81 『牛肉と馬鈴薯』 国木田独歩

意外にこういうの好きなんだよ

先生
先生

今回は国木田独歩の小説を読んでみよう。今でもある程度の数の読者を保っている作家じゃないかと思う。

その代表作の一つと言って良いかと思うのが、『牛肉と馬鈴薯』だ。これを、私は高校生の頃に読んでいた。妙に気に入った作品だった。というのは、私はこの頃からお臍が曲がっていたので、主人公が人生の最大の価値を、出世とか経済的な豊かさとか、あるいは異性にモテるとか、そんなことに置いていないことに強い共感を覚えてしまったからだ。
 もちろんそれは「ポーズ」だ。カッコつけていただけだった。自分の能力や努力が不足していてコンプレックスの塊であることの言い訳を、ここで見つけたと思った、それだけのことだった。
しかしその時、私は、世間的には成功者とはなれなくても、この主人公のように他に価値観を見つけることができれば、それはそれで人生が送れるかもしれない、なんてことを考えたんだ。今から思えば、こんなことも自分を正当化しようとする私の悪い癖。それでも独歩の小説が、自分の怠け心を許してくれたような、そんな気持ちになった。
今読み直ししてみて、「牛肉と馬鈴署」という題名からして違和感を感じてしまうし、このクラブで話される問題として相応しいとは言えないようにも感じてしまう。高校生の頃のおれは、どうしてこの小説を面白いと思ってしまったのか、不思議な感じがする。なんだか変な感じがする小説だよ。
みんなはどう読んだ?そして、なんか発見があったか?

風向
風向

読んですぐ、小説で描かれているのが理想と現実という二項対立だというふうに感じた。でもその二項対立って、ちょっとずれていると感じた。ジャガイモと牛肉って、対立的に捉えられてるけどそれは表面的なものであって、本質的なところでは食物だということで同じ。これ、大した違いとは言えないんじゃないかな。つまり、牛肉と馬鈴薯が現実と理想を表す、とは言っても成功による満足という目標は変わらないんです。求めているのは単なる自己満足でしかありません。
対して、驚きってのとはちょっと違う。驚くっていうのは、成功も失敗もない。単純な自己満足とも言えない。感情の問題ですが、それは、わたしには、より深い、複雑で、重要な問題のように感じられるんです。たとえば、この小説の中の、「吃驚したい」という欲望は、『山月記』でいうなら、むしろ虎になりたいという欲望じゃないか、ということなんです!ある人にはそれが人生の目標となるのに、ある人にとってはそんなことはどうでもいい。こういう二項対立のほうが面白い。牛肉と馬鈴薯との対立とは、ひとつ違ったフェーズでの対立のような感じ。レベルが違うんじゃないですか?

丸楠
丸楠

二項対立って必ずしも正反対の概念でなくてもいいと思うけど、ここに出てくる若い金持ちたちの議論は二項対立とはならない、つまり、議論にならない議論になっている、ということはその通りだと思う。でも、これだってテーマとして悪いわけではないでしょう?
何かで読んだんだけど、構造主義って二項対立の考え方が基礎にあるんだって?過去の授業で知ったんだけど、構造主義の考え方は興味深いね。でも、その後のポスト構造主義って、この二項対立というところがもとの構造主義批判の理由になったらしいね。何回か前のこの授業でやった、ポール・ド・マンなんかはそういうところがあったらしいじゃん。

つまり、何が言いたいかというと、二項対立は意識の対立の層で、いくらでも段階的な分割ができるだろうってこと。全てが二股の樹形図を想像してみて。それらの別れ目はいつも二項対立だ。この小説については、問題は、彼らが議論している対立が、いかに自己のエゴを満足させることができるようになるのか。現実の快感か、あるいは現実というものに抵抗する自分の姿に快感を得る、という屈折したものか。それだけの違いでしかない、と感じるのよ。わざわざ二項対立を三項の対立にしたいとするのは、キリスト教の”三位一体”を成立させたいという意図があったからだ、なんていう人もいるみたいだよ。

風向
風向

それじゃ岡本の「驚きたい」ってのは、どういうものと捉えるの?

