58 『河童』   芥川龍之介    

あらすじ

昭和2年 この年が大正文学最後の年とも

先生
先生

今回はまた芥川を読んでもらう。この作品は大変有名だけど意外に現在読む人、少ないんじゃないかな。昭和2年の発表『河童』。みんなは読んだことない?

誰もいないな。芥川っていろんな短編小説があるけど、最晩年の小説も一つ紹介しておこう。『羅生門』と『鼻』だけじゃあちょっとね……。今回の作品はどう思ったかな?

拝出
拝出

面白いねえ,知らなかったなあ。僕、山岳部ですから上高地は毎年のように行ってるんですが、こんな話があるとはね。一昨年だったか、徳沢で体長50センチぐらいの子熊が熊笹の藪に入っていくのをみたことがあります。ほんとに可愛かったです。その藪には人間が入らないから、河童の国への通り道はあるかも分かりませんね。  

焼岳頂上から見た上高地と穂高
福生
福生

この小説はそんなにバラエティーある読み方が可能かなあ。つまりは、河童の世の中との対比で現実の世の中を批判して見せたい、ということなんでしょ。そういう物語という見方しか思いつかないんだけどなあ。カッパという妖怪のイメージを使ってユーモラスな雰囲気を出したことに新味がある、ということじゃないの?

羅漢
羅漢

そうなんだよな。

たとえば河童の性質ですよ。人間の、真面目に思うところをおかしがる、ということですね。つまりは正義は滑稽なものでしかない、ということを言ってるんですよ。

今でも、日本人って正義に関して議論している中で、それをスマートじゃないと嫌がる風潮がありますね。一方で議論をちょっと茶化すということもありますね。僕なんかも、そういうふうな場面でつい余計なこと言って怒られることがあります。僕も、ちょっと河童の血が入ってるんでしょうか。

拝出
拝出

いやいや。おまえのように河童は繊細なところがある、と言ってるんでしょうよ。正義なんて声高にいう奴ほど正義の本質を理解していないやつだ、ということなんでしょう(羅漢は、褒められて照れくさそうにしてた)。
すると正義に関していうと、滑稽であればあるほどそれは河童にとっても大事なことなんだと。だって河童は「真面目とおかしみが逆というとんちんかん」が習慣だと言っていますから。社会的正義なんか笑いのタネでしょうね。

栄古
栄古

そりゃそうだ。でもさあ、現実の社会の問題点を茶化す、というスタイル自体はもう陳腐化しているよ。現実の不正義をバッサリと切ることで完結するという時代劇の「文法」はもう通用しないだろう。『河童』をそんなコンセプトで読むのはどうかな。現実批判の物語、という単純さは避けようよ。そういうのは面白くない。

『河童』こんなに女が出てこない小説もないんじゃ……

岡野
岡野

……というより、そういうのは「恥ずかしい」。河童は恥ずかしがり屋なんだからさ。僕はこの小説の読解に「恥ずかしい」という感情は鍵になるんじゃないかと思ってる。河童のナイーブさはオレたちにはもう求められないじゃないか。社会だって、この学校内だって「主張」しない人間は生きにくいよ。授業の最後に「自己評価」を書かせる先生がいるだろ、あれなんなんだ?自分の評価なんてなんの意味があるんだ、って思わないか?それとももっと深い企みがあんのかな。

河童の世界でも、女性の河童に捕まっちゃう男河童が嘴を腐らせてしまう。あの河童性(?)は彼だけのものではないと思いますよ。

尽明
尽明

あら、女が男を追いかけるという話は女性解放を象徴するエピソードと考えていたわ。女もアクティブに生きる未来を予想してるんじゃないの?

風向
風向

それは違うんじゃない?この作品の中で、どれだけ女が描かれている?社長河童が実は自分も女房に支配されている、ということは言ってるけど、女なんてほとんど描かれていない。赤ちゃんを堕胎する場面だって、母親は何を思っていたのかなんて何も描かれていませんよね。ただ父親が少し恥ずかしがっているだけです。これが『鼻』の時にやった「傍観者」である作者が描く河童の世界なんです。あくまで傍観者を選んでいるから、女を描かないんじゃないかな。

先生
先生

ああ、女が出てこない、というか、「女が踊らない」て感じかな。そうか、気づかなかったな。

ところで、さっきのお産の時のエピソードは興味深いね。お腹の中の赤ん坊に出てくる意志があるかどうか聞く場面だけど。私、中学生の時に初めてこの『河童』を読んだ時「遺伝の病気で出て行きたくない」と言った、と記憶してしまったんだ。でも今度何十年ぶりに読んで、そうじゃないことを知った。思い違いなんだね。ちょっとショックだよ。遺伝の問題の上に、「その上僕は河童的存在を悪だと信じている」と言ってるんだね。この「河童的存在」の悪、これがこの赤ん坊の問題だったんだよ、きっと。

生まれるのを拒否する河童のいう「河童的存在の悪」って?

