77 『貧しき人々』その3 と『十二人の手紙』               

『貧しき人々』と『十二人の手紙』  書簡体小説はなぜ成立するのか

手紙の形で小説にするって、理由あるのかな

先生
先生

今回はまず『貧しき人々』が書簡体の小説であることで、どんな特徴があるだろうか、を考えて言ってみて。思いつきでいいから。

広田
広田

先週からなんか授業で一発言ってやろうかと思って、学校の図書館に久しぶりに行って本を探してみました。あんまりおとなしくしてると、やる気の観点の成績を悪くされちゃうんで。

驚いた。本校の図書館っていろいろ本があるんですね。当たり前か?おれ、今度で3回目か4回目なんすよ。放課後あんなに人がいるなんて知らんかったわ。勉強しているやつもいたけど、本を一生懸命読んでるやつもいた。やっぱり三年間だとおれとは差がついて、ずっと進んだ知識も身につけちゃってんだろうなあ、と今更ながら気づいたよ。

おれたちみたいに、SNSが命、の人間にとって想像もできない知的な好奇心に満ちた連中が、この学校にも多くいるっていうことが、ちょっと怖しかった。これじゃあ、差がつくな、と。格差社会というけど、これこそ格差社会のてっぺんの格差だ。おれの家は一応平均的な経済力はあるんだけど、自分自身がそれとは別の格差に気がついたよ。別に金持ちや勝ち組に入らなけりゃとは思わないけど、このままじゃあ、そういう問題点に気がつかないで大人になったり、気がついても、それを表現する手段を持たない人間になっちまう。武器ってのは知識、ことばだね。そう思った。これから、おれも本を読むよ。今までの勉強って、学校ではなく、塾で教わったことを頭の中に入れるだけ、そんなことだったけど、それではダメだな。

んで、ありました。前に話の出た岩波新書の『ドストエフスキー』江川卓著。目次だけ見た。どうも前回までの話と同じような話もあったみたいだよ。ドストエフスキーって、いろんなツッコミどころのある小説家なんだね。おれロシアの大文豪なんて、暗い話ばかりだと思っていたから、授業の話を聞いててちょっと違ってるの?なんて思ったけど、それを詳しく書いてあるらしい。でも、それは読まなかった。

もう一冊見つけたのは『ドストエフスキー論』、シクロフスキー著。これは難しそうだったけど、チャレンジしてみた。一部だけだけどね。

そしたら、こんな一節があった。1877年「作家の日記」というドストエフスキーの一連の文章の中に『おかしな人間の夢』という作品が含まれている、という。そこでシクロフスキーはドストエフスキーのなかに、自分自身の「俗物」性や生きる価値への疑問を読んでいる。

人生の目的とは何であるか、善とは何であるかという概念は失われてしまった。

人間と目的とのあいだには、克服せねばならぬ音響の障害物のようなものが介在していた。《……》

おかしな人間は、『貧しき人々』に登場するマカール・ジェーヴシキンの部屋とよく似た家具付きの下宿で、ピストルを自分の心臓に押し当てる。しかし死は夢のなかの出来事にすぎなかった。死の夢のあと、おかしな人間はべつの人生、人間の生存しえるべつの可能性を夢みる。

おかしな人間のなかにはドストエフスキー自身が存在しているが、それは、ドストエフスキーがおかしな人間を書いたというだけの理由からだけではなく、作家がかつてみずから体験したこのような話を、いまなおかれが忘れていないという理由からも説明できるが、いずれにせよ、この人物は、ドストエフスキーにとってはじぶん自身だったのである。

トルストイの『アンナ・カレーニナ』では、ブロンスキーという男が、自分が正しく生きていけないと悟って、ピストル自殺しようとする場面。つまり『アンナ・カレーニナ』と自身の作品を共に底に置いて、『おかしな人間の夢』という作品を作った。そしてそのなかの「おかしな人間」こそがドストエフスキーだということ。そういうことらしい。また、マカール・ジェーヴシキンであり、かつドストエフスキーである、と読んでいるようだ。

この『おかしな人間の夢』は、見方によっちゃあ、とんでもないSFなんだけども、読みどころは、どうしようもないニヒリストがいて、そいつは全てのことに意味を見いだせない。誰でもがそのままにしては置けないだろう困窮状態の少女に、道端で目を向けても通り過ぎてしまう。自分がすぐにピストル自殺することを決心していて、それによって認識できるこの世のものは全て消滅するのだという観念に囚われているからだった。そういう主人公をどう思う?さっきの引用は、つまり、マカール的な主人公をそう見ているんということなんだ。