吃驚(びっくり)って、そんなに大事なこと?

丸楠
丸楠

さっき言われたんだけど、「驚き」は「樹形図」の根元にある二項対立と言えないか。たとえば以前に授業でも紹介されたショーペンハウアーの言い方なら、「驚き」に対立するのは「退屈」ということかな。人は「退屈」に耐えられないって書いてあったと思うけど、「退屈」に対立するものは、あの『意志と表象としての世界』では「苦悩」となっていたな?つまり、岡本は「退屈するより苦悩」を選ぶ、そういう欲求を持つ、っていうことを言ってるんじゃないか?
『意志と表象としての世界』第57節ところで

退屈というものこそ、やすく見積もってはならない害悪である。それはとどのつまり正真正銘の絶望を顔に表わす。人間たちのように、お互いに好きあってもいない者どもが、かえってひどくお互いに求めあうようになるのは、退屈のせいである。これによって退屈は社交の源泉となるのである。またいたるところで退屈に対して、ちょうどほかの一般的な災厄に対すると同じように、すでに政治的な手腕にもとづいて公共的な予防処置がとられているが、これは退屈というこの害悪が、まるでその対極にあたる飢饉と同様に、人びとをとんでもない放埒な振舞いにかりたてかねないからである。
《……》
窮迫が庶民にとって終始変わらない鞭であるのと同じように、退屈は上流社会にとって鞭である。中流の生活では、窮迫がウィークディの六日間によって代表されているのと同じように、退屈は日曜日によって代表されているのである。〈全集第3巻〉


と言っている。まさしく、この通りだね。ここを読んで考えていると、なぜか独歩については、ひどいニヒリストのようにも感じてしまいますけどね。

二知
二知

あたしは……。退屈よりも苦悩に惹かれるということについて、ちょっとわからない。その「苦痛」と「驚く」とは同じだっていうことなんだという主張。これがちょっとわからない。

小池
小池

そう?わたしはたとえ苦悩であっても、何か自分の体験を超えるものに対して、それを求めたいっていう感情は、理解できるような気がする。いや、変な目で見ないでね。まだ体験したことはないけど、たとえば失恋や(ヒェーという声)、もっと言えば誰かとの死別なんかも、もしかしたら新しい感情の体験は、どうもわたしにとって完全に否定すべきことではないのかもしれない、なんて思う時があるんです。なんか、自分の中でそういう悲しい体験について、全否定すべきものとは思っていない。もちろん苦しみや悲しみはない方がいいに決まってるけど、でも何にもない、起伏のない人生を歩むくらいなら、むしろ苦しみを求める。そんなふうに私は思ってるのかもしれない。部活動とか、勉強とかでも同じことなんじゃないの?
これは何かを知りたい、っていうのと同じ話じゃないかなあ。これ、どうしようもない欲求なの。この欲求って、驚きたいということと同じことだよね。

竹田青嗣は上手いこと言うなあ、この人の現象学を批判する人もいるらしいけど、そういう「哲学学者」も、こういう「文学力」持ってから、哲学を語るべきじゃないか。

先生
先生

苦痛を好む、なんてなんだか変な話になってくるけど、真剣な話だから、みんなもしっかり考えなければならないぞ。
今の発言は考えさせるものだったな。
このあいだ、何人かの生徒にちょっと哲学とかの文章で読みやすいものを教えて、ということを尋ねられたんで、あんまり推薦図書って言わないんだけど、『意味とエロス』はどうかなって言ったんだけどね。その中で著者の竹田青嗣はこう書いているよ。えーっとどこだったかな、こういうところが準備不足だな。……あった、あった。

《……》世界を認識しようという欲望、つまり〈物語〉への欲望は、もともと虚妄なものではなく、それが実存の普遍性からもぎ離されるために虚妄なものとなるのである。
『意味とエロス』(ちくま学芸文庫p168)

