76 『貧しき人々』その2 ドストエフスキー と 『駅長』 プーシキン も

       

『貧しき人々』 と『駅長』

話の筋だけが小説ではない。でもどうなるの?って思うのは、人の常。

先生
先生

引き続き『貧しき人々』の中途半端な書簡の先を考えてみたいが。
みんなには光文社古典新訳文庫の解説も読んでもらったよな。それでこの作品の終わりのところを確認すると、マカール・ジェーヴシキンの手紙は次のように終わっていた。ブイコフ氏って、ワルワーラが結婚しようとしている金持ちで、当然彼女を手に入れたら、それほど贅沢な暮らしをさせるとは思えないような、つまりケチな男だね。

それにしても、あなたにとってブイコフ氏って何なんです?どこが急に気に入ったのですか?ひょっとしてフリルをしこたま買ってくれるから、そのためなのですか?フリルが何です?なんでフリルなんて?あんなの下らないものじゃあありませんか!今は、人一人の人生の問題なんですよ。ところが、あんな物は、しょせん布の切れ端ですよ、フリルなんぞ、布切れに過ぎないんですよ。ワーレンカ、私だ って給料が入り第、フリルなんて山ほど買ってあげますよ、ワーレンカ。知り合いの店がありますからね。給料日までちょっと待ってください、私の天使、ワーレンカ!ああ、やれやれ!あなたはどうしてもブイコフ氏と一緒に曠野へ行ってしまうのですね、二度と戻らぬつもりで行ってしまう!ああ、なんてことだ!

 いえ、駄目です。もう一度私にお手紙をください。お手紙に何もかも書いてください。そしてもし行ってしまうのなら、あちらからもお手紙をください。さもなければ 、私の天使さん、これが最後の手紙になってしまうじゃありませんか。そんなこと、これが最後の手紙だなんて、そんなことがあっていいわけがありません。だってこんなに急に、これがどうしても最後の手紙になるなんて、どうしてそんなことが!冗談じゃない、私はこれからも書きますよ、あなたも書いてください ……。だって、せっかく今では私の文体も体をなしつつあるのに……。
ああ、私の大切な人、文体が何ですか!なにしろ今は、自分が何を書いているのかもわかりません。何ひとつ、何も わからないのです。読み返してもいませんから、文章を直してもいません。ただひたすら書いているだけです。ひたすら書いて、あなたになるべくたくさん書きたいのです…。私の愛しい人、大切な私のワーレンカ!

これで終わり。
さあ皆さんはどう読む?何を感じる?あるいは……?

羅漢
羅漢

「開かれて」いますねえ。どうなっていくのか、プツンと切れてしまってますねえ。
ブイコフという男の胡散臭さははっきりしています。そしてワーレンカはそれを半分承知しながら、迷いながら、この男の元にいってしまうことを決心したようです。でもその後のことは全くわからない。ドストエフスキーは口をつぐむ。
僕にはこの後彼女に幸せが訪れるなんて想像できませんね。ハッピーエンドを想定できる読者は相当な楽天主義者でしょうね。

二知
二知

それはそうですね。私もこの男の思い通りにはいかないと思いますよ。でもなぜ、この時点で小説が終わっているのか、それがわからないんです。問題点はそこです。当然そうなる、という予想はあるんですけど、でもその予想をさせる時点が早すぎるし、つまり予想する材料が無さすぎるんです。その意図がわからない。
ワーレンカの結婚生活は破綻してしまって悲劇的な結末になる、ということも考えられるでしょう。でも、旦那が早く死んでしまってワーレンカは愛のない結婚生活をすぐに解消することができた、なんてあったっていいんじゃない?

どうでもいいけど、行かないで!ってのも、なんだかなあ。

原

いいんだけど、やっぱり何か根拠が必要でしょう。よく言われるエヴィデンスというやつね。いやあたしはそんな証拠主義って嫌だよ。でもそういう思考に従いやすい自分もいる。何か材料がないといけないと思う。
ここらあたり、マカールの手紙には何が書かれているの?

羅漢
羅漢

行かないでくれ、という醜い哀願ですね。それしかない。ここが本当にアホくさい。どうしても登場人鬱への嫌気が湧き上がってくる。

先生
先生

その哀願するときのことばに何か特徴はないか。読者が引っ張られるとか、なんか引っかかるとか……。なんでこんな言葉遣いすんの?とか。

小池
小池

はい。ワーレンカはマカールに対して、もう完全なるお友達、相談相手という位置付けですね。9月23日のマカールの手紙には、

私の汚名をそそぎ、名誉を回復し、将来にわたって貧困と窮乏と不幸から守ってくれる人がいるとしたらあの方をおいて他にいないのです。私が将来に何を期待できるでしょう?運命にこれ以上、何を求めることができるでしょう?

