『パニック』は新日本文学 S32・8・1/『巨人と玩具』は文學界 S32・10・1
『パニック』に立ち向かう公務員の戦術と遊戯
そのベトナム戦争の中に入っていってルポを書いたのが開高健だった。初めて開高の作品を読んだのはいつだったか、『輝ける闇』だったと思う。かなり強い読後の感動だったと記憶している。その内容記憶はそうとう薄くなってしまったが、ベトナムというところ、泥の中で生きるような地元の人々が一番記憶に残っている。これも文学の一つなのか、とも思ったねえ。それから初期の小説も読んだけど、あんまり印象に残ってない。まして、自分の興味ない釣りに関する作品なんか読みたくもなかった。
ベトナム戦争を知ってるかな。サイゴンが陥落してわれ先に船に乗ろうとする人々を写していた映画もあったな。ショッキングな動画だったなあ。アメリカが負けるとは私は思っていなかったよ。こんなことも起こるんだなあ、と思ったね。ベルリンの壁が壊された時もそうだったが、歴史って思いがけない。
でも、今回はその初期の小説を読んで、どんな読み方ができるのかを試してみようと思う。みんなにとっても、いくらか新鮮な小説読後感が出てくると思うんだけど。どうかなあ。まず、『パニック』と『巨人と玩具』から行くか。公務員と民間企業ということから将来の自分の仕事も考えてみてよ。いずれにしてもある種の組織と関係していくのは必然だし、どこかでこれらの小説と同じような体験はすると思うよ。まあ、そのために小説を読むわけではないけど。
『パニック』だけど、役人だからといって真面目に勤務していけばいいというわけにはいかないことはよくわかる。つまり、自分が真面目に考えて、社会のために政策を進めていこうとしても、実現のためには人間関係の調整とか、あるいは策略みたいなものだって必要なんだろうね。上司を部下がうまく使う、ということだってある。そういうズルさや小賢しさだって大事だということじゃない。正義感だけじゃダメなんだということよ。
確かにこの物語は打算と面従腹背の物語だよ。ただ、ネズミの発生という現実は、何か神罰や自然の逆襲、なんて考える必要はないと思う。必ず歴史にはそういうことはあったし、これからもあるんだよ。これは、先生の好きなショーペンハウアーの、「意志」の力で起こるんだよ。
そうだね、僕も「神の罰」的な考えは反対だ。ただ、功利主義や人間性無視みたいなところを役所という組織に感じないか?この課長なんかもろ悪役だぜ。
そこなのよ。今回の作品はどれも「面白い」のよ。「わけわかんない」感があんまりないのよ。だから何かテレビドラマの原作みたいな感覚で読んでしまう。その奥に何かが読み取れればいい。単純な勧善懲悪だけでない何かがね。
つまりは「仕事」というものの意味だと思う。早くネズミ対策が必要だという主人公の俊介に、課長はこう言う。「当てずっぽで役所仕事ができると思うかね。前例もないのに、君の突飛な空想だけで山は焼けないよ。君の企画はお先走りというやつだ。気持ちはわかるがね」と。
これは非難されるべき態度だろうか。僕はそうは思わない。前例主義みたいなことはあるけど、なんでも早め早めにやって失敗する政策を、事後非難されることはいくらでもあるよ。僕は役人に慎重さは必要な属性だと思う。だって、僕たちの仕事評価は結果なんだよ。結果がオーライならオーライなんだ。結果が全てなら慎重にならざるを得ないじゃないか。
だから、この課長は悪役人の典型ではない。彼は仕事への情熱はないが「まがいもの」ではあるが「真剣さ」も持っていた。
俊介も結構ずる賢い。ネズミの件に解決に懸命ではあるが、一方で役所の人間関係にじゅうぶん注意して、効果的な言動をとっている。課長にとっても俊介は単なる部下ではなく、ある日課長が退勤して料理屋に向かおうとした時には、俊介に対する「課長の眼には、もう取引をすませたんだというつめたい傲慢さがあるようだった。」と書いてある。この時課長の口臭が俊介の顔をそむけさせたことを書いている。課長の口臭はもちろん、その仕事に対する彼の精神の退廃を表しているものの、その課長の汚さをうまく使っているのは俊介なのだ、ということを忘れちゃいけない。課長の口臭は何度か俊介を悩ませるが、読者はそれに気づかずにはいられない。
最後に俊介は自分の行動を「退屈しのぎ」と言ってるけど、これは冗談でもなんでもないね。「倦怠から逃げ出したくて買って出た」「知的遊戯」とも言っている。(これもショーペンハウエルを思い出す)
つまり、遊びだからこそ仕事を懸命にしたんだ。仕事の一つの本質の面ということじゃない?先生もそうでしょ、そんな感じがする。
お前たちは鋭いなあ、ほんと!