〈痛む〉とは一体どういうことかという問いは、〈ある〉とは一体どういうことかという問いと全くひとつであって、私たちはそこで必ずもう一度”存在論的な問い”に立ち戻る必要があるのだ。
《……》
つまりなぜ〈痛み〉があるかという問いは、本質的にメタフォリカルな形でしか答えることができないものなのである。
たとえば人間の〈知覚〉を形式化しようとすれば、必ずまず刺激ー受容ー伝達という系(AーB ーC)があり、〈意識〉がそれをうけとめると今度は伝達ー反応ー行為(反応の現実化)というD ーEーFというもうひとつの還路の系が立てられる。どれほど体系が複雑化されようと、こういう系は全く基本的なものだ。(同p199)

何年か前から、ずっと、「現象学」っていうやつをなんとか理解したいと思って本を読んでんだけど、ほんと難しくてね。まあ遅々として進まない読書なんだけど、おもしろいことはおもしろい。なぜかというと、「それ小説読解にも使えるじゃん!」なんていうことを知ることもたびたびあったんでね。
その読書の結果、私が得た結論は、感じる世界のありさまを他の人に完全に、そして等しく伝えることは、絶対にできない、ということだ。なぜかというと、私たちが伝えたい「物語」の全体は、特に感動の内実を余すところなく、完全に伝えることなんか無理だろうから。(一人ひとりの解釈が全ての聞き手、読み手に通用するはずはない。)
作者が伝えたいことを完全に読者に伝達することは不可能なことだ、という原則は、現象学から引き出せる。客観の存在は証明できない。たとえば……
ある女が喫茶店で、向かい合っている男に、「ばか!」って言った。それは、どういう気持ちを言葉にしたのか?
それだけの情報で判断できるか?無理だよな。
この小説でいえば、「吃驚」ということの重大性だよ。その「吃驚」が人一人の生きることの本当の根源的なテーマだということは、「痛み」の説明と同じように、メタフォリカルなものでしか成立しないんだな。つまり、メタフォリカルなものに迫ろうとする独歩の創作がこの小説であると言えるのかもしれない。
筆者の竹田は、世界を、また「人間の超越論的領域(ロマン、エロス、美、倫理)」を、自分のものとして納得したい、というのは「人間の実存的な生の要請」であり、これは正当である、と言ってるんだ(と私は読んでいる)。

丸楠
丸楠

ちょっと待って。
……ということは、この岡本という男は愛する女の死で非常な悲しみに囚われる、かと思いきや、もっと根源的な、悲しみも超えたところにある「嬉しさ?」に取り込まれた男。この感覚への欲望は、悲しさよりも深い。日本が近代的な社会を作っていった明治という時代であっても、原始的な人間の欲望に勝てはしないという描いた物語、という読み方もできそう。そうなる?
ドイツ人でエルンスト・ブロッホという人のエッセイを、勉強のために読んでみたんだけど、その人の本に『異化』というのがあった。たまたま授業でやった言葉だったので、ペラペラめくってみたら、異化(Verfremden)というのはもともと心が傷つけられるという意味も持つ言葉だそうだ。

現在の「異化効果」は押しのけること、ある過程や性格を習慣的なものから置きかえはずすこと、としてあらわれている。そうしたものを自明のこととみさせないようにするため、である。それによって必要な場合には、目からウロコをおとさせること——教訓的、ただし間接的にのみ、である。とりわけ肝要なのは、それによってまさに固有の疎外に気づかされる、ということである。   『異化』p111

とある。
これは今の「吃驚」がまさしく「異化」の効果だという話に通じないか?岡本という人は自分がびっくりを望むということを知って、「疎外」も受け入れざるを得なかった、ということなんだよ。だから彼の最後に見せた顔はどうだった?「知ってしまった人間の悲哀」とか、そういうことだよ。
「近藤は岡本の顔に言う可からざる苦痛の色を見て取った。」とあるよね。岡本も近藤も、疎外を知ってしまったんだ。それは受け入れざるを得なかった、ということでしょう。そう読めない?

