「武蔵は剣聖であり哲人であり……」(菊池寛)
肥後国隈本城に仕えていた宮本武蔵に、ある包丁人が斬られた。包丁人は武蔵の腕を試そうとして、城内で戯れに襲いかかるふりをしたのである。武蔵は包丁人を一刀に斬ってしまった。
その日、この事件より前の時刻にこの包丁人の二男岩太という男が自身の愛人「おきた」と悶着を起こしていた。岩太がおきたに渡した笄(こうがい)が他の女から借りたもので、おきたから借りていた簪(かんざし)を他の愛人に渡していたことを、おきたが知り、そのためおきたが愛想を尽かして別れ話になっていた。岩太は肩をすぼめて外に出た。八方塞がりだった。いっそ乞食になってやろうかと、彼は自棄になっていた。
その夜、店で酔っていた岩太に父親が斬られたという知らせが来て、すぐに彼は実家に帰った。父は包丁人だが、身分は武士であり城で働いていたのだ。岩太は父の遺骸を見つめていた。兄も座っていた。兄は剣の道の厳しさを話し、父の死を受け入れているようだった。そして、だらしない弟に対して今後縁を切ることを告げた。岩太は「そうだ、ひとつさっぱりと乞食になってやろう」と遺骸に「あばよ」と告げて家を出た。
城下町を出ると、水前寺の方へ白川を渡る橋があった。水前寺に行く道は重臣たちの往来も多かった。その橋の下に岩太が小屋を作って住み始めた。兄や世間への面あてに乞食のまねごとをしていたのである。下役人は、この橋の下に住みついた男を排除しようとした。しかし、役人は岩太が庖丁人鈴木長太夫の二男と聞き、眼を見張った。岩太は不審に思ったが、内心うれしくもあった。見廻組の長も来て、「どうか心おきなく」と言って寸志を置いていった。
別れたおきたもきた。おきたは岩太が仇を討つために橋の下に隠れて武蔵を狙っているものとばかり思っていた。岩太も世間の誤解を理解した。こいつは大笑いだ、と岩太は笑った。「――ばかなやつらだ、みんな底抜けだ」
武蔵は朝・夕二度ずつ橋を通った。その時二人は相対峙するのであるが岩太は決して武蔵に向かって行かなかった。二十尺の間を置いて向かい合うだけだった。
世間の連中も色々なものを持ってやって来ては、
――せいてはいけませんぞ、せいては。
――ずんとおちついておやりなさい。
と、すでに始まった試合を長く続くように望んだ。
岩太はそろそろ逃げ出すことを考えていた。他人が持って来てくれるので金はたまり、外の好きなところで料理屋を出したいと考えていた。
秋。八月になった。武蔵はまたも橋に来て立った。微動だにしない。岩太は「……十九、」と数を読みながら。武蔵は神秘的な構えで。そして、静かに歩み出した。いくらか満足そうに歩いていた。
寒くなる頃、「鈴木うじ」と朝彼を呼ぶ声がした。宮本家の者だった。武蔵は昨夜死去したという。使者は主人からの贈り物があると、一枚の正麻の帷子を出した。
「――この二天(武蔵のこと)を父の仇とつけ狙う心底あっぱれ。討てるものならば討たれてやるつもりだったが、その折もなく自分は病死する。さぞ無念であろう。身につけた着物を遣わすゆえ、晋の予譲の故事にならえ」ということづけだった。
「よじょう、とは何だ」と困ったが、見廻組の支配がそこへ来た。岩太は「よじょう」の件で尋ねて、はじめて中国の故事を知り、武蔵の言わんとするところも知った。
