72 『浮世の画家』 カズオ・イシグロ ハヤカワepi文庫
You are the apple of my eye の apple ってどんなだっての?
むかし、スティーヴィー・ワンダーという歌手がいてね、いや今でも活躍しているのかもしれないが、私は結構好きだったのよ。いろんな名曲があるけど、最初に聴いた曲が、「You are the sunshine of my life」という曲だっったと思う。前奏からユニークな、いい曲だった。その中で、「You are the apple of my eye」って言ってるように聞こえるフレーズがあって、下手な英語で口ずさんだ。
それを聞いていて、弟が「You are the apple」なんていう歌詞があるはずねえ、って言うんだ。弟は小学生だったか中学生だったか。「君はリンゴだ」なんておかしい、と言うんだ。それで口喧嘩になったことを覚えている。オレも自信がなかったんだな。「You are the “アポー”」なんて発音して、さも英語の歌が歌えるようにしたのを冷やかされて、ちょっと頭にきたんだな。
それであとあとになって(つい最近だ)「You tube」で検索してみたら、なんと「apple」と言ってるじゃないの!おれの耳は確かだったんだ、ということ。弟に「お前はあの時おれにこう言って冷やかしたけど……」と言ってやろうと思ったけど、弟もそんなことは忘れてしまってるだろうなあ、と思い返した。もう半世紀前のことだからな。
こういう昔のことを最近よく思い出すんだけれど、それはそれとしてだ、なんで「アップル」なんだろうか、ということを君らに問いたかったのよ。
辞書には「Apple of one’s eye」で「その人の大切なもの、人」という解釈があるにはある。でもそれで「なぜ、appleか?」ということはついに納得できなかった。「アップルは丸くて瞳のことを指す」というような説明はあったが、それで納得はできない。
「Big apple」なんていうのも洒落た言葉として使うから、「君は僕のアップルだ」が「お前はおれに恥をかかせて、顔を赤らめさせるようなやつだ」ということにはならないだろうことは察しがつくけど……。
ともかくピンとこない。『レトリックと人生』という本があって、そういうことに関する説明があるそうだが、日本語訳者が絶対読みたくないヤツなので、その本は買いたくないし。
なぜ、こういう話をしているかというと、「apple」がさまざまな意味を持っていることに注意したかった。
“apple”には、野球のボール、禁断の木の実、真空管、白人気取りのアメリカインディアン、大都会(ニューヨーク)、それ以外にも、ちょっと授業では紹介しずらい意味もあるんだけど、問題なのは、「You are the apple of my eye」と言った瞬間には、その多くの意味の中から選ばれた意味が採用され、別の見方をすれば、他の意味が捨てられて使われているんだ、ということね。
和英辞典をみてみると「彼女は僕にとってとても大切な人なんだ」
というときに「She is very important [precious] for me. 」 と言うらしい。このimportantとappleの差はどうなるだろう?あるいは、大事にするという意味で cherish という語も使われるらしいが、これらそれぞれの差は、どこにあるんだろう?母語で使う連中に聞かなければならないけど、多分何かしらの気持ちの違いが、スティーヴィー・ワンダーに「apple」を選択させたんだろう。それはもちろん「バナナ」でもなく、「いちご」でもなく、「オレンジ」でもなく、まして「ドリア」では絶対、ない。たとえ、スティーヴィー・ワンダーがどんなに「ドリア」好きでも、そういう言葉にならない。(当たり前か?)