原

「驚きたい」は「楽して生きていきたい」というような欲望よりもっと人間的な欲求なんですか。「異化」は苦でも成立するし、悲しみでも成立する、それを小説は語っているんですかね。
それにしても、他所ではできないそういう話を、もっと学校で、授業で聴きたいなって思います。また、みんなでそういう議論をしてみたいと思いますよ。
ちょっと小説とはずれてしまうけどいいですか?そういう議論というか話し合いが、実際の授業の場面では、表面的な、「良い子の主張」みたいなものとなってしまいがちですね。今まで私たちも、自分の意見をもっと出せ、なんて先生たちに言われたりしてます。でも、中学校でやってたそういう授業なんて、内申点のためだったんです。しかも、そういう訓練はなんのためにやっていたか?
反論する相手を「論破」する目的だったんです。私、それが嫌ですね。
先生、YouTube見たことありますか?議論してやっつけてやった、なんていう単に口の立つ“知識人”の自慢の動画がわんさかありますよ。それらの動画、僕は本当に嫌いです。論破なんかしていなくても「言い負かした」と言い張るのもありました。あそこにあるのは感情的な言説の垂れ流し。
まあ、そういう動画は途中までしか見ませんけど。自分の感情が昂るのがわかりますから。いや、今も感情的になってしまいましたが、学校もそういう議論の「道場」になってしまうんじゃないかな、と心配になります。今のこの高校も、そういう生徒の“生産”を目指しているんじゃないですか。

先生
先生

いや耳が痛いね。でも、あまりに近視眼的な功利主義が、高校教育に入り込んでいるんじゃないかと思っているということは確かだな。私、フランスの教育って興味あるんだけど、どういうふうになってるのかな。なんかフランス人って、一筋縄でいかないように見えるじゃん。議論も上手いし、ああいうのを日本も目指そうとしているのかな。まさか、某国のメチャクチャ大統領みたいな人物を、フランスは目標としていないだろうが。ディベートのためのディベートなんて授業には必要ないと思うね。YouTubeでやってる「日本は偉い!」系の動画はつい見ちゃうんだけど、それは学校だけではなく社会全体で作ってきた、旧来の「シャイでポライトな人間づくり」の誇るべき成果じゃないの?
さて、面白い論議を目指して、問題に帰ると、私たちは根源的に「物語」を欲している。それは君たちも認めるのかい?確か『山月記』の時も、『よじょう』の時もそんな話が出たね。

原

つまり、私たちは何にも変え難い欲望を持っている。そして、なんでもかんでも新しい体験、新しい知識の獲得なんかは「ヒトの快」ということ?「実存的な生の要請」ってそういうこと?まあ、「超越論的領域」って言ってるけど、これはすんごく深い、ヒトの分際では了解できないような領域、あるかないかわからない領域っていうことかな。

岡本の過去の恋愛譚はなんのために描かれたんだろう?関係ないよね。

福生
福生

「超越」ね…… 先日、ある現代文の入試問題集に「超越」の反意語は何か?なんて出題されてたけど、答えを見てもわけわかんなくなった記憶があるけどね。答えは確か「内在」だったけど、それを見てもなんのことかさっぱりわからなかったよ。なに?哲学?現象学?
えーと、検索してみますよ……世界の創造主として世界を超えている神、意識によって定立されるのではなくそれから独立する存在など。なんて出てますけど。あとカントとかの使っている意味がいろいろ難しく出てる。
まあ、確かにわれわれの了解している範囲の外にあるもの、ことって、いっぱいあるからね。たとえば「生きる意味」なんて、そんなもん完全に僕らの了解の範囲外だし、ほんの少し前の世界では、「相対性理論」なんかだれも思いもつかなかっただろう。今現在だってどれだけの人がわかっているか。かく言うわたくし福生だって、本当のところは分かってない。でも、この理論は現実に妥当している理論であったのに、アインシュタイン以前の世界としては、「超越」に属するだったわけだ。(こう言う理解でいいの?いやこういうのは超越ではないな)でも、現在の超越(これもダメな表現だと分かっているけど)領域にも現代の全知能が認識できないことがあるはずだからな。