岩太は笑い出した。小屋の中で笑い転げた。
のち、彼は城下に旅館をひらき、「よじょう」と名付けた。帷子がその家にあって、三カ所刀で裂かれていた。その旅館を人は「よじょう」と呼ぶようになった。
大衆小説?いや、奥が深いよ。
テレビの時代劇だね、でも、面白かっただろ?山本周五郎という作家の作品だけど、好きな人は今でも大勢いる小説家だ。今はどうか知らないけど、昔は教科書でも採用されたこともあるんだよ。解釈も単純ではないだろうし、もっと評価されていい作品であり、作家だと思うね。
この手の作品は大衆小説として(純)文学とは違うジャンルと見られたり、軽んじられたりすることもあるが、何というか、単なる話の面白さ以上の何かがあるような気がするんだ。話の面白さそのものだって重要な要素であるのはもちろんだが、そのことが何によってもたらされているのか、は大事な視点だよな。
そのほかいろんな視点で作品を見ると、どういうことが言えるかな。いつものように他人を傷つけなければ、ここだけの話ということで話してみて。
仇討ちといったら『阿部一族』ですね。自慢じゃないけど、それ読んだことあるんですよ。何だか武家社会の息苦しいところや、人間の合う、合わないとか、そういう微妙な人間の感情が書かれてあったという記憶。官僚としての鷗外の内心も想像しました。
それで、ちょうど同じ熊本なんですね、舞台が。でも『よじょう』では、別に剣豪が宮本武蔵でなくてもよかったし、場所が熊本でなくてもよかったんじゃないですか?つまり、読者がまずここで何を植え付けられるかをちょっと考えてしまいました。
そしてたぶん宮本武蔵と言えば、剣豪というだけではなく、その晩年の求道的、精神的な孤高さを改めて言わなくとも、読者はその雰囲気まで勝手に作り上げてくれるからだろう、そう思いました。『阿部一族』という作品も、時代精神をもとに読まれるんじゃないか、しかしこの『よじょう』は笑いの対象としてこの精神が扱われているような気がします。
そして、仇討ち自体、「恥の文化」の象徴ですし、それを笑うというのは作者の意図(これを追求するのは邪道でしたね)に沿う読み方じゃないかなあ。岩太は最後のところでみんな笑い飛ばしている。もしそうならこの作品は社会批判の精神も持っていますよ。
それにしても、あまりに勘の悪い主人公だね。この主人公の無理気味の作られ方は気になるな。橋の下の生活というのがまず大胆だ。その橋が藩士の渡る橋なのもおかしい。さらに、そこにいる岩太をすぐに仇討ちのためと思ってしまう役人も、人々が励ましてくれる意味がわからないのも。これらは全て無理すぎる人物設定だ。
あまりにひどい脱落者があまりにラッキーな運命を拾うという物語と見たら、確かにつまらない。
そう、私が想像した筋は、意にそぐわない仇討ちを世間に無理矢理させられて、どうにもならなくなって、武蔵に討たれるというのだった。そして、岩太の死後に彼が実は武士道を固く心に秘めていたんだ、とみんなが認めた、というのを予想していたんです。儒教的教訓であふれた、歴史小説によくあるパターンでしょ。まさか宮本武蔵が実は斬られていた、なんていうパターンはありえないから。
物語なしに生きていけないんだな、ほんとに!