こういうことを考えると、実に微妙な選択が行われているんだろうね。
もっと言えば、彼が全盲ではないくらいの、非常に僅かの視力を持っていたこと(これはあやふやな情報)。歌詞では、たぶん日光に光る真っ赤なリンゴをありありと想像したんじゃないか、なんて妄想すると、いろいろと僕たちの頭の中に、物語ができたりする。健常者としの私たちが唄うのとは、ちょっと違う感覚が、歌手としての彼が唄うときに感動としてあったのかもしれない。これはまさしく勝手な妄想だが……。
そして、歌の言葉が採用される際にこういう選択が行われているように、ある文芸作品が成立しているときには、言葉という単位よりも、もっと大きな単位で取捨がなされているんじゃないか。ここが大事なところだ、ということを言いたかったから、こんなアップルの話を長々としたんだ。
ひと言で言えば、何が生かされ、何が捨てられていったんだろうか、ということを考えてみよう、ということだよ。小説の中でも、ここの結末なり、物事の発生の理由なり、が書かれて当然なのに書かれなかったんだろう?とか、この登場人物は明らかに説明が欠けているところがある。あるいは、罰を受けてもいいはずの人物が、その後全く登場しなくなる。それが書かれていないのはなぜなんだろう?。というようような気持ちになる時がある。「この人きっと後でまた登場するはずだよ」なんて思っていたら、その人はそれっきり話に出てこなかったりね。
実は、そんなことを思ったきっかけは、ウンベルト・エーコというイタリアの作家であり、評論家であり、記号学の研究者でもある人の本を読んだからなんだ。エーコについてはちょくちょく引用するとして、(以前にもちょっとしゃべったけど)その考え方を利用して今回は実作としてカズオ・イシグロの初期作品を読んでいこうと思う。
まず、みんなは「カズオ・イシグロ」は知っているかね?ほう、意外にみんな知ってるようだな。そう、ノーベル賞とったね。日本出身で英国人の小説家だね。じゃあ、『日の名残り』って映画を見たことある人はいる?
ああ、まあほんのちょっとだね。もちろん小説を読んだ人は?これもほんのちょっとだね。いや、意外とノーベル文学賞の小説って読まれないらしいよ。私なんかも、生来へそ曲がりだからノーベル賞と聞いた途端に、そんなもん読まない、という気になっちゃう。大江健三郎なんてずっと昔いっぺん読もうとしたんだけど、つまんなくて。その後ノーベル賞取ってからはもっと拒否感が出てしまった。政治的には同感するような人なんだけど、小説自体は全く共感することができない人だったな。
ところがだよ、昔、同僚のw先生から、「騙されたと思って見てみな」と『日の名残り』のビデオを借りて見てみたら、これが感動的でね。役者が上手いということもあったんだけど、まいったんだ。この映画は当時話題になった作品だが、原作者が日本人(と言っていいのかどうかわかんないけど)ということもあって、そして英国の貴族に仕える「執事」が主人公の映画だったことも珍しくて、ヒットした。
「執事」ってただの召使いだと思っていたんだけど、そんなもんじゃないということもこの小説が話題になった頃、人々に知られたと思う。
とにかくこの映画を見て、「この執事のおっさんこそ俺だ!」と頭の中で叫んだ人は多かったんじゃないか。アンソニー・ホプキンスだったな。
まあそれで、原作も読んでみんべえ、というわけで読んだんだけど、これも正直感動した。なんか久しぶりに小説らしい小説を読んだと感じたね。単純に、「良い小説」という感想だったよ。ちょっと君たち青少年、少女にはどうかなとも思うけど。
今回はまずイシグロの初期作品を読んでみよう。それも、『浮世の画家』と次に『遠い山なみの光』という順番で読んでみようと思う。これは発表順は逆なんだけど、そのことからどんな問題に気づけるかやってみたい。これは君たちへ読み方の誘導をしてしまうことになるかもしれないが、それでも読みのヒントにはなるから。
あらすじとか、解説とか多くネットで検索してみると出てくるから、確認したい人はやってみてください。
では、誰か感想などあったらどうぞ。
『浮世の画家』についてはどんなことみ気付いた?
『浮世の画家』を読んでみました。単純な感想として、確かに面白かった。時代の変化をどうしても受けざるを得ないのが人間というものなんですね。僕たちは今そんなことは実感できませんが、あと30年、40年経てばきっと自分の高校生の頃を振り返ると、どうしようもない違和感をその時代に感じるようになるんでしょうね。
気がつけば、思いがけないところに自分がいることに気づく。そんな感じになるんでしょうかね。
それがこの小説の語り手「わたし」、つまり「小野益次」という画家なんです。
先生も、いつの間にか以前の自分の世界が変わってしまっていた、なんていう感覚がありますか?
