61 サキ傑作集 河田智雄訳   岩波文庫

若い娘は怖しい

開いた窓 (The Open Window)

フラムトンという若い男が田舎に療養に行くことになった。姉はその土地の知り合いに紹介状を書いて弟に持たせてくれたので、サプルトン夫人宅を訪ねたが、まず応対したのは夫人の姪のヴェラだった。彼女は15歳で、この家の不幸な話を語る。三年前の10月、猟場に出て行った伯父たち三人が荒地の沼に呑み込まれ、帰って来なかったという話だった。伯母はそれ以来、彼らの帰宅を信じて帰りを待ち、暗くなるまで「窓」を開けておくという。「今日のような夕暮れなど、あの3人が揃って窓から帰ってくるような気がして…」というヴェラの言葉に、フラムトンは震え上がる。

 遅れて現れたサプルトン夫人は「夫と弟たちがあの窓から帰ってくる」と陽気に話す。気味悪くなったフラムトンは話題を変えようとするが、やがて突然、顔を輝かせた夫人は三人の帰宅を告げた。ヴェラが恐怖の面持ちで眺める窓のほうを振り返ったフラムトンは、三人とスパニエル犬が歩いてくるのを見た。ヴェラが語ったとおりの、出て行ったままの姿で。フラムトンはステッキと帽子をつかんで逃げ出した。

 帰ってきたサプルトン氏は「急いで駆け出した男は誰だい?」と聞く。夫人も「幽霊を見たかのように逃げ出すなんて変な人だ」といぶかしがるが、「犬のせいだわ。野良犬の群れに追いかけられて墓穴の中で一晩過ごしたことがあるから、犬が大嫌いなんですって」―即座に話をつくり、少女は言うのだった。

大隈
大隈

なかなか意外性のある結末で面白い。サキの作品は今回初めて読んで、それぞれなかなか期待に外れないものだと感じました。古くさい感じかも知れないが、やっぱり短編小説はこうでなくっちゃ。
この十五歳の少女なんか魅力的で生き生きとしている感じ。たぶん「何もない田舎」ということが作品の低音に流れているんですね、そのことに対する怒りみたいなものを彼女から感じるんです。名前はヴィエラとおばさんによって知られるが、なぜずっと明かされなかったんだろう?姪の隠された一面の存在を感じさせるのかな。

大野 右
大野 右

しかし、なんでこんな作り話をしたんだろうか。この辺のヒントがないから……。三年前に悲しい出来事があったと、姪は語りだす。そして窓を開けっぱなしにしてある大きなフランス窓を指さす。窓といっても床まである出入り口なんだそうだが。

青木
青木

この語りで悲しい話を新参のフラムトンに語り、そこにサプルトン夫人が部屋に来て、弟たちがもうすぐ帰ってくると言うんだったね。

窓はフランス風でなければならない?

大野 右
大野 右

そこからおれは疑問を持つんだ。なぜフランス風の窓なのか、そしてなぜ開けっぱなしにしなければならないのか。ねえ先生、それははっきりしてないでしょ?
この小説は有名な小説らしくて、教科書にも採られたこともあるそうだけど、この疑問を気にせず、何だか怪奇的な雰囲気をつくって最後にオチを作って読者は納得してしまっている。それでいいのかい。

尽明
尽明

じゃあ、フランスふうの窓の意味を言ってみてよ。なんで「フランス」なの?

青木
青木

華やかな窓を連想するね。その華やかなな窓から出ていったのに、結果が悲しい行方不明。この皮肉というか、意地悪い運命への怒りなのか、そのギャップを読者は感じるような気がするなあ。外の庭は芝生かな、行方不明者の霊として入ってくるのには相応しくないような気がする。まあ、この時点での話だけれど。
おばさんの会話文も、当然だが、精神的なショックを受けている様子もない。

二知
二知

もしかしたら、この姪っ子はフラムトンが神経衰弱の治療という名目で当地に来たことを知っていて、若い娘らしい冷たい意地悪さでそんな作り話をしたのかしら。この小説、読みようによっちゃあ、この少女の意地悪い心理を描いたものということかもよ。

風向
風向

ちょと待って。フランス窓の件について、あたしは一つ言いたいことがあるのよ。実はフランス風、ということについてどうも引っかかちゃってね。
だってオランダ風という言葉があるらしいじゃん。オランダ人への悪口で、オランダ人はケチくさいというイメージを持たせる俗語で。「オランダ風でいこう」というのが、「割り勘にしよう」ということらしい。きっとイギリス人はフランスへの悪意を持った意味が、ここにあるんじゃないかと思ったわけよ。

考えすぎかなーと思った。でも、『熟語本位英和中辞典』齊藤秀三郎著というのがあって。「take French leave」 という語句が載っていた。意味は「無断中座する(黙って帰る)」。
だからフランス窓というのは挨拶なしに客が帰ることをイメージさせるものなのよ。フラムトンを慌てて帰らせることを物語にしていった。居心地悪くさせる。慌てて家を出ていくようにさせることがフランス窓の意味なんじゃない?

