「もう若くないんだ」って、それはやっぱり言い訳だね
先生の長い無駄話は続いた。
「この、コノテーションを説明するときに、私がよく出す例が、昔の歌なんだけど『イチゴ白書をもう一度』っていう歌だ。この中でいろんな社会問題に興味を示していた大学生が、就職試験のあと(ここがちょっと変なんだけど、本当はその前だと思うんだけど)あるところへ行って、それをたぶん彼女に向かって『言い訳』した、という歌詞が出てくる。さてそれはどこで、何をしに行ったというんでしょうか、というクイズを出したい。どう?説明がわからなけりゃ、ちょっとYouTubeで聞かせてやろうか、一番だけ。」
広田がスパッと、
俺、この歌知ってるよ。前に、いい曲だなあと口ずさんだら、親父が『この歌だけはお前なんかに歌ってもらいたくない』っていうんだよ。何言ってんのこのオヤジって思ったんだけど、結構本気っぽくて、俺黙っちゃったんだ。
床屋に行って長い髪を切ってきたんでしょう?そんなに重大なことじゃないじゃん。就職の時に髪を切るのはそんなに問題なの?
と言った。「まあ、たぶんその頃はみんな長髪だったろうから、就職用に髪型を変えるなんて、後ろめたい気持ちになるのははわかるけどさあ。」
そりゃそうだけど、お前の父ちゃんにとっては重大な体験だったんだろうよ。その頃の学生運動とか、社会にスポイルされていかざるを得ない学生たちの感情とか、そして時代の雰囲気だな、そういうことに関する知識も持っていないとこのへんの歌詞の理解はできない。
それにしても、お前の父ちゃん、すげーいい父ちゃんだなー。
と先生は称賛した。
「結構年取ってできた子供だろう?いやー、えらい人だ。」
と、なんだかわけわからんことで生徒の父親を褒めだした。さらに言った。
「こういうことを理解できるだけの知識や想像力を鍛えなきゃだめなんだよ。そしてさらにその理解したところを説明するアウトプットする力と表現力ね。例えば、現実との妥協を自ら認めてしまった男が学生時代の自分の若さを懐かしく、羞恥とともに思い出す歌、とかね。あんまり上手くないかな、この説明。」
と、僕には先生が何を言ってるんだか、正直わからないところがあったけど、なんとなくわかったような気もした。ここのところは曖昧なまま、話は終わってしまった。何か深く理解をしなくていいという気持ちも先生にはあったような感じだった。後でネットなどで調べてみよう。続いて話は別の方向へ進んでいった。
「稚児のそら寝」だって決して単純な説話じゃない
古文だって同じことだよ。高校一年生の時最初の古文って『稚児のそら寝』でしょう、ぼた餅が出来上がるのを寺の稚児が待っていて、可愛らしい失敗をしてしまうという、例の話ね。あの説話は本当に難しいと思う。どこが難しい?それは、大人の僧たちは稚児が狸寝入りしていたことをわかっていたのだろうか?ということ。
もちろん、知っていたに決まってるじゃん。
これも大野の反応だった。
「evidence?」と先生。なんで英語なんだよ。
だって、かわいそうだから起こすな、とか言ってるのは僧たちが稚児をちょっと弄っているんでしょ?
「そうか、でもどうしてそれが分かる?」
「だって…」
「その僧は、本当に起こすとかわいそうだと思っていた、というのはダメ?」
「最後に坊さんたちは大笑いしてるじゃん。」
「なるほど。でもでも稚児が返事をした途端、僧たちは全てを悟った、という読みだって魅力的じゃないか?そっちの方がより面白い解釈だとも思われるんだけど。人間が何かの時、それまでの事情全てを悟る、なんてことあるよね。」
「いやいや、僧たちは『もうすぐ我慢できなくなって、なんかするぜ』とかなんとかしゃべりながらぼた餅を作っていた、という方が面白いよ。」
「僧たちは、『ほーら、思ったとおりだ。』と大笑いしたんだ、と解釈するんだね。」
僕はつい大野に言ってしまった。べつに先生の肩を持つ訳じゃなかったんだけど。
でも、それはどういう証拠があるか、どこの表現がそれを証拠立てるのか、と先生は聞いてるんだ。
こんなふうに、誰かが誰かの疑問に答えていくようなった。まだ一部だが、ちょっと教室はザワっとしてきた。おいおい敵の思う壺だぜ。あのおじさん、こうして生徒の発言を促しているんじゃないか、と僕は思ったが、僕自身の発言のせいだし、まあいいか。
「圭はどう思っているんかわからないが、僧たちがぼた餅を作り上げる直前に、みんながチラチラ稚児の方を笑いながら見ていた、なんていう表現があったら決定的なんだがなあ。」なんて誰かが言った。
「そう、それがエビデンスになるんだよ。でもなぜそれがエビデンスなのかを、徹底的に、論理的に説明することは無理だね、たぶん。でもそういうことが、みんなの同意を導く事になるね。」
それで僕も調子に乗って、
こういうふうに、なぜそう思う?、どこに書いてある?という問いは説明しきれないことですね。よく先生も行間を読め、とか言うじゃないですか。でもその答えはもともと可能なものなんですか。なぜ?ってずーっと続くんじゃないですか?
と言ってみた。
「そうだ。いま圭くんが言ったことが大事なんだ。私たちは書いてないことを了解しながら読む。これをしなければ文を読めない。言葉は不完全なものなんだから、どこかで読む人、聞く人が自分で介入していかなくっちゃいけない。だから面白いんだ。
だけど、なぜという問いは行間にあるものの存在に対しての疑問だから、それは読む人の解釈の権利だということになる。圭に対する答えは…確かに不可能なことなんだが、それでもその答えは目指すべきものだ、というところかなあ。あとで詳しく考えてみよう。」
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