以前模擬試験で『物語の哲学』(野家啓一 著)という評論が出題されていたことがあって、
そこにこんな文章があった。
人間は「物語る動物」である、あるいは、「物語る欲望」に取り憑かれた動物、と言った方が正確であろうか。自ら体験した出来事あるいは人から伝え聞いた出来事を「物語る」ことは、われわれの多様で複雑な経験を整序し、それを他者に伝達することによって共有するための最も原初的な言語行為の一つである。神ならぬ身の人間は、一定の時間ー空間的秩序の中で物を見、音を聞き、物事を知るほかはない。見聞きされた事柄はやがて忘却の淵へと沈み、意識の下層に沈澱する。それを再び記憶の糸をたどって蘇らせようとするとき、われわれは知覚の現場で出会った出来事を残りなく再現することはできない。意識的であろうと無意識的であろうと、記憶それ自身が遠近法的秩序(パースペクティブ)の中で情報の取捨選択を行い、語り継がれべき有意味な出来事のスクリーニングを行っているのである。われわれは記憶によって洗い出された諸々の出来事を一定のコンテキストの中に再配置し、さらにそれらを時間系列に従って再配列することによって、ようやく「世界」や「歴史」について語り始めることができる。
そして、「われわれに不可欠かつ根源的な歴史意識の構成に積極的に参与するのである」とも言っている。さらに
人間の経験は、一方では身体的習慣や儀式として伝承され、また他方では「物語」として蓄積され語り伝えれる。人間が「物語る動物」であるということは、それが無慈悲な時間の流れを「物語る」ことによってせき止め、記憶と歴史(共同体の記憶)の厚みの中で自己確認(identify)を行いつつ生きている動物であることを意味している。
とも書いている。だいたいの主張の流れは理解できるんじゃないか。これを『よじょう』という小説に当てはめると、まず世間の人々は共同体の記憶として岩太の仇討ちがあるものと信じて、また武蔵も自分の武士道という世界の自己確認の上で岩太の仇討ちを信じて、本人の思いもしなかった事態になった。全て「物語る欲望」に取り憑かれた動物という人間の心のゆえである、ということかな。岩太はそれをうまく使って世間を騙し、武蔵をいなし、最後は大笑いをしたわけだ。
その筋を無理矢理創作していった、ということですか?
でも、作品の構造を問題にする人や物語論で言われる人間観ではそうなるにしても、実際の読者は作者の結末までの方向指示に従って進んできただけであって、それで面白がり、満足しているんでしょう。何も武蔵を笑い物にしているという感じではないですよ。私は、単純な「アハ体験」というんでしょうか、そんなものが作品の価値として語られるのはどうなんだと言いたいです。小説の話の流れとして、思いがけないことの発見がないと、別に共同体がどうのこうのと言っても仕方ないと思います。
「予譲剣を抜きて三たび躍り、天を呼びてこれを撃ちて曰く、而ち以て智伯に報ゆべし、と。……なんて笑わせんな!」って言うんです。
もっともだと思うけど、個人的な感想とはちょっと違う僕なりの小説観を言ってみたいと思う、物語について。
『よじょう』の読者として僕は、面白い展開とか、ありえない設定とか、そういう論からちょっと外れた読み方をしてみたいんだ。さっきの話で、物語を求めてやまない岩太の周辺の人や武蔵、さらに歴史小説に儒教的教訓を求める読者を笑い飛ばすような読み方があるんだ、ということは面白かった。そういうのが僕にとってはそれこそアハ体験とかエウレカというか、よくわかんないけどそういうものなんだ。
そして、予譲の話もその上にあるわけよ。『史記』の「刺客列伝」にあるらしいね。私もはっきりとした記憶じゃないんだけど、この話は知っていた。「知己」という故事に続く話だね。
ここでは、『戦国策』に同じ話があるので、みんなにも読んでもらおう。大体意味はわかるだろう?書き下し文もあるし、口語訳もあるよ。
漢文って面白いなあ。なんでもっと国語の時間にやらないのかなあ。僕はこういう話は大好きだよ。塾なんかだと共通テストでのポイントゲットのキー分野だという人もいるらしいし。でも、漢字ばっかりで、アレルギー感覚があるのかなあ。