と書いています。
ところがですよ、27日の手紙では、結婚のためにインナー・シャツ(下着)を縫ってくれるお針子が必要であり、何とか手配してくれるであろうマダム・シフォンに頼んで欲しい旨を書いてきます。そして、絹のレースとハンカチとストールの刺繍についての注文や変更を伝えてくれるように頼んでいます。また、追伸では、

どうかお願いですから、私がただいま申し上げましたことのうち、何ひとつ、お忘れになりませんように、あなたが何か間違えておしまいになるのではないかと、心配でなりません。いいですか、チェーンステッチですよ、サテンステッチではありませんよ。

と書いています。どう思いますか?ねえ、触毛くん!

ステッチにこだわる、というのが大事なんだ。命の意味にこだわるなんて変だろう?

触毛
触毛

どうも、ご指名いただきまして。

正直にいうと、つまらない。これドストエフスキーが読者を笑わせているんですか?わざと我々を呆れさせているんじゃないですか?
……あー、そうか……。これがポリフォニーだって言うんですかね?それだったら、この小説のユニークなところが理解できますけれど……。その試み自体は、結構面白いことですかね。そういうことならちょっと興味が湧くなあ。だって、我々がもし小説を書くなら、登場人物それぞれに作者であるわたしは各人に拡散していく、と思いますよ。それなのに、ここでは、作者は登場人物の一人になって、そこから各人に拡散しようとせず、ずっとその一人の位置に止まって停滞しちゃうわけでしょう。自分の拡散は誰にでもある欲求ではないのですか?
それから、最後のマカールの手紙には結婚について考え直せと説得しているけど、その中で「フリルが何だ!」と言っているね。そりゃそうだよ、フリルがどうだらこうだら。そんな女に惚れるなよって思うでしょう?普通は……。

衣装のフリル

でも、その「フリル」こそ、ワーレンカの生きる道、彼女のことばで言えば、「貧困回避と名誉回復」という一番重要なテーマの表象なんですからね。フリルにこだわるのは当たり前のことなんだ。というより、「フリル」によって何が読者にわかるのか、という考え方をしなくちゃいけない、ということでしたね、先生……。

フリルはむろん、可愛さ、贅沢、虚飾、とかを普通は連想しますねえ。


先生
先生

バフチンのいうポリフォニー小説ってことの具体的な表現が、今の話の通りでいいのかどうか、正直なところちょっと私にも判断つかないんだけど、しかし、そういうことと全く関係ないということはないと思うね。
すると、さてこの小説の結末と関係あるのかな。この後二人はどうなっていくのか、なんか考えられる?


風向
風向

前回先生の言ってた。この文庫本の解説に、ある作品との関連が論じられていて、それがヒントになってるよ。私はその小説を読んでみたもの。(へー、偉いねえ。という先生)


それはプーシキンの『ベールキン物語』です。これ文庫本になってましたから、借りてきて読みました。その『ベールキン物語』の中の『駅長』という短編です。
ある老駅長が(駅長というのは馬車の停まるところを管理する下級役人)、自分の宝のように思っていた娘を、そこに来た上級の将校に攫われてしまう。駅長は悲嘆にくれて娘を探し回り、結局彼女の居場所を見つけたが、彼女はその将校の妻となり、それなりの幸せを手にいれていることを理解する。駅長は一人で帰っていく。
老駅長が死んで埋められた後、身なりの良い婦人がその墓に祈り、涙する。そんな話だったと思います。

この作品は『貧しき人々』にもマカールの手紙の中で語られているけど(p353)、これを知っている人はワーレンカの未来を、当然この娘と被せて解釈するでしょう。
つまり、ワルワーラ・ドブロショワはこの結婚によって、本当の愛情ある幸福な人生を送れはしなかったかもしれないが、現実的な彼女の結婚の目的、貧しさから逃れること、これには成功し、それなりに満足して生きていくんじゃないか、ということです。
文庫本の解説では、今私が言ったこととはちょっと違う考え方が書いてあって、ドストエフスキーは小説の構造についての影響を受けているんだと言っている。けれど、私が読んだ限り、ドストエフスキーの「話を切ってしまった」理由は、プーシキンにあったと思うんだ。小説構造についての解説の言っていることは、はっきり理解はできていないんだけれど。

先生
先生

『駅長』については、岩波新書『ドストエフスキー』(江川 卓 著)に「プーシキン発見——メタ文学」という題で興味深い説明がある。ちょっと話が広がりすぎるから、この本については詳しくは言わないことにするけど、先行書を背面に置いて示唆するというのは、作者にとって魅力的な手法なんだね。

エーコの諸評論の紹介の時、『薔薇の名前』って小説をちょっと言ったかな。ウンボルト・エーコという人はその小説にすごくたくさんの、隠された裏の意味を込めたことばや表現を使っていて、それをひとつひとつ「あそこのあの言葉は先行作品のあそこを暗に意識して書いてある」なんていう研究書がいっぱいあるらしい。なんか、『007』のどことかを暗示させてある、なんてところもあるという……。本当かどうかわからないし、私の誤解かもしれないが。『薔薇の名前』にはについては、だからどこに何が隠されているかっていうのが、作品の読み解きに関係しているというんだ。
ドストエフスキーの小説にも、そういうところがあるんじゃないかな。というより、そういうところが彼の小説が特徴なんじゃないかな。

