こりゃあ人間の性(さが)だな
先生は続けた。
「コノテーションって言葉があるんだ。言外の意味ってことだな。どんな言葉にも言外の意味がある。それに引きずられて聞いた方はイメージする。たとえば赤という言葉、赤色には『止まれ』『危険』『血』などの意味も含まれる。
ロラン・バルトという批評家・哲学者がいるんだが、この人の説明は面白い。彼はある雑誌の表紙を例にして説明している。その表紙はアフリカ系のフランス人らしい少年が、(フランス国旗に向かって)敬礼している写真である。この表紙が何を伝えているのか。写真の一義的意味としては敬礼しているアフリカ系少年兵、ということ。いいも悪いもない。しかしこの写真には本来フランスには内部として取り込めていなかったアフリカ系の人、しかも少年。こうしたものをも内部に取り込む偉大な帝国であるところのフランス。人種の壁も越えた素晴らしきフランスという国家、ということを主張している。だって、フランスの国旗は自由と平等と友愛を象徴しているんだろ。これがこの写真の「意味」なんだというんだ。おれたちの国、自由であり、人々は平等で、みんなが互いに博愛の精神で生きている。そこにはどんな人種も幸せに暮らせている。だから少年でさえもこの国に忠誠を尽くしている。フランス万歳。
でも、そんな理想的な国があるかよ。フランスだってどこだって、抑圧されている人はいるし、差別ももちろんあるだろう。だから写真を見ていろいろな感情が湧き起こるだろう。そしてそれ以上に、そういう写真の捉え方に対する賛成か反対か、同感か批判、嫌悪か。こんな選択も写真は迫ってくる。ただの写真には、国旗は見えていない。バルトは「多分は、ひるがえる三色旗に注目しているのだろう。」としか言っていない。その想像こそわれわれが考えなければならない重要問題である。
もう一つ言っておこう。バルトの『今日における神話』という文章から。
この文章は何を言っているのか、わかるかな。属詞とか、わからない言葉が出てくるが、こういうところで想像力を働かせるのも、重要な国語力だよ。」
わたしはフランスの高等中学の五級生である。ラテン語の文法教科書を開いて、イソップかパエドラかから引用された文を読み取る。Quia ego nominor leo.わたしはそこでやめて考える。この文章には両義性がある。一方では、単語の並びが全く簡単な意味を持っている。なぜならわしはライオンという名だ。そして他方では、その文はわたしにとって明らかに他のことを意味している。五級生であるわたしに呼びかけている限りにおいて、それは明白にこのように言っているのだ。ーーわしは文法の例文で、属詞の一致の規則を明らかにするためのものだ。その文章が全然その意味をわたしに対して意味していないとさえ言わなければならない。ライオンのことも、ライオンが自分をどう呼ぶかについても、わたしに話す気はあまりないのだ。その底にある背後の意味は、属詞の一致とかいうものの存在を、わたしに押しつけることにあるのだ。
今日における神話 『神話作用』
また僕のチャレンジ。発言してみた。
「そのラテン語の文は『なぜならわたしの名前はライオンという名だからだ。』という意味の文だけど、文法の教科書に書いてあると、そんな意味はどうでも良くなり、この文がラテン語の文法の解説のための例文という意味を持つ文になっちゃう、ということを言ってるんですかね。つまり文の元の意味に別の意図が重なっちゃうというか、そういう例として出しているんですか。」
「そうそう。そういうこと。文の意味って最初のレベルから広がっていっちゃう。重なっていっちゃう、というか、そこがわかんないと会話にもならないということだよ。このコノテーションがつまりは『行間を読む』ということの基本だと思うんだ。この能力を高めることも大事だが、『言葉で言っていること以上のことを感じちゃう、わかっちゃう。』という人間について考えようとすることは、国語の授業の大事な要素だと思うんだよね。」
確かに国語はセンスだとばかり主張してきた僕なんかには、こうした視点は面白いと思われた。国語という教科が、一種の科学とか文化についての学問っぽく思われてきた。
さっきの大野が乗ってきた。
「それっていろんな場面で現れてくることじゃない?」
「どういう時にこのコノテーションが、意識できるかなあ。」と教室のどこからか声がした。
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