面倒臭い、は僕らの共通感
面倒くさいのよ、やっぱり。自分自身を振り返って、どうしてもお客さん根性から抜け出せない。学校にもそういう感覚で通ってる。サービスしてもらう立場だという感覚ね。それこそが自分をダメにする根本だって先生も言ってたが、なるほど、とも思うけどそれでも心の奥底で、万能の消費者意識に囚われていることは否定できない。
この先生が喋っていたことは、内田樹の主張の受け売りでしたね。
まあそうだけどね。でも随分その「万能の消費者意識」で君たち高校生は損していると、正直思うよ。街の中でも、「お客様は神様だからあたしも神様」的な大人たちばかりだろう?全てが経済的なトレードの場になってる。保護者面談しててもそれを感じる時がある。ほんと、そういう時は正直腹立たしい。何も、おら先生様だと言ってるんじゃない。おのずとサービス提供とは違う世界があるだろう、と言ってるだけなんだ。サービス業を貶めているんじゃないよ。教育とはサービス業とは別のものなんだということを言ってるんだ。だって、サービス業なら、料金に従ってサービスが違わなければならないだろう?しかし公立であれ、私立であれ、本当の教育って料金の差をつけるべきもんじゃないから。今の教育は私立のサービスを公立のサービスが追いかけていくように見える。本当にその生徒たちのために私立校がよかったのか、公立校が良かったのかなんてわからないよ。みんながつまらないというおじさん先生のボソボソ説明する授業がほんとにダメなのかもそう簡単には判定できない。たとえば、落語家の徒弟制度の修行が効率悪い教育なのか?雑巾掛けのような修行の中で、ハッと気づくものもある。学ぶということは、見かけの効率では計り知れないものなんだよ、この辺りの現象は内田樹が強調している。
それなのにいいサービスなら買ってやるよ、なんていうヤツいるもんなあ。だんだんほんとに腹立ってきたなあ。
先生、燃えてるところすみませんが、漢文の話に戻りますよ。
今回の予譲にしても『史記』には、人間に生き方の例題として読むもの。だからこそ「紀伝体」という形なわけでしょう。1年生の時に習ったけど、この、人間が歴史を作るという考え方は、今でもいえることだと思う。世界中の紛争や、どこからみても正義とはいえないような権力者の横暴も、人間が原因なんだということを改めて思い返しました。つまり歴史は物語なんですね。この人たちは自分が生きる意味を、なんのために生きているのかを、ほんとうに考えていない人たちなんじゃないかと思うんです。「歴史に名を残す意欲」に権力者はとらわれる、その意欲のもとになるものが不正義なら、その権力者の人生は無意味であることが分かってないんです。
この、「なんのために生きるの?」という問いに自信を持って答えられるような生き方を私たちに訴えてくるのが、物語なのでしょう。
予譲の物語でいえば、テロリストとして敵の主君の命をねらう物語という。ところが、ここに問題があると思う。少なくとも現代の人間たちにとって、その執念深さが物語に相応しいんでしょうか。いくら主君のためとはいえ、その仇討ちに辛苦する人間が物語の主人公なんですかね。いくら、儒教的な正義だとはいえ、そんな正義が永遠の妥当性を持っているとは思えません。
いや、そういうことではないと思う。そこはちゃんと説明している。それが「知己」のエピソードだよ。この予譲の話は、全体として「己を知ってくれている人間のためには辛苦しようが、処刑されようが、最後まで尽くす」ということで、決して忠誠の物語じゃないんだ。これは現代にまで通じる価値観だよ。
そうか。それを忠義の物語だと取り違えたのが宮本武蔵だったということかしら。そこがこの『よじょう』の読みのキモなのかな。
ナラトロジーと宮本武蔵
面白い。けれど僕はちょっと違う読み方なんだけど。
僕は前に紹介された『物語の哲学』をちょっと借りてパラパラとめくって拾い読みをしてみたんです。そこに物語る行為をやめられない人間、というようなことが書いてありました。以前の先生の話にもあったと思いますが、「ナラティヴ・セラピー」なんていうのもありましたね。