尽明
尽明

話は、岡本の語る人生の価値について、どう考えるのかということだったよ。
改めて経緯を辿ってみますか?
岡本は少女に恋をした。ある日彼が少女の家に行った。少女は「なぜこんな世の中に生きているのかわからない」と言った。この時から彼は恋の奴隷になってしまった。二月ばかり経ったある日、ある友人の送別会に、その恋人とその母と三人で出席した。二人を家まで送って行った途中で母は、その友人夫妻の境遇を羨ましがった。自分の娘の相手である岡本と比較して、送別会の主役の夫婦の境遇を羨ましく言ったのである。(自分の娘の相手を不満に思っていた。これは作者独歩の体験が下敷きになっているらしいよ)娘は岡本の手を強く握ってきた。そして「母の言葉を気にしてわたくしを見捨ててはいけませんよ」と囁いた。岡本は「一種の寒気を覚えて怖いとも哀しいとも言いようのない思いが胸に塞(つか)え」てきた。二人を家に送り、芝の丸山まで来た時「もしかしたらあの女は死ぬんじゃないか」と思った。その山から降りるときに、道端の木の枝から人がぶら下がっているのを見つけて、驚いて交番に駆け込んだ。
そののち二人は北海道に将来の生活地を決め、岡本は故郷の財産を売り払うために帰郷した。そこへ電報が来る。少女は死んでしまったという。そして、岡本はこの話をもとに、「吃驚したい」というのが自分の願いだ、と言うのだった。こういうことよ。
ということは、どういうこと?「女は欠伸(あくび)をする」とか「恋愛に倦みたる欠伸は女子の天性」だとか、よく言ってくれてるけど……。いえ、作者ってのを誤解して読んでる。作者かならずしも登場人物ではない。それは分かってるけども。

つまり、この岡本の求めるものが、「物語」である、愛でも恋でもない。「物語」が欲しいんんだ、という読みが可能だ、というわけね。まあ、それはそうかもしれないわねえ。ただ、びっくりするということが目的、というのがねえ……
どうも、この授業で「物語」ということばが出てくる度に思うんだけど、そんなに特別に問題視することでしょうかねえ。生きる人間なら、どんな生き方だって、物語だといえば言えるんじゃないかしら。
わたしは、思うんだ。明治倶楽部という建物の中で牛肉・馬鈴薯を論じている男たち。そして、その男たちを待って冬空の下、「一六勝負」をしている車夫ども。それぞれがそれぞれに自分の一生を追い求めている。そういう群像、構図こそが「物語」なんだ、と。恋愛と現実の思い通りにならない苦悩があっても、吃驚というものを食べていくしかない岡本。いや、それを望んでいる岡本。その岡本を含む車夫や建物の案内人や、すべての登場人物たちの存在そのものが「物語」だ、という読み方を、わたしはしたいな。苦しいことだっていい。物語を食っていきたい、という人もいれば、冬空に博打に勝って物語を作っていきたいという夢中になっている人もいる。そういう舞台になっている「明治倶楽部」を感じてしまうのよ。一人の男の物語こだわりじゃなくて……

今村
今村

面白い。この小説は、明治という時代の建築物が舞台となっている演劇なんだ、という読み方だね。確かに自分の欲望を牛肉だ、馬鈴薯だ、と遊戯のような議論をしていた金持ちの若者たちに、岡本は、自分の驚きたいという欲望を主張するという設定が、そもそも不自然だよね。議論をしていた人々をカットして、単に自分の体験を語る形で小説を成り立たせたっていいわけだ。また、どうして「明治倶楽部」なんてところを選ぶ必要があったのか。実際に、作者はいくらかこういう、いわゆる上流階級への接触もあったようだが、彼らへの批判も感じられないことはないな。それでもこの岡本の語りには不自然な感じがする。岡本があまりに軽薄な連中を相手にしているようでね。
だから今の、群像劇みたいなものとしてこの作品を捉える考え方は、おもしろかったな。この日本の近代の歪みを感じさせるようにも読めるじゃないか。その上車夫たちにも意味を与える「読み」もおもしろいと思うよ。

佐々木
佐々木

この岡本の、あまりにエゴイスティックな「驚愕希求」とでもいうものに、すごく現代的なものを感じるねえ。もしかしたら少しファナティックとも言えるかな。芥川の『地獄変』みたいな感じさえする。これ相当先を走った小説じゃあねえの?だって、自分の本当の「願い」は「愛」なんかじゃない。「死んだ恋人の復活」なんかじゃない。ただ「喫驚(びっくり)」したいのだって。こんなエゴイスティックなやつをよく設定したよ。明治34年の発表でしょ。こういう発想ってもうあったのかな?