ある、ある。いつの間にか学校もこんなになってしまっていた。つまり教師が教えるのではなく、自ら考える力をつけようという、という方向にな。確かにそれは間違いではない。というか、正しい考え方だ。
いつも言ってるように各自の意見、考え方はその人のものであって、特にこの授業ではどう小説を読むかはその人の権利だ。真剣にその文章を解釈しようとする限りはね。でも、それを発言する際に、いつもみんな自信があって言ってる?
何か自分がトンチンカンなことと言ってるんじゃないかと心配になることはないか?私は今も、そういう自分のトンチンカンさへの不安に満ちている。その不安はなぜ起こるのか?
あります、その不安。それは自分の言うことがもうみんなにとって当たり前の、陳腐なことじゃないかと疑うから。そして、自分の知識が足りなくて、そんな読み方しかできないんじゃないかと思うから。自信がないんですね。
そうなんだ。たとえば、アイドル歌手の心の不安についての作品があって、ある登場人物が実在のモデルに基づいて作ってあると、ある読者が知ってるか知らないか。これは大事な解釈の材料だ。それを知らないなら知らなくてもいい。でも、それを解釈に使うか使わないかは別にして、材料を持っていることは時として邪魔な時もある。
しかし無知が自分の読み方を新しい方向へ導くものになることもあるだろう。登場人物のモデルがどういう環境のもとに育ったか、なんてのが、この一つの材料だな。
それはそうだが、知識を生徒に与えようとする先生の意欲は、それでも大事なことだと認められるんじゃないかな。何も知らないほうが、作品を解釈するのにいいんだ、という考え方もあっていい、という考え方もわかる。でもそういう時ばかりじゃないということもあるね。
これ、実は大事なことらしくて、「認知言語学」という考え方の「百科辞典的知識」という観点と関係するらしい。
ま、こんな話も後で出てくるかもしれない。少なくともエーコを読むと、そんなことも出てくるよ。
まあ、文系の人間だって相対性理論だったり、量子学の知識がなくてもいいわけではないと聞きました。そんな学問も全く人間の行動と無関係というわけでもないらしい。だって、情報はエネルギーだ、なんて聞きましたよ。なんだかエントロピーなんて哲学っぽいですからね。
これ、以前の話の中で、ちょこっと出てきたんだけど、つまりことばの背後にある「百科事(辞)典」的な知識って、私たちのコミュニケーションの大事な項目らしいんだ。これらはまた後で、エーコ以外でも、パースっていう哲学者の紹介のところでも出てくるかもよ。
今回の小説にしても、読み取る際にそういう知識が問題になるわけか?最初に出てくる〈ためらい橋〉なんかそれ臭いなあ。橋の名前に何か意味がありげだ。そして、丘への坂道なんか、おれなんかでも「あれ……?」と思うけどね。おれの親の田舎は佐賀なんだけど、隣の長崎には〈思案橋〉っていう有名な橋、その跡地があるよ。昔の流行歌にもあるって聞いたことがある。なんか「思案」しちゃうんだよ。
それに長崎こそ坂の町だろう。その辺の知識を持つ人は、この小説の舞台を長崎だと連想するはずだよ。
ところがこの小説では「長崎」という固有名詞は出て来ないんじゃない?わざと書いてないんじゃないの?