日本の宿命的な病 行き着くところまで行かないとわからない
それにネズミだな。ネズミはなかなかしぶといが、最後に無数のネズミが先を争って湖に飛び込んでいった。集団で死に向かって突き進んでいくネズミたちの衝動も、何かの意志のなせるわざ、ということかな。当然これは僕たち人間にも当てはまる現象じゃないか、と思うでしょう?この何年かのパンデミックもそろそろ終わりのようだが、いつか我々の滅亡する日は必然だし、こうして数年で終わるパンデミックが本当に僕たちの体験として記憶されるかどうか、怪しいもんだよ。地球温暖化や戦争、原発なんかも考えちゃうよね。これ、高度成長期に書かれた小説だけどまさしく俊介のようにシニカルに振る舞いたくもなる。そういえば、そんなことから前回の芥川『河童』にも思いが通じるかも。
少なくとも、集団ヒステリー状態は物語の中心テーマとして読める。そして最後の一文、「やっぱり人間の群れにもどるよりしかたないじゃないか」ってこれも漱石に通じるな。いくとこまで行かないとダメなのかな。
うーん。じゃあ『巨人と玩具』を読んでみて、どんなこと思った?こっちはあらすじをまとめておく。『巨人と玩具』は映画化されている。小説と少し違うらしいのであらすじは以下に出しておく。本文の確認のために参考にしてもらいたい。
『巨人と玩具』 宣伝という形而上学
『巨人と玩具』あらすじ
サムソン製菓という会社の宣伝課長の合田は渉外事務の他にデザイナーや文筆家の仕事の指導もする、バイタリティー溢れる企業人だった。モデルなどのスカウトまでやってしまう。街で若い女に話しかけて会社に連れてきたりもしていた。京子もその一人だった。どちらかというと外見は目立たない娘で、古い友人の春川のもとに連れていき、写真を撮った時には春川の彼女への評価は低かった。
ところが写真が出来上がると春川の評価は「イケるね」に変わっていた。合田は社内で彼女を宣伝に使うことについて辣腕ぶりを見せた。初めて京子の顔を見た関西出身の重役の感想は「なんや、河童(がたろ)みたいな子やないか」というものだったのに……。合田の目論見どおりだんだんと彼女の顔は世間に認知されていった。
会社の売り上げは不調になっていった。キャラメルは売れているようなのだが、徐々に売り上げが減少していっているのは明らかだった。時代が変わってきているのである。キャラメルのエキゾチシズムが日常化され、習慣化されていき、大衆の味覚は徐々に、しかし決定的に移っていった。資本の利潤活動を支えるため何か新しい発明が必要だった。
販売課の焦燥、製造課の徒労、そして宣伝課にはヒステリーが発生した。私たちはキャラメルを売るために懸賞売り出しに走っていった。合田は宇宙に目を付けていた。宣伝の方向を認めさせるために、彼はさまざまな資料をかき集め、重役たちに説いていった。彼の才能はまずこの社内への自説への承認を図ることに注がれた。それは、承服させるようなものだった。京子はこの宣伝の重要な部品だった。
サムソン、アポロ、ヘルクルス。3社は子供への販売合戦への批判が起こり、それを受けて3社は自粛協定を結んだのだが、サムソンの宇宙をテーマにした広告戦略によって破棄された。アポロ、ヘルクルスの特売の戦略を考えていて、アポロは懸賞品として大学までの奨学金を出すという戦略を発表した。
これはキャラメル販売のターゲットを子供から母親へ変えたことにほかならなかった。合田はこの発想に突かれ愕然となった。戦略としてアポロの勝ちだった。アポロはあらゆる婦人団体、教育機関、宗教法人に讃えられた。サムソンとヘルクレスの二人の巨人は傷ついた。