特に西洋一般に、『聖書』をその裏の種本にしているものが多いのは当たり前だろう。だって精神的なバックボーンになっているものだから。そこんところが僕たちにとってちょっと厄介なところだね。たとえば(これは全く架空の話だよ)、村でちょっと間違った情報を近所に流した女がいたとする。村のみんなは彼女を責めた。何といういい加減な話を広めたんだと。それに対してある口数の少ない痩せた男がみんなに、「そういうことをしたことがない人だけが、あの女を責めることができるんじゃないか!」なんて叫んだとする。読書している中で、そんな場面を読んだ人は、多少の知識を持っている人なら『ヨハネによる福音書』を思い出すだろう。あまりにベタなので、そういう連想をひっくり返すようなことを、その本から探そうとする人もいるかもしれない。
そんな話を書いた本人が、キリスト教とは全く関係ない、『聖書』の知識もないはずの鎌倉時代の禅宗の僧だったらどうだろう?

そうした連想を自分ながら面白いと思うんじゃないか。作者は関係なく、読者としての自分の連想が面白い。根本的な「ことば」の持つこの力をドストエフスキーは、意識的にこの二人の手紙の話を作ったんだろう。たぶんこの『貧しき人々』の場合には、まずみんなプーシキンを感じろよ、って仕組んだろうと思うね。

種明かしはちゃんとしてた、っていうことか。

圭

そうすると、ワルワーラ・ドブロショワのこの後は?『駅長』の娘のように、意外に自分の希望する、現実的に満ち足りた生活をしていった、ということですかね。もちろん彼女の指向は「フリル」にこだわるものですから、それはそれで良かったのかもしれません。でも、その判定は正解とか間違いとかの問題ではないですよね。どっかにそんな解釈をひっくり返す仕掛けが潜んでいるか、わからないから。

丸楠
丸楠

ポリフォニーを作者が意識したときに、作者自身はどこに行ったんだろうか。今までのやり取りを聞いてると、ワーレンカの俗物性はわかるけど、マカールはどうなの?それに『貧しき人々』とは言いながらこの二人は本当に「貧しい」人たちとは言えないよね。この下宿においてもっと貧しき人々がいることは誰でもわかる。フェドーラたち使用人たち。そしてあの元は役人だったゴルシコフ一家。彼らこそ本当の貧しき人々なのです。

では貧しき、というのはどういう人々なんでしょう。それについても説明があります。解説ではロシア語の「貧しき」は英語の「poor」と同じで、「かわいそうな」という意味があるんだそうですね。それなら、この作品の題名は『かわいそうな人々』がより近いんじゃないんでしょうか。そういう意味では、マカール・ジェーヴシキンもかわいそうな人だ、彼もワルワーラ・ドブロショワというよりも、彼女との手紙のやり取りにこだわっているように見える。もちろんあのボクロフスキーとその父はすごく哀れだ。さらにたぶんこの作での悪役の代表アンナさんとブイコフでさえも哀れな人だ。
哀れである、すなわち「人」、ということですか。

圭

それとぜひ僕がいっておきたいのが、マカールの窮地が「閣下」によって救われたという点について。

僕はここ、まさしく「落語」を感じた、ということです。9月9日の手紙の中で語られている事情です。閣下なる人物が、「(こいつを)なんとかもう少し楽にしてやったらどうだ。」とポケットマネー百ルーブル札を渡してくれた、という思いがけないことでした。
ここで読者はいったん気持ちが楽になります。やっぱりこういうことが必要なんだよね、って思いませんでしたか。皮肉で冷めた見方ですが、こういうところを作っちゃったんです、作者は……。正直僕は何だか安直な、時代遅れのお話のような印象を持ってしまいました。
解説では訳者はドストエフスキーがツルゲーネフから引き継いだものは、センチメンタリズムではなかった、と書いています。確かに新しい小説観を学んだということでしょうが、このマカール・ジェーヴシキンの問題解決の場面は、落語の人情噺を聞いているようです。ただ、それもドストエフスキーなんだ、という話はわかるような気もします。ああそうだ、今思いついたんだけど。日本でいえば、筒井康隆じゃないじゃな。上下左右いろんなことやってくれるじゃない。『文学部唯野教授』から『俗物図鑑』まで。ちょっと違うか?

先生
先生

さて、『貧しき人々』は書簡小説だね。昔から手紙のやり取りで小説を成り立たせる方法はいくつかある。この形、なぜ採用されるんだろう?たぶん今後は書簡小説というものは無くなるだろうと思うんだが、これまでこの形で小説が作られてきたところに焦点を当てて考えてみよう。じゃあ次回は『貧しき人々』を引き続いて検討してみよう。他の書簡体小説は次回紹介するよ。

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