丸楠
丸楠

河童的存在の悪、とは何を指すんですか?河童というものが元々持っているものは悪なんだ、ということですよね。難しいですねえ。文脈から考えなければならないですよね。ポッと思いついたような悪ではないですよねえ。何かそれらしいものはある?

拝出
拝出

あるよ。「十一」にある。哲学者マッグの書いた『阿呆の言葉』だよ。最後にこうある。

もし理性に終始するとすれば、我々は当然我々自身の存在を否定しなければならぬ。理性を神にしたヴォルテエルの幸福に一生を終わったのはすなわち人間の河童よりも進化していないことを示すものである。

先生
先生

ありゃ、いいとこ見つけたじゃんか。

拝出
拝出

えへ。と「恥ずかしげな」態度をとっておこう。

さて、「河童的存在の悪」とは「進化」していないことだと言えそうです。いや、それを理解していないことです。特に、阿呆か悪人か英雄はその無理解に安んじている代表だ、ということかな(『阿呆の言葉』より)。自分たちが自分たちの現況を無理解の上で日々の生活をして、ちっともそれについて気付いていない。いつも理性の反省を怠けているということだと思います。読んでいて、正直、怠惰な自分を突かれているような気になりますね。

先生、意外と文意に沿って考えているでしょ?

先生
先生

うーん。根拠もあるし……。私ももう少し考えてみるよ。

袋小路の実感は今もある

丸楠
丸楠

あと、社会労働問題について資本家のゲエルと話すところがありましたね。「八」です。驢馬の脳髄を原料にしてできる書籍、というのは明らかな皮肉ですが、河童の世界には罷業(ストライキ)がなく、解雇された河童は食料になってしまうというところです。無造作にグロテスクな現実をゲエルはいうのですが、有毒ガスで殺すというところ。これも、現代の我々は当然ナチのジェノサイドを連想します。その上さっきの優生思想でしょ。この作品はすごいですね。近未来予知ですよ。

複雑な支配体制も、もうこの時代にはこういう話は一般的だったんでしょうか。特に労働者に味方する新聞社が、実は政治家も資本家も支配する存在だった、なんていうのはそういうことが言われていたんですかね。現在は巨大な資本でメディアを支配しようとするという手法はよくある話ですけど。つまり、好きな人の多いらしいP・K・ディックの先取りみたいなとこあるんじゃないですか?先生は読んだことある?

先生
先生

あるよ。アメリカが戦争に負けてドイツと日本に占領されるとかいう話とか。正直全然面白くなおもしろくなかった。映画も何本かDVDでみたけど、これは結構おもしろかったな。

それより、ストライキなんて君たち知ってるの?今では聞かなくなったなあ。特に日本ではほとんどないでしょ?私の新採用の頃は教員組合のストライキもあったよ。私も参加したよ。河童の国では罷業すると首切られて食われちゃうんだから、ストライキできないだろうよ。日本なんかそんなシビアなことなくたってストライキなくなっちゃうんだからなあ。これもやっぱり日本のだらしなさかもしれないな。あれ、こういう話ダメなんだっけ?まあ、いいよな。

確かに警察や病院とかストライキできないところはいっぱいあるけど、当時だってその辺は考えて行動していたはずだが。いま労働運動ということが衰退したのは、やりすぎたということではなく、運動することへの批判がじわじわボディーブローのように組合に利いてきたからなんだろう。権力は賢いし、怖いね。いつだったか教員組合の会議で、組合本部の役員に「闘争なんてしていないのに闘争とかいう言葉を使うな」と文句言ったら、他の言葉を考えてくれ、なんてあしらわれてしまったことがあったよ。

私も含めて、みんな流されてしまうんだよな、何かに……。人間は「進化」とか「進歩」するんじゃないよ。「流れされる」んだよ。漱石の『現代日本の開化』をぜひ読めよ。

と、まあまたやっちゃったけど、『河童』に戻ろう。他に気づいたことは?