しかし、全体としては三者とも大きな衰退の波の中にいた。合田の私もそして工場も疲弊していった。
夏に不穏な情勢が流れ始めた。中小のメーカーが倒産し始めた野田。商品は同じキャラメルである。セールスマンたちは問屋、小売店を死に物狂いで接待し、仕入れを強要した。しかし販売課からまわってくる売り上げ結果と生産数を見比べて、合田は苦痛の表情を隠さなかった。
そのうちに巨人のひとりが戦線を離れていった。アポロのドロップの食用色素に問題が見つかったのである。アポロの宣伝か活動は一切停止した。サムソンの社内は弱肉強食のルールによっていった。その中で私は苦々しい思いの中にいた。
と、このころサムスンは決定的な打撃を受けた。会社設立当初から僚友であった問屋が不渡手形を出したのだ。サムスンが肩代わりすることで結局その問屋の始末は、ついたのだが、会社は深い傷を負った。合田は売り上げを伸ばすために京子に宇宙服を着せて街で宣伝用キャラメルを配るキャンペーンを頼んだ。京子はすでにモデルとしてはトップ・メンバーの一人になっていた。京子は、
「私困っちゃった」と言った。レコードの吹き込みがあるので、声がつぶれては困るというのだ。合田にとって、レコードを出すなどということは初耳だった。京子は契約書の項目を挙げて、「サンドウィッチマン」になる約束はしていない、というのである。合田は金は特別にどうにかすると頼み込もうとしたが、京子は数字を手帳に書き出し、それを合田に見せた。合田は「教えられたな!」と、言い、それを胃斬り潰した。
キャラメルは売れなかった。会社の部屋で私はおびただしい疲労を味わっていた。振り返ると入り口に合田が立っていた。合田は部屋の中で宇宙服に着替えた。「俺はこれを着て歩くぞ!」と部屋の中をぐるぐる歩いて回った。私は椅子から立って、廊下へ出た。
こっちは『パニック』に比べて、さらに現代的。経済小説としてなかなか面白い。映画化もされたそうですよ。名作だという評価もあるそうです、その映画が……。これは舞台が私企業の宣伝課という、さらに現代的な場所ですね。「利益追求」というテーマがまったく卑しめられない場ですから、登場人物の精神的な追い込まれはなおさら明らかですね。しかも、広告というものは何か実態としての商品を作って売って利益を得る、ということではない。本当に現代的な小説です。
昭和32年ですか?ずいぶん現代的な問題意識が早かったんですね。つい最近でももの作りではない会社がメディアを賑やかしました。巨大な広告・宣伝会社でした。東京オリンピックでの贈収賄事件や時の政権と一体となったさまざまな商売が批判の対象になりました。経産省との癒着もね。民放の放送でその会社の名前を番組で出してしまったキャスターが批判されたり。この人は根本的な問題意識としては当然言うべきことを番組で言っただけなのに、ちょっと事実とは違うことを感情で言ってしまって謹慎処分を受けた。気の毒でした。本質的には間違ったことを言ってなかったのに。
この『巨人と玩具』という作品は、舞台はある大手の菓子会社です。物を作る私企業は原材料を加工して、差異を生じさせて製品として販売する。その差異が価値となって利益を生じさせる、ということが基本でしょう。でもここで描かれるのは宣伝課です。まさしく差異を生むのに一役買うものだけれど、商品そのものにはなんの作用もしていないもの。客に購買の前にイメージを植え付ける虚ろな価値付与をするものです。よく現代を「記号の時代」とかいうけど、まさしく客に記号を売るということです。これがどんなに力を得ているのか、を語る小説だと思う。