そこでこの『よじょう』という作品についてこう考えることはできないでしょうか。
まず『史記』をはじめとした典型としての物語があった。「知己」の故事を作った人間の生き方の物語です。この物語を継承する宮本武蔵は岩太も自分と同じような価値観を持っているのだと思って、自分自身の最期の時に岩太に衣服を贈り、新しい物語を作りえたと思った。ところが岩太はそんな故事を知ってはいないで、武蔵を大笑いの対象jにして、さらに自分の新しい仕事になった旅館業の名物にしてしまった。
ということならば、読者はそんな「物語の無意味さ」を読み取ってしまったのではないか。物語こそ実は虚構の上に成り立っていることを笑い飛ばした物語、というふうに言えるんじゃないか。物語を否定した物語、ということ。
かっこいい言い方したな。
ところでリテラシーという言葉がよく使われているね。現在の高校教育に欠けているものは、「金融リテラシー」だとか。盛んに言われている。きっと先生は嫌いだろうけど。でも僕なんか時代に乗り遅れないことも大事じゃないかと思うんですよ。
でも、たしかにこういう漢文とか古典文学だとかについての僕らの世代の知識の無さって、すごく深刻という気がしませんか?この小説では、『よじょう』とひらがなで題名が書かれていることで、作者の問いかけを想像してしまう。つまり、作品を読むときの理解の仕方にリテラシーの差が読みの深さの差になってしまうんじゃないかということ。そういうことを感じた。
つまり、思っちゃうんだから仕方ない、ってこと。
もちろんオイラは金融リテラシーなんか高校教育で取り入れる必要なんかないと思うよ。むしろ小中学ではその手の基礎的な知識はつける必要があるんじゃないかな。人間が金融に踊らされないように、という意味でね。
それから、歴史的に受け継がれていく事項については、それこそ高校で知識を教える必要があると思うんだよ。
「間(相互)テキスト性」という言葉がある(左の事典の説明くらいの知識しかないけど)。われわれがつぐむテキストはそれ以前に成ったテキストの影響下で生きる、というほどの理解しか今の私にはできていないけど、文化が次代へ流れていくことを考えると、なるべくいろんな話を知っていることがその文化の深さを保っていくことになると思うんだ。それは、物語の豊かさを知る、ということでもあるんだよ。
たとえばね、熊本細川家という大名は豊臣・徳川の戦の時代に、自分の家を守るために家の嫁さんを殺す、ということをやっていったので有名だ。細川ガラシャという悲劇の女性を生み出している。そういう生き残りの「上手い」家柄だ、という印象を持っていれば、『よじょう』の舞台が熊本であるということも何か意味がありそうじゃないか。単に宮本武蔵が歴史上細川で晩年を過ごしたことだけじゃあないような……。
だから、読みに格差が生じる、それは楽しさ深さの差にもつながるということはあるな。何も、私が深い読みができる、なんてことじゃなく、より深く物語の楽しさを知ることと関係する、ということだ。
今の話では、岩太がやたら笑い飛ばす、というところからも納得できる読み方だな。ただし、正しい、間違いという話じゃないよ。
それなら、作中で予譲の三回服を斬る、ということの「刺客列伝」の種明かしもなかった方が小説として良かったんじゃないかなと、私は思うけど。その方が読者の、「アハ体験」になるよ。
それはどうかなあ。でも、僕も漢文はもっとやっておいた方が良かったな。理系進学ならなおさらだね。案外この小説は色々話の種が多いね。宮本武蔵も結構笑われているように思えるし、時代小説としては珍しいんじゃないかな。宮本武蔵の漢文のリテラシーというか、思い込みも茶化されているし。
先生は、正直言って漢文や古典文学などの知識についてはどうなんですか?失礼な質問ですが……。予譲の件についてはもちろん知っていたわけでしょう?題名を知ったとき、すぐに『刺客列伝』が頭に浮かぶものですか?
