「先生、そんなこと国語の先生が言っていいの?後で困らない?」
「あー、心配してくれんの?」
「いや、心配っていうか、そもそもそれじゃ国語っていう教科って成立しないんじゃない?」
「そうだな、そこだよ。」
と、この辺からむっくり起き出すクラスの面々。何だよ、聞いてたんじゃねえか。
これを狙ってたんなら、このおっさんなかなか老獪だな。何か気になることには授業中にひとこと言ってみたいのが我が高校の「お友だち」たちの性質なのである。ぼくを含めていやらしい、「まじめちゃん」たちなのである。
日本の国会を見てりゃあわかる
「正解は、…ない。」
「えー!」
「でも、みんなが自分勝手な読みをして、『こいつの心の中は実はこうだ』って、それぞれに作っちゃったらみんなで一つの作品を共通理解することは無理だわな。これはカオスだよ。混乱させるために突拍子もない読み方をするやつも出てくるかもしれないし。いや、先ごろこういうのがこの国の国会でもあったんだよ。ご飯論法って言うんだけど、知らないかな。おい、大野。お前こそこそスマホでゲームしてるなら、そのまま『ご飯論法』ってウィキってみな。なんて書いてある?」
大野は最初ぎくっとしたが、すぐニヤッとしてスマホで調べ始めた。このあたりの対応は大野もたいしたもんだ。
「まさしく先端的な授業であるな。おれの授業もICT活用じゃ。でもお前、全部読まないでまとめて説明しろよ。」
馬鹿なことを言って、大野の発言を待った。
「つまり、質問に対して正面きった回答をせず、周辺の事情を言うことで相手をはぐらかす論法、らしいです。」
「そうだ、トップエリートのお役人の必須の能力らしいな。政権の幹部もみんなこの能力がないとダメみたいだな。つまり会話とはどこかに抜けた穴があり、そこを誤魔化して相手をはぐらかすことが可能なものである、ということ。逆から言えば、会話するお互いが、当然言葉に含まれているはずという概念を共通して持っていないと、コニュニケーションはできない、ということかな。あるいは、言葉の使用前にその言語が成り立つ基本を、共有していないとだめ。言葉って完全な代物ではない、ということかな。
ああ、例を考えたぞ。じゃもういっぺん大野、お前家族から『お風呂見てきて』と言われたらどうする?」
「そりゃあ見てきますよ。」
「見てきてどうするよ。」
「沸いてるよ、とかお湯はまだぬるい、とか。」
「報告するわな。そのままスマホでゲームとかしないだろう。」
「やけに攻めてきますね。」
「まあな。でもこれこそが会話だよ。溢れかえっている風呂場をそのままにして、見てきた、とも言わず家人の前に座ってテレビを見たりするやつはいないな。」
「うちは風呂は自動的に適温、適量で止まりますがね。」
それでもなんとかなるのは不思議じゃないか
「うるさい。これだってそうだ。一種のご飯論法かもしれない。とにかく、言葉にはそれ本来とは何か別の意味とかそんなものが必ずくっついているということがあるな。これは言葉一つ一つに共通に同じ意味がくっついているわけではない。でも、最低限共通して理解納得できる要素があることも、また了解するだろ?『ご飯食べた?』と言ったらパンであれシリアルであれ食事をしたか、と尋ねているというわけだ。圭、お前と私の会話だってその言葉を拡張させるものがあるから、かろうじて成立するんだよな。」
どうも先生はぼくと心が通じあっていると誤解しているようだ。
でも、たしかにぼくは思い出した。以前聴いた、「なぜ山に登るのか?」という問いにある人が「そこに山があるからだ。」という答えをした、という有名な話について、そういう答えでいいのかよと思ったことを。そこに山があるからという理由をどうやって考え出したか、山があるということと、登りたいということ、その中間にある自分の心理を言わなければ答えになっていないんじゃないか、ということを思っていた。でもそこがない答えだからこそ、その思いの深さや曰く言い難さの存在が理解できる、ということもあるのかも知れない。「登高意欲」とか「高みへの欲望」とか言っちゃうと、かえって気持ちとずれてしまうということがあるんだ。
「なぜ?」に対する答えって難しい。っていうかそれを言うには言語は完成されていない、なんて感じ?それをどこまで答えられるか、が確立していないんじゃ、そんな質問はナンセンスじゃないの?でも、これは口には出さなかった。(そのときこの疑問も僕の中でぼやっとしたものだったから。)
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