いや、反対にそれがいかに虚ろなものであるかを主張するものじゃないの?合田という人はものすごい先見の明を持っていた「やり手」だったはず。でも、その彼でも大きな社会の波(と言ってもキャラメルというお菓子の衰退だけど)つまり、ひとつのお菓子の味や食感や、という実体の陳腐化には抗することはできなかったんだ。つまり飽きられてしまった。宣伝が、ではなく実体が。あくまで華々しい修飾もいつかは飽きられる、ということを描いた物語だ。それに命をかけた企業人は悲劇だが、実体の推定には刃向かえないという小説だろ。
話し合いはここからだが、そのまえにここで現代文の入試問題にも出た評論を紹介しよう。経済学なんて面白くもない、と思っている人には目を見開かせる評論だよ。本は『ヴェニスの商人の資本論』著者は岩井克人。
広告の形而上学
貨幣とは、それによってすべての商品の価値が 表現される一般的な価値の尺度でありながら、同時にそれらの商品とともにそれ自身人々 の需要の対象にもなるという二重の存在なのである。
「広告の時代」とまで言われている現代において、広告とは一見自明で平凡なものに見え る。満ちた逆説的な存在なのである。
英語のどの受験参考書にも例文としてのっているように、 “The proof of the pudding is in the eating.” すなわち、 プディングであることの証明はそれを食べてみることである。 だが、分業によって作る人と食べる人とが分離してしまっている資本主義社会においては、 プディングは普通お金で買わなければ食べられない。(買わずに食べてしまったら、それ は食い逃げか万引きである。) プディングがプディングであることの証明、いや、 プディ ングがおいしいプディングであることの証明は、お金と交換にしか得られない。
たとえば、洋菓子屋の店先でどのプディングを買おうかと考えているとき、あるいは喫 茶店でプディングを注文しようかどうか考えているとき、人はプディングそのものを比較 しているのではない。人が実際に比較しているのは、ウィンドウの中のプディングの外見 であり、メニューの中のプディングの写真であり、さらには新聞・雑誌・ラジオ・テレビ 等におけるプディングのコマーシャルである。これらはいずれも広い意味でプディングの 「広告」にほかならない。
すなわち、資本主義社会においては、人は消費者として商品そのものを比較することは できない。人は広告という媒介を通じてはじめて商品を比較することができるのである。
《……》
もちろん、広告とはつねに商品についての広告であり、その特徴や他の商品との差異に ついて広告しているように見える。だが、人がたとえばある洋菓子店のウィンドウのプデ ィングの並べ方は他の店に比べてセンスが良いと感じるとき、あるいはある製菓会社のプ ディングのコマーシャルは別の会社のよりも迫力に乏しいと思うとき、それは広告されて いるプディング同士の差異を問題にしているのではない。それは、 プディングとは独立に、 「広告の巨大なる集合」のなかにおける広告それ自体のあいだの差異を問題にしているの である。
広告と広告とのあいだの差異――それは、広告が本来媒介すべき商品と商品とのあいだ の差異に還元しえない、いわば「過剰な」差異である。それゆえそれは、たとえばセンス の良し悪しとか迫力の有る無しとかいうような、違うから違うとしか言いようのない差異、 すなわち客観的対応物を欠いた差異そのものとしての差異としてあらわれる。