大野 右
大野 右

作者はそんなこと考えてたのかな?

風向
風向

あたしは考えていたと思うけど、作者の思いについてはどうでもいい、ということがお約束だったはずよ。

先生
先生

それはそうだ。でも誰もがそういうことは思っちゃうよな。まあ、そういうことを感じるのは読者の権利として、そのほかには。

青木
青木

秋になっても、窓を開けている、というのも考えたいことね。だって窓を開けてない家でも、もし霊だったら平気で帰ってくるはずだよ。窓を開けて待っているというどうでもいいことが、読者を非日常へ誘っている。
さらに白いコートだ。白い服はイメージとして幽霊を呼び起こすものだね。これちょっと図書館行ってきて、イメージ事典で調べてきてるからね。少なくとも、イメージが全員ではないにしても、読者を導いていって、結末のオチを効果的にさせようとしていることは確かだろう。

先生
先生

なるほど。今回は「フランス風」というところの考察は、私にとっても面白かった。こういう発見はどんどん言ってみてね。もう一つやってみようよ。この作者の小説を。『狼少年』を考えてみよう。

狼?それにしても頭良すぎるだろう

狼少年(Gabriel Ernest)

絵描きのカニンガムは「君のところの森には妙なけだものが住みついているんじゃないか」と言った。

その日の午後にヴァン・チールは森に散歩に行った。そこで彼は見慣れないものを目にしたのだった。岩の上に16くらいのい少年が長々と腹ばいに寝そべり、濡れた身体をかわかしていたのである。水に飛び込んで上がってきたばかりらしく、髪は濡れて頭にくっついていた。目は虎のように猛々しくぎらぎら光っていた。少年とヴァン・チールと話をした。何を食べているのかと尋ねると、少年は肉を食べていると答えた。

「何!何の肉だ」

「知りたけりゃ、教えてやる。兎に、野鳥に、野兎に、飼鳥に、食べ頃の子羊などだ。うまくつかまれば、人間の子供を食うこともある。何しろ、おれの書き入れ時の夜には、人間の子供はたいてい家のなかにとじこめられているんでね。最後に子供の肉を食ったのは丸二月前だよ」

と、少年は人を愚弄するような答えをしていた。ヴァン・チールは気味悪くなっていって森から出ていくように言った。すると少年は笑い声を立て驚くべき身軽さで姿を消してしまった。ヴァン・チールも二月前の子供の行方不明事件のことを考えながら帰っていった。

翌朝居間に入っていくと、なんとあの少年が長椅子に横になっていたのである。少年は森の中にいるなと言われたではないか、とケロッとしていた。そして、そのとき伯母さんが入ってきたので、ヴァン・チールは、少年を可哀想な迷子で、しかも記憶を失ってしまったのだと説明した。伯母さんの方は少年を可哀想に思ってゲイブリエル・アーネストと仮の名前を与え、気に入ったようだった。ヴァン・チールは不安になって友人のカニンガムの助言を求めようと駅に向かった。カニンガムは以前に森の中で見たことを語ったが、狼を見たという友人の言葉にますます不安になり、すぐに帰っていった。

帰って、少年のいどころを聞くと、トゥーブさんの子を家に送っていったという。しかしトゥーブの子供とゲイブリエルの姿は二度と見られることはなかった。皆は川に落ちた子供を助けるために服を脱いで少年は水に飛び込み、二人とも流されたのだと信じた。教会にはおばさんの音頭でゲイブリエルの顕彰の真鍮板が嵌め込まれた。

先生
先生

なかなかユニークな小説じゃあないか。でも、何となく胸にストンと落ちないところもあるんじゃない?