おれなんか、ホントはそれほど極端ではなくても、少しこういう人間に近い、という自覚があるから、この結局こういう虚無感ってわかるような気がする。「どんなことしたって、うまくなんかいかない」っていうマイナス思考ね。そんな男の自殺後の、土の下の棺桶での感覚から、どうなっていくか、なかなか面白いアイディアだねえ。

しかしこれは、完全なモノローグだと思うよ。それでもドストエフスキーの「死」観が面白かった。トルストイの「イワン」の「死」とは違うものが私を取り巻いた。『三つの死』の「死」観とも違う。ドストエフスキーの幅の広さだなあ。

それにね、『貧しき人々』と『おかしな人間の夢』二つの作品でワンセット、として理解するという新しい読み方もできる。会話、議論の一つがモノローグとして成立していると。どうもドストエフスキーってそういう読み方のできる作家だったんじゃないかな。先行作のどれかとセットで理解するという作家なのかも。まあ、素人の印象だけど。

前にシクロフスキーという人については、授業でも出てきた記憶が(微かに)あるんだけど、今回文章を部分的にでも読んでみて、正直難しかったけど、言いたいことはこんなかなあって思った。

もう一つ。そのシクロフスキーの本の中の「肯定と否定」の章の最初に、グロスマンという作家のことばが引用されてる。これはおれにも一応わかる。

会話や議論の形式は、対立する意見のさまざまなニュアンスを異なった視点から順を追って統一し再現することを可能にするが、永遠に発展し、けっしてとどまるところを知らぬ哲学を表現するのに、とりわけ適している。現象の意味と世界の秘密を、たえず熟考しつづけたドストエフスキーのような芸術家、イメージの瞑想家のまえには、このような議論の形式が出現しなければならなかったのであるが、その形式のもとでは、あらゆる意味は生きもののようになり、興奮した人間の声で語られるのである。

これが、まあ、書簡小説を選択したということの理由ということだな、と思ったんだ。交わす会話によってどんどん深化していく哲学的な内容が作品の中心だ、ということかな。でも、正直、その深化した内容ってのが、わかんないんだけどもね。人間の本性なの?世界の意味なの?そんな目標地点なんかないっていうことだってありえるし。そこは読み取れないな。

『貧しき人々』についてはどうだろう

原

私は書簡でのやりとりって、会話とは違うと思う。つまり、脚本から「ト書き」を抜いたものということ、ではないと思う。どこかで会話に状況を説明するような部分は必要で、それがあると手紙ではどうしても不自然になると思うし、それが無ければないで、読者の頭にすんなり話が通っていかない。『貧しき人々』って、この説明不足があるんじゃない?もちろん、意図的にそうしているのかもしれないけど、そういう読書のストレスってあるんじゃないかな。

演劇部だからいうわけじゃないけど、あたし達のような素人集団でも、ただ脚本の通りに客に伝わればいい、というもんじゃない。簡単に言えば、目つきやセリフのない時の動作にしたって、それにセリフを言うときの声や音量にしたって、何かメッセージを客に伝えたいと思ってやってる。書簡体小説では、そういうところを、読者は補っていかなきゃならない。

反対に作者は自分の誘導に従って欲しいときには、なんらかのことばを入れなければ思い通りにならない。

どうしても、そこには手紙とは違ったものになっていくってこと。この『貧しき人々』は、それがすごく目立っているように感じるの。そこを現実に近づけようとして、自分の心境を説明したり、相手がわかる暗黙の了解事項を読者に説明しようがなくて、変な思い出話しをしたり、あるいは読者を置いてきぼりにしたり。これ、手紙じゃないよ、ってことが気になっちゃって仕方がないの。

小池
小池

相手に呼びかけるマカールのことばの変化をいう人がいるけど、それはどういう意図があるのかしら。「親愛なるワルワーラさん」「愛しい〜」「私のかけがいのない〜」「天使さん」などです。ワーレンカへの心境の変化?私はそれはどうかと思う。そんなことはちょっと感じられなかった。あまりにここにこだわるべきでないんじゃないかしら。それより、マカールの相手への思いのあやふやさ、曖昧な態度。保護者なのか、年上の愛人のつもりなのか。彼女に対する色々な援助は感じられるけど、それも下心があるような、無いような。そして、ワルワーラの方も、彼の対してどう思っているのか。援助への感謝か、援助してくれる男を弄んでいる気持ちがないのか。曖昧で、そこがポリフォニー的な感じがする、ということもあるんじゃないでしょうか。

打算でマカールと交際しているような感じが、私には強いです。前の授業で彼女の心理を表すものは「フリル」だという話が出ましたよね。これはまさしくそう思います。でも、そのこだわりが彼女の生きる唯一の方法なんですね。それならあの、何だったっけ、アンナさんね。あの人と同じことですね。ワルワーラ・ドブロショワもアンナさんも、同じだってことです。