だが、広告が広告であることから生まれるこの過剰であるがゆえに純粋な差異こそ、まさに企業の広告活動の拠って立つ基盤なのである。
ここで言っているのはどういうことかな。
さっき実体のない差異なんて言葉が出たがむしろその広告の差異こそ差異そのものとしての差異であり、純粋な差異であり、そこに消費者が商品を選ぶ根拠が生まれる、ということじゃないかな。広告こそ企業活動の目的に向かう第一歩であるとも言えるんじゃないかな。そんなことを私は思ったけどね。
イメージ戦略、なんていうことも聞きますね。ダサーいテレビコマーシャルと、たとえばフランスの香水のコマーシャルを比べると、明らかに「さすがシャ○ル」なんて思っちゃうしね。ユニ◯ロなんてロゴが出なくてもブランド名が頭に浮かんじゃう。ああいうのずいぶん広告制作に大金かかってんだろうな。
それは、さっきの広告についての評論の通り広告が消費者の欲望に本質的に関わっているということでしょう。商品の実体ではなくて私たちはまさしくイメージを買っているんだから。この小説ではキャラメルは買われなくなっていったとなってるけど、キャラメルというもののイメージが敗れ去ったということではないですか?イメージが実体以上の価値を持つようになったから、つまり古くさいイメージしか無くなったから、実体がどうあろうとあまり見向きされなくなった、ということですかね。甘くて美味しい、そんなお菓子は今いくらでもあります。それにみんなが気づいたのが昭和30年代だったんじゃないですか。
そういうことに気づかねばならない合田という人物が、自分のイメージに固執していたということかもしれないです。本来広告マンという人種は自分の好きなイメージではなく、その時代に好かれたイメージをいち早くキャッチするというのが仕事であり、能力であるはずでしょう。流されなければならない人たちなんじゃない?考えたら厳しい仕事だわね。
イメージというあやふやな価値の勝負に、勝ち残らねばならない人間の物語、ってのはどうかな。
でも、その勝負が自分の価値観での良し悪しではないところが言いたいところだな。よく、「美人コンテスト」のようなっていうじゃん。自分が美人だって思う人を選ぶんじゃなくて、この人をみんなが選ぶだろうという人を選ぶんだ、と。いや、たとえが悪かったかもしれないけど、ちょっと株やってる叔父に聞いたんだけど、株を買うのはそういうことなんだって。そういうのは自分の価値観を信じて仕事する、というのとはちょっと違うような気がしてる。自分を信じる、というより自分の観察眼を信じる、ということだ。あくまで主体は世間であり、他人なんだ。
精神的には厳しい仕事なのかもしれないね。21世紀でも時代の先端をいく、スマートな職種かもしれないが、たぶん胃を悪くするような仕事だろうな。
でも、なんでキャラメルなんだろう?たとえば、アパレルの会社とか化粧品の会社なんかの方が合わないか?
なんでキャラメルの会社なの?
トンチンカンかもしれないけど、私は佐多稲子『キャラメル工場から』があったから、と想像してる。二項対立的に見られるよ。少女とおじさん、肉体的な抑圧と精神的な抑圧、資本家個人の搾取とシステムとしての企業の強制、賃金への欲求と承認の欲求、なんてね。資本主義が発展するとこのように問題が変化し、でも人間の苦しさは変わらないという見本を二つの「キャラメル会社」の比較から読み取れるよ。
へー!そういう意見、誰が言ってるの?なんか読んだことあるの?