拝出
拝出

そうですか?狼少年という設定がなかなか物語っぽいじゃないですか。僕はこれわかりやすくて面白いと思いましたよ。狼って凶暴さとずる賢さを表象する代表でしょ。それこそ現代まで続くヒール役ですよ。だから、このコードにしたがって読めば、「英国版赤ずきん」である、という読み方が一番了解できるものじゃないですかね。

先生
先生

なるほどね。ちょっと前にイメジャリーの例として「森」について知らせたね?覚えてる?そう、「森」は作品の中で単なる木々の集合するところ、という意味以上に「静寂」とか、「気味悪さ」とか、さらに「過ち」あるいは「自由の世界」「再生」「調和」「回帰」などの象徴性を帯びてくる、という(『批評理論入門』)。
まさしくこの作品はこういう象徴性の世界の中の物語だね。ヴァン・チールはそういう世界から逃げ出して、信頼できる友人の元に相談に行くわけだ。しかも汽車という近代の乗り物でね。森や狼と、友人や汽車は二項対立的だね。非合理と合理の対立として捉えることができる。

大隈
大隈

狼は一般的に、破壊的要素を象徴する。悪しきものとみなされる。たぶん人の歴史の中で敵対する動物の代表みたいなものだったから。が、イメージ事典では、「結局は善なるものになりうる」とありました。これは興味深いですね。たとえば、ローマ帝国の始まりはロムルスとレムス。狼に育てられるんでした。戦いぶりが巧妙ということを示したり、穀物の豊穣を表したりするんだそうですよ。
だから小説の記述が子供を食い殺す方にばかり読者を導いたりしているようでも、それがすべてだとは言えないかも知れない。そもそもこの少年が二ヶ月前に子供を殺していたことが前提になっているのは、読みが浅いのかも知れない。

羅漢
羅漢

そうだよ。ヴァン・チールとの会話を読んでも、この少年はある種の知性を十分に持っているように書かれている。むしろヴァン・チールが揶揄われているようだ。そういう会話の、コミュニケーションの能力を持っている少年が、子供を二ヶ月前に食った、などと言うだろうか。ヴァン・チール自身、その言葉を聞いて、「人を愚弄するような最後の言葉は無視し~」と思っている。彼もそんな少年の告白など本気にしてはいないんだ。

福生
福生

ゲイブリエル・アーネストという名前をおばさんは与えたんだけど、この少年の名前も意味ありげじゃないか。ガブリエルって聖書ではイエスの誕生を告げた天使だって。伯母さんの大いなる勘違いっていう読み方もできる。ちなみにearnestは真面目な、真剣な、という意味です。名前ってそういうものだろうが、伯母さんのこの子への想いはわかります。
では、この少年がオオカミ少年だったという記述は?
森の中の二ヶ月前の現実の事件と同じ時期にカムンガムが見た少年と狼は?

大野 右
大野 右

トゥーブ家の子供が行方不明になった時送っていったのは少年だった。そしてこの時ヴァン・チールは悲鳴を聞いたのだった。道には少年服が脱ぎ捨てられていた。何人かが服が見つかった近くでかん高い子供の悲鳴を聞いている。
と、僕たちはこの材料で少年の狼説をしてしまうのか。それが正しい読みなのか。読者の多くがこれだけで狼少年の存在と、彼の邪悪さを小説から読み取るのだと思うんです。僕は、実はこれは作者の狙いだと思うんだけど、読者を騙そうとする作者の一人だよ、この人。
サキ師と言ってね。(バカヤロウとの声あり)

うまいこと言うねえ

尽明
尽明

そもそも森というものが「迷い」を意味するなのだから、森の中では単純なものは斥けられる。読み取りも単純なものじゃないはずよ。人も迷うし、子供も迷う、そんで読者も迷うんだわ。

大隈
大隈

動物の知性が人間をやり込めるという構図はこの短編集でもほかに出てくるね。僕が鮮明に覚えているのは『トバモリー』でした。猫が人間の言葉を覚えて、ふだんさまざまな場面で見聞きしたことを人々にバラして彼らを慌てさせるという話。今回の授業ではとりあげないけど、あれは傑作ですよ。この猫は自分自身にとって都合が悪い人間からの質問は「そんなことは人前で話すもんじゃない~」と却って質問者の品のなさを指摘して、ごまかすようなこともする。果ては「シシュフォスの羨み」なんていうギリシャ神話のエピソードを持ち出して煙に巻く。

つまり僕の言いたいのは、狼にしろ猫にしろ、人間との対比で根本的な批判精神、知性を動物たちが持っているということだ。そういう小説が多いのではないか。人間への批判をアイロニーによって示すところが、イギリス的というような感じもするんです。だから、僕は狼少年の暴力的、怪奇小説に読み方が傾くのが疑問なんです。

先生
先生

どうかな。確かにイギリスの短編というと、そういうイメージを持つ人も多いと思うけど。
『フランケンシュタイン」も同じだけど、一見怪奇小説のように読まれてしまう小説でも、実際に読んでみるとそういう作品とは思えないようなことが、ここにもあったんだ、ということになるのかなあ。

(フランケンシュタインについては『批評理論入門』廣野由美子 中公新書 参照)

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