風向
風向

私、世界史でやった『ユートピア』と比較して読んでました。去年読んでみて、思ったより理解しやすくてこれがユートピアという言葉のもとになった本か、と知りました。今回『河童』を読んで、似たような話だなと思ったんです。『ユートピア』と『河童』の比較も面白いんじゃないかと思う。

『河童』にも『ユートピア』にも、どちらも「現実社会への批判」という側面がありますからね。『舞姫』などはそれよりも個人の内面へ読者の視線が入っていくような感じがする。『ユートピア』を物語と言っていいのかどうかわかりませんが、文学的感銘というよりも批評精神を感じたところで、何か目標が違うような感じがしました。『河童』と構造は同じと言っていいと思います。

で、どこがその違いなのかというと『ユートピア』は理想的、学術的な社会構造を虚構の上で作っていって、それを現実社会と比較しようとする。『河童』では読者は科学学術関係なくあくまで虚構を虚構のままに、受け入れる。たとえば『ユートピア』では食料としての人間なんていう発想は絶対に出てこない。そんなことが『ユートピア』に出てきたら読者はそっぽを向いてしまうでしょう。ユートピアというところは作者トマス・モアの正義感が具象化した社会です。だから見方によっては嫌になる人も出てくるでしょう。象徴的な喩えとして「傲慢婦人」と「貨幣夫人」という言葉が批判として出てきますが、その二人がいない社会なんて生きていたくない人は大勢いますよね。

つまり、そういう意味での「ユートピア」が『ユートピア』なんです。ここには「魚」は棲みません。この二つの作品は、もちろん時代の違いが大きいんですが、やはり読者の受け方は全く違うという感じです。

先生
先生

そうすると、『河童』という物語では主人公は何を体験して帰ってきたんだ?

風向
風向

「閉塞」ですよ。河童の国はユーピアではない。ディストピアでもないのですが、主人公が体験したのは「閉塞」だ、というのはどうでしょうかね。トマス・モアは正義を体験した人間を描いたが、なんてったって河童は失業者を食べちゃうんだから。

そして、支配・被支配の関係が単純でなく、何がその問題の元凶なのかをはっきりできなくなる。こういうのはきっと現実にもあって、どうしたらいいかわからないことなっているような気がします。高校生の私たちの将来はほんと、大変ですよ。『河童』は現代人が感じる閉塞状態を描いた物語、っていうのはどうでしょうか?

先生
先生

君たちの話を聞いていて思った。以前にロラン・バルトのコノテーションっていう言葉を紹介したんだけど、その人の評論に『作者の死』というのがある。

われわれは今や知っているが、テクストとは、一列に並んだ語から成り立ち、唯一のいわば神学的な意味(つまり、「作者=神」の《メッセージ》ということになろう)を出現させるものではない、と言ってるね。

つまりね、読書は、神である作者を追いかけるものではないんだ、ということだ。作品は作者の手を離れた瞬間に作者のもとから離れて、作品を解読するという意図は全く無用になる、ということだ。このことは、「そう読んじゃったんだから仕方がない」という作品の読み方は正当なんだという話をしておいたね。ただしその結論を持った根拠の間主観性が必要なんだ、ということも言った。覚えてる?

そこで『河童』だが、主人公が河童の国に入っていって見聞したこと、体験したことを読者はそれぞれの受け取り方で受け取る。端的に言えば、遺伝性の精神的な病について書いてあると、どう読者は受け取るか。いくらか芥川に関心がある人は芥川という小説家の精神的な病への恐れを知っているだろうから、その知識に沿った解釈をするだろう。それは否定されるべきものなのか。……というか、作者の知識なしであの出産の場面の解釈はナンセンスだと私も思う。それをどう考えればいいのかなあ。

また作品発表が芥川の自殺の何ヶ月か前だから、一つ一つのエピソードを実際の「作者の死」を前提に読んでしまう。つまり、現実の作者の死が「作者の死」を無効化してしまう、ということじゃないか。と、いう変なことを考えたよ。