いや、わたしの直感。どっちも、「キャラメル」という、いわばあってもなくてもいいような商品で(言い過ぎ!ごめん)しかも子供達の口に入るものであり、甘くて、少し洒落たイメージを持たせるもの。どちらの小説にしても、キャラメル工場にしなくてもいいのに、でもキャラメル工場が似つかわしい、そう思わない?働いている人たちの労苦とのギャップがあって。セメント工場なんかでは、味が変わっちゃう。あるいは、不動産屋なんかもちょっとねどうでしょうか。
知ってる人も多いと思うけど、開高健は実際に某飲料品関係企業の宣伝部にいて活躍していたんだ。この宣伝部は多くの才能ある部員がいて、有名人も結構いる。この会社はまさしく宣伝マンの作ったイメージが会社のステータスを高めた。サミー・ジェイムスjrのCMなんか傑作だったな。現在も誰でもが知ってる会社だ。
この小説には不思議に経営トップが出てこないね。私はこれが不自然だと感じる。何か避けられていると思うんだがね。この創業者も有名人で社風も称えられているようだ。ところが最近ある政治家の後援会の集会の飲料がこの会社の製品の寄付だったということがわかって、ヤミ献金だったということが問題になったんだ。何十万円という酒が、この政治家の後援会の祝宴に使われていたんだって。最高級のホテルでね。経営者が偉そうなこと言ってても、所詮権力ある政治家にくっついて商売しようとしてた、ということだよ。あっ、またやっちゃった。でも、大企業の経営者たちがある政権の応援団として、あからさまに活動するのはどうかと思うね。
とにかく作者もこういう世界で生きてきたことで、内実をよく知っていたんだろう。
作者がどうだこうだ、はやめておこうと言いながらつい語りたくなって……
ともかく、さっき挙げられたいくつかの点で両作品の比較は面白かった。約30年ほどで、労働・社会の問題点がシフトしていったことが面白かった。単純な現状への怒りから、複雑でますます解決しにくいような問題へとなっている、ということ。働く人がどうも自分たちは押さえつけられているという感覚は今も変わらないけど、それがシステムという、わけわからない力によってなされている。そこが物語の中心なんじゃないかという主張だね。ひろ子は一人で涙を流すが、合田だって孤独に敗北を噛みしめるだろう。書かれていないが、たぶん合田はたくさん給料をもらっているはずなのにそんなことは問題じゃないようだ。
合田は自分を戯画化して、自嘲的になって退場していくんだろうな。その人物像を『パニック』の主人公と比べてみると、これも興味深い。『パニック』の俊介は局長の懐柔策を受け入れる、東京の本庁への転勤というエサで……。
しかし、そう見えて実は出世欲のために彼は上役に屈したのではなかった。かつて役人でも研究者の使命感をもつ「農学者」は俊介を不審の目で見ていたのだが、俊介はそれに対して、「はじめから彼は恐慌を力の象徴と考えていた」と書いてあったよ。社会学者の宮台慎司は、YouTubeで、どうしようもない現状の日本社会を立て直すには徹底的な敗北が必要だというような論をしていたよ。こういう感覚がこの作品の中にある。しかし、俊介はそれを知的遊戯だとも思っているようだ。この辺が面白いところだと思います。
坂口安吾の『堕落論』ってそんなのではなかった?ちょっと違うかな。でも、恐慌の中でしか上昇はできないなんていう感想は、少し危険かしらね。
マジな話、ちょっと絶望的?
いや、実はオレ、マジな話して笑われそうだけど、今の世の中に相当否定的なんだ。世界中で道理が通らなくなってない?いわゆる民主的なものが乗り越えられそうじゃん。ロシヤや中国だけじゃないよ、日本だって道理なんて言うと、せせら笑われる。原発だって、宗教と政治の癒着だって、もう忘れられてる。最も忘れられてはならない司法の正義だっておかしくなっちゃてるんじゃないの?裁判官が行政体系に組み込まれているような印象を、みんなは持たない?政治権力に白旗あげるような裁判の判決ばかり出しているよ。ほんとにあいつら正義感を持って仕事をしてるのかな。
だからオレはいっそ資産作って、早く引退したいんだ。いつまでも、こんな日本の沼の中にいたくないんだよ。そのために投資の知識を得たいんだよ。
『パニック』の俊介の一見ニヒルな上役たちとの関わり合い方にも、彼の世間との距離の保ち方にズルさを感じるんだよ。