尽明
尽明

私は思い切って言えば、彼女の過去の話の1と2ね、あれはワルワーラ・ドブロショワの作り話じゃないかと思います。田舎の親が苦労して、そして没落していった話。そして、ボクロフスキーの話。これを手紙として書いている。これだけしっかりした物語を書いている。これは彼女の頭の良さや意図を明らかにしているでしょ。ボクロフスキーなんて、マカール・ジェーヴシキンの男心を燃え上がらせる、架空の(ではないにしても有効な)人物ではないかと……。違うかなあ。読解にミスがあるかもしれませんが。

マカール・ジェーヴシキンに対する批判は、私たちに跳ね返ってくる

先生
先生

うーん。どうかなあ。手帳を読み返したとなっているからなあ。手帳を確認しながら手紙を書いた、という体だろ。ただ、さっきの話、読者のためにはこういう事情の説明は、必要だっただろうけどな。

相手の男は、カーテンの留め方でサインを出すのに喜んでいるような甘っちょろいやつだからなあ。女の方だってどのように対するか、少しは考えるだろう。

二知
二知

先生、ちょっとその言い方は……。まあ、いいです。

手紙の内容については何か一貫性がなくて、伝えたいことがはっきりしていないというのが私も感じました。これは前の授業でも言われていますが、何のために手紙を出すのか、ということが我々にすんなり入ってこない。特に私たち、現代の若者について言えば、SNSなどでごく短い単語、フレーズで連絡事項を伝える。その内容はたわいないものでも、率直に伝えることが重要です。手紙の何倍もの回数でやり取りするわけですから、伝えたいこと以外に脱線する余裕がないです。小説の批評、感想なんかは伝達することはありません。

当時の手紙と比較するのはナンセンスですが、コミュニケーションという意味では基本的に同じことなのに、むしろ手紙は、ありえないほど自由なんです。どんなにダラダラしている手紙でも、それは十分ありえるものなんです。読むのは嫌でも……。そこが書簡体の小説の存在理由ではないですか。

先生のように話が始終すっ飛んでいく人は、SNSには不適当です。

先生
先生

まいったねー。まあどうせ「X」なんて興味ないからいいけど。イーロン・マスクになんて絶対お世話にはなりたくないわ。……って、こういうフレーズがダメなわけかね。そうでもないだろう?

しかし、8月1日付のマカール・ジェーヴシキンの手紙なんか読むと、なかな考えさせるものがあるよ。これは、バフチンも書いてるけど。

貧しい人々というのはわがままなものです——これはもう本質的にそうできているんですよ。私は前からそのことは感じていました。貧乏人ってものは、こせこせしていて選り好みが激しいんです。世間を見る一風変わっていて、通りがかりの誰のことでもじろりと横目で睨むし、不安げな視線をそこらじゅうに投げかけては、何か自分のことを言われていやしないかと一言一句聞き漏らしません《……》

私のような平凡な「貧乏人」へのこういう痛烈な批判を読むと、近年SNSの、選挙に与える影響なんてことまで想起させるよ。はっきり言えば、我々大衆の「流されよう」だよ。敵対する勢力を作り上げ、大衆を誘導する。極端な言説によって扇動する。某国の大統領選挙も某県知事再選挙なんてのも、まさしくこれだよ。6月12日の手紙では、マカールは自分たちに「あのネズミみたいな木っ葉役人」と蔑まれるようなことも書いているけど、まさしく冷静で合理的な判断ができない「私たちネズミ」‼️まあ、ここの知事だって……。いやもうやめよう……。

まあいいわ。ここでひとつ私が傑作だと思っている書簡体の小説を紹介しよう。『十二人の手紙』井上ひさしの作品だ。これをドストエフスキーの書簡小説と比べてみるのも面白いんじゃないかと。12本の手紙のうち2、3本を取り上げて読んでみたいと思う。

では……まず、プロローグとされた「悪魔」についてはどう?

原戸
原戸

将来に希望を持った女子高生が就職のため上京し、最初は自分の思い通りの進路を手に入れたという実感を持てたのだが、それが裏切られて破滅していく物語ですね。昭和の、労働力を地方から送り込んでいくという時代にありそうな話でした。それ自体は特にオリジナリティが感じられるものでもなく、私は物足りなさを感じましたが。

ただ強く感じたのは手紙というものについて日本人がきちんとした形式を身につけていたいたんだなあ、ということです。昭和の30年代から40年代くらいでしょうか、こういう作法、ことば遣いがそれぞれの相手によって違うことは、ちょっと新鮮ですね。これ単なる時代の違いを読者に感じさせるんじゃなくて、もっと日本人とか、日本語使用者の底にあるものを感じさせる、幻想かもしれないけど、今の私たちにとってかえって新鮮な言葉遣いです。そして言葉遣いの差です。

先生
先生

誰か私にもこんな調子の手紙書いてくれないかな。こんな手紙もらうと教師も気持ちいいだろうなあ。まあ、手紙なんかもらえない教員の僻みだけどな。

日本の小説だからこそ、の傑作?