浦島太郎からの物語という系譜を見つける こりゃ面白くてやめられん

風向
風向

「ユートピア」だってトマス・モアの刑死を思うと、作品解釈が引っ張られますよ。確か王様がなんだっけ、教皇とケンカした人だったでしょう?モアは最後は英国王に楯突いて、首を切られたって聞いたけど。最期まで王の専制を(控えめに)批判して自分の考える正義を貫いたって。そういう人が書いた理想郷だということは、解釈の自由の前に置いておかなけりゃならない。いや、文庫本の解説で知っただけのことですが、相当すごい人だったみたいね。

あと、もう一つぜひ言いたいんだけど、『河童』が、「行って、体験して、帰ってくる」という物語の典型に沿っている、という点です。つまり浦島型の物語。物語の文法に従っている、というんですか。

それでね、以前の先生の話では『舞姫』も、『坊ちゃん』もそういう物語だと聞きました。私はそういう読み方が新鮮で、面白かったんですが、その系譜に『河童』があるということもすごく面白いですね。そして、それが日本の時代の流れとして考えて、何を体験し何を選択したのかということを比較してみると、日本の近代化という流れを端的に示していると思えたんです。

鴎外は国家建設の使命感、漱石は近代と言いながら衰えない前近代性への忌避感、芥川の近代の閉塞感ということ。なんかどっかの頭の硬い学生のような言い方ですが、うまく辻褄があっちゃうような気がしました。明治・大正・昭和と続く雰囲気の流れに三作品が代表として採用できるというふうに思いました。もしかしたらそういう観点から戦後の小説を探してみたら、もっと大きい物語の流れが発見できるんじゃないかな。

先生
先生

そこなんだ!それを私もみんなに話したかったところなんだ。あまり大きな話になっちゃうとどうかなと思うけど、この三作品の関連を指摘している人はいるのかなあ。

まあいるかもしれないけど、風向さんの気づいたことは私も感じたよ。さらに、行った国が、西欧、日本の田舎。架空の河童の国、という違いで何があぶり出されたか。帰ってきてから何をもたらしたか、など比較してみるのもいいかもね。余計なことだが鴎外は父なるものを選び、漱石は母なるものを選び、しかもそれぞれ本当の父ではなく母が代理に持っていた父なるもの、漱石は母ではなく乳母(?)が代理に持っていた母なるもの、を選んだと言える。じゃあ芥川はどうか、という点もうまく考えられたらいいなとも思ってるんだ。

こんな妄想を膨らませることがあるから、こういう授業はやめられんのよ。

圭
橋の上ゆ胡瓜なくれは水ひびきすなはち見ゆる禿の頭

『河童』についてもう一つ言いたいんだけど。彼が現実の世界に戻ってきた後で、当然それが妄想だといういうことになる。それを妄想かどうか、どうとろうと自由だけど、驚くことに河童たちは病院に見舞いに来たということになっている。いや、そう彼は言っている。これは浦島にも、鴎外にも漱石にもないアイディアだ。これはどう解釈する?

僕はね、最後に彼が大声で読むトックの詩(古い電話帳?)の中のひと言が重要だと思ってる。

しかし我々は休まなければならぬ

たとい芝居の背景の前にも。

これ、芥川にとっては自分の人生は芝居だったと言ってるんじゃない?入院患者の彼はもうその人生という芝居の背景の中で休まねばならない。つまり死ななければならない、と言ってる。そこには仏陀も基督ももう退場しちゃってるんだよ。「閉塞」の結末があるだけなんだよ。って、上手い解釈のように自己満足してるんですがどうでしょう?

先生
先生

うん。大正という時代が終わって、なんか重苦しい雰囲気が出てきているような、そんな感じもあるし。「閉塞」って石川啄木じゃないけど、上手い表現だな。でも、ほかの人はそれに従わなくてもいいよ。反論があったり、他に何か気付いたりした人はいるか?

……

いなければ、今回は終わりだが、また自分なりの読みをアウトプットしてみること。それから、今後は芥川龍之介はやるから、なるべく読んどいてね。特に『奉教人の死』は是非授業でやりたいと思うからよろしく。

 追加  ネットで上記短歌の「意味」を解説している文章がありました、橋を二つの世界を結ぶものとして解説していました。こういうのこそ「読む・解釈する」ということです。「橋」はジンメルという哲学、社会学者も言っていますが、二つのものを繋ぐ重要な概念の表象です。できたら検索して読んでみてください。

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