びっくり。こいつがそんなこと考えてたなんて、知らなかった。でも僕はそうは思わないな。先生のさっきの話にも違和感がある。これまで日本のリーダーや官僚はそれなりにやってきたと思うよ。むしろ左と呼ばれる連中の言動が、世界に出ていかなくっちゃならない日本を、ミスリードすると思う。国際化していくためには普通の国になるべきでしょう。『パニック』の局長なんか、なかなか大した人物じゃないか。研究課長だっけ、彼のような弱いインテリの方がむしろためにならない。
それから『巨人と玩具』だけど、合田のような人物は、またもっと活躍する舞台が用意されると、僕は思った。彼がこのまま終わるという読み方を、僕はしないけどな。
だが、この小説をもとに友達と登場人物像に異なった評価があって、互いに話せるとは思わなかったな。小説の読みとりから離れたけど。曽宗がそんなふうに考えてたとは思わなかった。これは良かったな。
『パニック』に戻るけど、ひとつ蒸し返すようだけど、ネズミとは何か、ということをもういっぺん言いたい。やっぱり、ネズミでなければならなかったんでしょうね。集団の中で盲目的な行動しかできず、多数で、貪欲で、不潔で。そんなイメージを持たせるもの、特に個体が自覚的に行動しないものですね。今の話で言えば、それはつまりは悪賢いリーダーに無自覚についていく大衆ですよ。私はそう言う読み方しかできないと思う。曽宗くんの言うとおり、私たちは次から次へと変わるイシューをしっかり覚えていられないでしょ。いわゆるリーダーたちはそこをうまく使う。少し耐えていればいつか問題は流れていく、とでも思っている。そう言っている政治家が確かにいるじゃない。選挙が終わるまでは黙っていようといろ、と言う人が。そして私たちはそのとおり忘れて、忘れて、流されていく。そして、ハッと気がつくと集団は水辺にたどり着いている。120年後、またササの花咲く頃までは為政者は安泰な生活を送れる。パニックは待てばいいんですよ。なんとか耐えてね。そういう物語。
ネズミの集団の中でも、早く自分たちのいく先に気づく何匹かがいても、そんな声はかき消されてしまう。「口うるさい左の奴ら」とか言われてね。だって水の中に突っ込んでいくネズミの半数は選挙で投票もしないんだから……。左とかいうレッテルはどうでもいいのよ。異を唱えるネズミはみんなで取り囲んで、どんどん巻き込んでいっちゃうのよ。
まあ、ちょっとそこでやめておこう。どのように読むかは自由だから、自分の信じることは表明していいけど、どこかで冷静になっていこうね。なんて私が火をつけてるような感じなのに、申し訳ないけど。
だけど、今思い出すのは高校生の間に感じたことは、ずっと残るね。これは大事にしてもらいたい。変に現実主義者にならないでね。そして短絡的な断定はしないようにしよう。
私も、今気づいたので違う観点からひとつ。京子というモデルの女の子です。この子もユニークですね。いわゆる美人とは違っていたと言っています。これは確かに広告の世界でありますね。言い方悪いけどどうしてこの人トップモデルなの、みたいな人。でも、確かに他の可愛いことは違うっていう人、なんかわかんないけど引きつけられちゃう顔。そういう人っていますよね。誰とは言えないけど。これはなんなんですか?こういう人をぴっと引き抜く人も才能ある人ですけど(つまりここでは合田ね)。
でも私の今の気持ちは、こういうことをうまく説明できる人もすごい人だなあということなんです。つまり、語彙力と説明能力のある人です。こういう感覚的なことをみんなが納得できるような文章力を私は持ちたいなあ。優秀なコピーライターとも違う力ですよ。そういう力欲しいでしょ、みんな?
ところが、たぶん言葉そのものがそこまでの能力を持っていないんじゃないでしょうか。味や匂いやそして好みや。ピッタリした言葉はあるわけないと思う。近似値で表現しているだけ。そういう無理なことを私たちは要求されてんのかなあ、なんて思いました。変な感想ですけど。
いや、それは大変な気づきだよ。哲学の分野だけど、またどこかでみんなで話し合ってみようよ。さて、他にはないかな。じゃあ今回はこれで。次回ももう一つ開高健をやってみたいんだ。よろしく。
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