この小説って、どうもそういうところが中途半端な感じがするんだ。
私も最初から宙ぶらりんな感じがしてた。「わたし」という人がいろいろ言ってるんだけど、それがすぐに登場人物だと気がついた。でもこの人が誰なんだかずっと言わないの。というか他の登場人物から呼ばれないの。見落とししてたら申し訳ないけど、文庫本9ページから始まって、36ページでやっと弟子が「わたし」におべんちゃらで、
”何年かのちわれわれが人々に、かの小野益次先生の門弟であったと告げることは、われわれの最高の誇り、最大の名誉になるに違いない”
なんて言ってるところでわかるんです。
「わたし」が小野であるなら、自分で自分をどう思ってるかがわかります。もちろん、それは弟子が言ってるんですが、それを平然と読者である私たちに語っているんですからね。そのあとで「わたし」は「胸が熱くなるような満足感を覚えた。」とある。嫌なおっさんですね。
そして、ふと気づくんです。こういう「小野益次」像は読者に「わたし」を「悪く」印象づける仕掛けじゃないかと。「かく語るわたしは、こういう男なんですよ」って。わたしは登場人物なんだから、全部を支配する神じゃない。だからこんなふうなことを言って、自分が読者に批判されたって仕方ないんだよ、って自白しているのかもしれない。
人物像を誘導している、っていうことよね。それ同感。「胸が熱くなるような満足感」なんて、むしろ偽悪趣味よ。意図的な自己の人間性の自慢よ。
でもそれを偽悪的に読ませるように語らせてる誰かがいる……なんてふうにも読めない?マトリョーシカみたいな……。どこかで作者に行き着くことになるけどね。そう考えると、前に「作者の死」なんて言葉で、紙のインクのしみとして出した途端に、作者は死なねばならないとか言ってたけど、どっこい作者ってしぶとくどこかに潜んでいるということ。これこそトンチンカンかなあ?
いや、今言われたことで、エーコの記号論の本にあったことを思い出した。後で紹介しようと思ったんだけど、『テクストの概念』という本の中の図も紹介しとこう。このイラストで一目瞭然だけど、本文も載せておく。
つまり、「語る自分を語る」ならば、それを語る人が想定されているわけであり、またその人を語る人を……と、考えなければならない可能性もあるのではないか。そんなことも思わせる。
「信用できない語り手」は「信用できる」俺、って言ってるの?
なあ、エーコ先生の文章も少しは理解できたんじゃないか?
こういう物語る技法によって、誠実に、全能の語り手ではない作品を生み出し、読者を迷わす(?)のがイシグロの狙いだというんだ。これを「信用できない語り手」と呼ぶ。これを説明したディヴィッド・ロッジの文章もついでに出しておく。
信用できない語り手を用いることの意義もまさに、見かけと現実のずれを興味深い形で明らかにできるという点にある。人間がいかに現実を歪めたり隠したりする存在であるかを、そのような語り手は実演してみせるのだ。そうした欲求には、かならずしも本人の自覚や悪意が伴っている必要はない。カズ オ・イシグロの作品の語り手にしても、決して悪人ではない。だが彼の人生は、自分と他人をめぐる真実を抑圧し回避することに基づいて進められてきたのだ。その語りは一種の告白だが、そこには、欺瞞に彩られた自己正当化や言い逃れがあふれている。最後の最後になって、自分についてある種の理解に 到達するものの、その時にはもう、そこから何かを得るには手遅れだ。
『小説の技巧』白水社”
実際、この小説にも、ロッジの言う「決して悪人ではない」けれども「欺瞞 に彩られた自己正当化や言い逃れがあふれている。最後の最後になって、自分についてある種の理解の心境に 到達するものの、その時にはもう、そこから何かを得るには手遅れだ。」と厳しく言われる『日の名残り』の主人公への評価を読むと、「でも、これは今のおれだ!」と叫びたくなっちゃうんだよ。正直にいうと、この『日の名残り』の感動は、これだな。自分のことを言われている気になっちゃうんだ。
先生の魂の叫びですか。僕たちにも将来そういう時が待ち受けているんですかねえ。だが先生、そういう先生の叫びの時にも、「欺瞞 に彩られた自己正当化や言い逃れ」がまだ残ってるんじゃないですか?これも、マトリョーシカのように、正直な自己批判・反省、しかしその表面の裏には、それを語る自分への正当化があり、またそれを否定する自分が反省を語り、そのまた内側には……という果てしない反省と正当化の波が重なってきているわけですな。
果てしない反省ね。お前、厳しいな。反論することも難しいけど、ちょっと今日はもうやめておこう。これ以上進めると、中途半端になるから。
次回はもう少し『浮世の画家』の感想などを聞くから、準備しといて。
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