「ちょっと質問していいですか…」
そう理解しちゃったんだから仕方がない、ということが認められるなら学校の授業で内容把握を問題にするのはおかしいと、僕は思うけど。
僕は思った。「~とはどういうことか」とか「~のようなことはなぜか」という問題は大学入試でも最も出題される問いではないか。先生は自己矛盾しているとしか僕にはとれなかった。授業が終わった後、僕は休み時間に職員室へ行って質問してみた。こんな行動は僕には初めてのことだった。よく真面目な生徒が廊下で色々な先生に質問しているけれど、あんなのは自分をアピールしている奴らのすることだ、とさえ考えていた。
先生の方も僕が職員室に来て、質問されることに驚いているようだった。だが、質問に来る生徒がいることは、大変嬉しいことだと盛んに言ってきた。
「先生、小説の解釈は個人の権利みたいな話だったんですけど、それじゃあ試験問題なんか正解も、誤答もないということも言えるんじゃないですか。」
ああ、本当にそうだな。ただし、
と(彼は自分の机上の本を持ってきて)それについてはもう回答は準備済みというように返答した。
「時間がないから要点だけ言うよ。ただしこれは私の個人的な考えであって、こういう言い方が認めれれているわけではないんだけど。
哲学者でフッサールという人がいたんだ。一般に現象学と呼ばれるんだけど、この人は『間主観性』ということについてこう書いている。あとで辞書を引いてみな。主張はこういうことだ。
(他の体験や性格素質も感情移入という仕方で我々は措定できるが、それらは自分固有のものと同じ意味で与えられ、所持されるわけではなく)それは、わたしと同じように自分の『心』、自分の潜在的な意識、自分の性向、性格素質を持っているような一つの自我であり、私と同じように自分の事物的周囲を見出し、その内に自分の身体を自分のものとしして見出すような自我である。そしてこの場合、擬似知覚的にではあれ、私たちに対面している他の自我が見いだす周囲は、だいたいのところ私たちの周囲と同じものであろう、私たちが自分たちの周囲で他の自我の身体として統握する身体は、他の自我が自分の周囲で自分固有の身体として統握するのと同じものであろう。そして、そのようにして相互に見い出し合い、相互にその周囲に組み入れ合う複数の自我の顕在的な周囲について当てはまることは、世界全体にも当てはまる。
間主観性の現象学 その方法 エトモント・フッサール ちくま学芸文庫
彼の本では、現象学という観点から、客観ということをまず疑い、しかしその上で間主観性ということを、それが客観に変わるものとして機能すると言っているらしい。おれたちはいろんなものに囚われてしまっているけど、ある一致点というものはあるんだ、ということね。これが作品解釈の基本的な態度じゃないかと、思うんだ。哲学は難しいけど、素人として私はそう読むんだよ。だから、正義だとか信念だとか、そして信仰だとかもいっぺん置いておいて、一致する地点を探す、そんなところが「国語の問題の解答」の落ち着き場所じゃないかな。それだって具体的にはどうにでも言えるけどね。」
「うーん、哲学って難しすぎる。でももしかしたら面白いかも。」
「いや、哲学の本って、本当に自分の読み方だ正しいのかどうかっていつも不安に思いながら読んでるんだよ。ただ、”現象学的還元”という”態度”は大事なことだと思うよ。
でもこれも、『そう読んじゃったんだから仕方がない』ってことだな。」
大学入試の問題としてふさわしくないのでは?
「それを小説読解に使える。ということかあ。でもそれじゃ入試の正解となると受験生としては困っちゃうじゃない?」
「そうよ、本当はそうだと思うよ。だってみんながお世話になる過去問の本の正解を比較してみると、それぞれ違っているところがあるだろう?いわゆる受験屋さんたちがいろんなこと言っているけど、正直、私はあんまり信じていないんだよ。本当に彼らが言っていることが全て大学の方での正解基準と合っているんだろうかと。あっと、これは言っちゃいけないことか。
ただ、今そう考えて授業しているつもりだ。あまりにも頓珍漢な答えでは困るが、なるほどこういう答えがあるな、とか、なるほど証拠らしいものに基づいて解答しているな、などの答えは正解としているつもりだ。しかし、選択肢の解答は難しい。
選択肢は出題者と解答者のコミュニケーションの場なんだと、前に授業でも言ったけど、出題者は誤答の選択肢にアリバイを含ませておくんだ。それに気づいたかという点だけが正解、不正解の分かれ目なんだ。入試のこういう問題はそれこそ出題者と解答者の『間主観的な同意』を目指しているんだ。
だから、その文章の著者が、問題をやってみて、満点を取れないのも当たり前だよね。間主観的な正解を求めてるんだから。著者はその文章解釈を要求できない。”作者の死”ということなんじゃないの?ここんとこのおれの理解に問題があるのかもしれないけど、大学入試の国語の問題の現状は大いなる幻想の上に成り立っていると思うなあ。
次回にどう読むかのプリントを配るよ。それも読んで考えてみて。」
なんか曖昧な言葉で誤魔化されているような気もしたが。ここでぼくは「どうも」と言って教室に戻った。
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