味を考えると都合いいエピソードです。つまり、砂が時間なら亭主や子供の骨も、砂によって無化してしまう、無化してもらえる、ということと考えられる。砂は洗滌の魔法だ。
最後には
べつに、慌てて逃げ出したりする必要はないのだ。いま、彼の手のなかの往復切符には、行先も、戻る場所も、本人の自由に書き込める余白になって空いている。それに、考えてみれば、彼の心は、溜水装置のことを誰かに話したいという欲望で、はちきれそうになってい。話すとなればここの部落のもの以上の聞き手は、まず、あり得まい。今日でなければ、たぶん明日、男は誰かに打ち明けてしまっていることだろう。
逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである。
と書いている。男は脱出するだろうか?
「逃げ切った」ハッピーエンドじゃん
その後に突然男の失踪宣告が成立したことがわかるね。文章ではなく行政の届出、審判の用紙がそのまま小説の最後に出ている。これはなに?
審判の告示には7年以上生死がわからないと書いてある。ということは二木先生は失踪者として”逃げ切った”ということですね。
この行政文書の掲示は彼が解放されたことを意味しているとしか考えられないと思うんですが……。正式に失踪者としての資格を得た、ということ。
逃げ切った?!
だって彼はそっちを選んだんでしょう?
そういう眼でこの二つの行政文書を読んで、先生!羨ましくないですか?
うっ……!(と絶句)
ただし、「逃げる」という言葉に必ず付く言葉があるねえ。それは、どう?
「何から」という疑問詞ですね。何から逃げることができたんですか?
失踪はなにから失踪したのか?逃げ切ったのか?
先生はなにも言わなかった。教室のみんなは互いに顔を見合わせた。授業は変な終わり方をした。最後の疑問は宿題みたいなことになった。
後日授業で、キプリング(ジャングルブックの作者)の短編集(岩波文庫)によく似た設定の小説があった、と紹介された。『モロウビー・ジュークスの不思議な旅』。こちらはほとんど呆気なく脱出する話で、どうも関係はなさそうだ、ということだった。先生によれば、全く面白くも何ともない小説だった、ということだ。
「何から逃げられたのか」という問題はその後もいろいろな発言はあったが僕にはどうもピンと来なかった。「束縛」なんていうことを言う生徒もいたが、砂に束縛されていたんでしょう?それはちょっと簡単すぎる。
僕はひとつ考えたが、その答えは、言うとカッコつけすぎのような気がして発言しなかった。それに自分の答えについても自信なかった。自分でもその答えがなにを言わんとしているか説明できなかったし。
その僕の答えは「存在」だった。新潮文庫の裏表紙にあった言葉、「人間存在の象徴的姿」というのはこのことかなあと思った。つまり存在自体が人間を縛る、ということかなあと思ったのだ。失踪証明をそのまま小説に出した意図は、存在がイコール束縛なんだという意味なんじゃないかと思った。何だか陳腐な結論だが……。
コメント