あー?中途半端な知識を持っているに過ぎないわたくしに、君は迫ってくるわけですね。
予譲については小説を読んで、そういえばそんな話を聞いたことがあったなと、という程度でしたね、お恥ずかしい限りで。もちろん「知己」については知っていたし、この時代の、たとえば廉頗・藺相如なんかの話は面白くて覚えていたけど、正直『よじょう』はやられた、っていう感じだったな。
でも、こういうリテラシーなしに高校を卒業して、優秀なエンジニアになっていく、つまり、世間的には成功者になっていく君たちは、武蔵や世間の連中を笑い飛ばす岩太をどう思うかね。
いや、ばかに切り返してくるね。
僕が成功者になるかどうかは別にして、いかにもまともと思える価値観を大事にしていく世間の連中を笑う岩太に、ある爽快感を覚えますね。でもそれも新しい物語になっていく、ということでしょうね。
「物語る欲望に取り憑かれた存在」である人間だからね。物語も常に新たに生産され、消費され、また踏み越えられることになるんだろうね。ただ、物語そのものはやっぱり永遠の命をもつ。ということは、岩太の方がおかしいということか。
とにかくこの作品は興味深いね。
繰り返しになるけど、私もこの作品は物語論に関しても面白いと思う。予譲の物語は予譲の生き方の物語だった。たとえ命を失っても己を知る人のためにはどこまでも刺客として生きる。その予譲の生き方は武蔵にとっては理解できる生き方だ。武蔵も剣に生きる身として、武人として納得できる自分の物語を生きてきた。その物語は武蔵にとって生きる規準であったから、当然他の武人たちにとっても生きる規準でなくてはならないと考えただろう。父の仇として自分を付け狙う若者をむしろ好ましいものとして考えただろう。岩太がそういう武人の子ならば、当然予譲の故事を知っているはずであり、それに自分の死後に着物を与えるという意味を理解してくれるだろうと考えただろう。(そういう夢想が私にはあるから、さっきも出たけど、使者が予譲の名前を出さないストーリーの方が、私も良かったと思うんだが)。
ところが若者はそういう物語の外にいる人間だった。そして、その物語の価値を理解できなかった。というより、理解を拒否した、ということかな。だから彼は武蔵の物語力を商売に使って大儲け?したわけだ。岩太には岩太の物語があったからだ。
そんなふうに考えたわけだね。するとこれは結構大した物語だ、といえないかね。どこかにこういう物語があるのかなあ。私には思いつかないなあ。そういう打算的な物語が熊本細川家にはふさわしい、というと怒られると思うけど、そんな考えが浮かんじゃう、というわけだよ。
今までの話が少しわかった気がします。もう少し、詳しく精密な話も何処かで読めたら面白いですね。
題名の『よじょう』がひらがなになっているところは、どうですか?すぐに中国の故事を連想させないという、作者の意図は感じますけど。
「嫌よ、冗談」?
その予譲を頭に浮かばせないということはあるでしょうけど、作者の意図、という視点よりも、私たちがどう読むかという視点が大事だということでしたね。まあ、そのこと自体強制されなくても良いことでしょうけど、題名として接すると、どう受け止めますか?
私は「ヨジョウ」というと「余剰」を頭に浮かべるな。岩太というどうしようもない若者が、人間として「余剰」というか。必須でない余りもの、ということなのかな。そう感じて読み始めました。また、「余情」というのもあります。ものごとの終わった後の心から消えない味わい、と辞書にある。ちょっとこれは考えものです。武蔵の心遣いでしみじみ終るべき話が、その余情を覆して、現実的な商売成功の物語になってしまった、という。まあ、ちょっとあり得ない感想ですね。
いや、そういうのをひとつの可能性として出すのは大事じゃないの?それは否定すべきじゃないわよ。あたしの個人的な感覚では「なし」だけどさ。
でも、旅館「よじょう」と考えたらどう?ほんとは旅館「岩北」なんでしょう?四畳の部屋ばかりだった、なんて……。いやよ、じょう談。
やっぱり、武人のエピソードからできた旅館、ということを言いたいんだよ。それをはっきりしさせないところが、ひらがなで示すということでしょ。武家社会をおちょくるという感覚が少し憚られるからじゃない?
うーん、面白い。いろいろ発見があったね、この小説はとんだ拾いものだったな。
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