原

まあまあ。でも、私、気になったのは最後の方の19、20あたりの弟への手紙です。事情を説明するために、臨場感のために、カギ括弧付きの会話文を使わざるを得ないんです。

普通の手紙でも会話文を使うことはあるでしょうが、それほど頻繁にはないでしょう。

ここが作り物としての小説の問題点ではないかなって思うんです。英語でいう直接話法は書簡では違和感がある。しかし、そうしなければ小説としての訴求力に欠ける。(え?どういうこと?、の声)つまり、何だか迫ってこない、という感じじゃない?

『十二人の手紙』中公文庫 
先生
先生

じゃあ、「赤い手」はどう?

拝出
拝出

これはすごいアイデアだ。公的な届出、誓願書などをただ並べただけで、一人の女の人生を浮き上がらせてしまう。驚きだね。井上ひさしという作家って才能ありで有名なの?

私の追加アイデアだけど、たとえばさあ、演劇部で一人の役者を舞台に置いておいて、後ろにパワーポイントでこんな書類を順に映しておいて、最後の手紙だけ役者に話させてけば、ひとつの舞台ができるんじゃない?みんなはどう?

先生
先生

ひとりの人間の生きてきた道って、意外にそういう書類の中で語られているということなのだな。しかし虚構であっても、それだけで読者に想像させる手段になることを発見したのは、すごいことだね。

ところがもっと私がびっくりしたのは、「玉の輿」という題の手紙だよ。これはどう?

拝出
拝出

最後の最後でどんでん返し、ではない、もっと小説技法的驚きでした。

先生
先生

メタ小説的「落ち」って言えない?

それにしても、日本の出版って面白いねえ、こんな本があるのかね。この「赤い手」は書簡体の小説でなけりゃできない形だもんなあ。

さて、『貧しき人々』という書簡体小説との比較はどうかな、いや何か感想でいいんだよ。思いついたことでいいんだよ。

芸術の価値は面白さ。でも何に面白さを感じるか?が問題だ

栄古
栄古

会話や討論こそドストエフスキーの本領と言われているようですね。だから、『貧しき人々』の書き出しからの内容把握が難しくなるように、本当の書簡に近づけて、読者に対する忖度をしないように書いているんだろう、と思うんだけど。『十二人の手紙』は目標が違うんじゃないでしょうか。手紙というのは、あくまで井上ひさしのアイデア発露の手段です。井上ひさしはあくまで良い意味でのエンターティナーなんじゃないでしょうか。

先生
先生

そういえば、中公文庫の解説では、

かつて井上ひさし氏は、氏の戯曲の上演に際して、「芝居は趣向。これが戯曲を執筆するときの私の、たったひとつの心掛けである。(中略)芝居においては、一が趣向で二も趣向、思想などは百番目か百一番目ぐらいにこっそりと顔を出す程度でいい」(「天保十二年のシェイクスピア」初演のパンフレット、1974年)と書いたことがあるが、この『十二人の手紙』でも、趣向家としての井上氏の面目は実に躍如としている。

(扇田昭彦)

とある。

これは全く今まで読んできた批評文の流れに沿った、現代的な指向だ。良いか悪いかは別の話で、これからの作品がこうした技法、表現、言語学の影響を強く感ずるものになるとは限らないけど。

内容より形、ということなんだろうけど、ドストエフスキーだってそういうところもあるわけだからな。でもそこには強いメッセージがある。『十二人の手紙』には、正直、教訓的メッセージは感じられない、ということがある。しかも、君たちには与えなかったけど、全体として大きなトリックを作っているんだからね。練りに練っているんだよ。

また、この解説には、

要するに、手紙文は、最も感情の起伏ゆたかに、本人の人柄を説く直接的に反映する表現になりうるし、逆に人柄に厚いベールをかぶせることもできるし、社会的な儀式の文体も持ちうる。つまり、戯曲の台詞と同じように、人間の本来的にそなえている演技性の多様な表現、いわば劇的な表現にもっとも適した形式が手紙文なのだ。

とも書いている。その例がたとえば『新エロイーズ』だというんだ。これには「第二の序文」というのがあって、それがちょっと考えさせるものなのだけれど、これはまた機会があったら読んでみよう。

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