先生
先生

うん、どうだろうな?そこんところはよくわからないけど、ニーチェの影響をみる人もいるようだよ。(「国木田独歩の研究」中島礼子 で紹介されていた)このへん調べてみたらわかるかな。
さて、まだなんか言いたい人どんどん言ってみて。


この小説は、何が書かれているのか、ということを考えて言葉にしてみる、それがこの授業の目的だったな。ほんとはそういう読み方を自分がしていなくても、ほかの人と違う読みの内容を言ってみる。これが君たちの良い訓練になるだろうから。だから、他の人とは違う読みの方向を言えたらどんどん言ってもらいたいのよ。
それは、たとえばりんごを見て、我々はそのりんごを赤くて、ツヤツヤしているとみるけど、後ろにまわったら正面から見えないところが、なんと機械仕掛けになっていた、なんていうことだってあるかもしれない。なんとそれは人間ならアンドロイドのような、そんなものになっている。果実と機械の合体物だった、なんてね。これ現象学の入門書に出てくる話だと思うけど(ちょっと違うか……)、書かれている現象の多様な側面を読み取ってみることが、面白いんじゃないかと思っている。それを「~という物語。」と言ってみているだけなんだよ。つい人間の生きる目的、なんて話になってしまうけどね。物語こだわり、というより「多様な読み」こだわり、っていうことかな。だからいつも正解はないよね。中途半端と感じてしまうけどね。まああえて言えば、独創的で納得させるものが欲しいね。でも、自分勝手な納得でも、まあ、ここではそれもいいのよ。
では、他にこの『牛肉と馬鈴薯』について、なんか気づいたことがある人は?

圭

なんだか、この小説は頭でっかち、っていう印象が残りました。前頭葉にはうったえるものはあったけど、もっと頭の中心部には届かないというか……。だから僕は、この小説にはそれこそ「物語」は感じられなかった。宗教者や哲学者が、小説風なものによって自分の世界観人生観を主張しているような感じがした。
前に授業でやった言葉では、「開かれていない」「閉じている」ということですね。必ずしも悪い、失敗作とは思いませんが。ただ、語られすぎている、ということは感じました。
特にそれは、「吃驚(びっくり)したいというのが僕の願なんです」というセリフです。ここまで岡本に言わせなくてもいい、と思いませんか。それに岡本の発言までは男たちは牛肉か馬鈴薯かの選択を話題にしていた。これは理想か現実か、という選択でしょう。ところが岡本の言いたいことは、まず、「恋愛」と「死」でした。さっきの話でもあったけど、短編小説のターゲット。二項対立が突然移動してしまっている。そのうちにその「死」よりも、愛人との別れの悲しさよりも、それを体験して驚愕することが、自分にとって価値あることであるという結論に変わった。
英文の句が二行ありますが、新潮文庫では注釈があります。カーライルの文だそうですが、「目覚めよ哀れな悩める睡眠者よ、汝の動かぬ夢魔を振り落とせ」という意味らしい。目覚めているか睡眠中か、の二項対立になっている。彼は目覚めたいと言っているわけです。この文は「岡本の手紙」という別の小説(?)にも書かれているが、もっと言うと、生と死、愛と別離などよりも、睡眠からの目覚め、なんです。そのアイディア自体は面白いと思う。でも、そこまでの距離が小さい。その距離をいかに読者を導くか、いや導いちゃいけないか。もっと騙してほしい、っていうか、そこまでは頼んでないというか。なんかそういう不満はありますね。

アリストテレスだよ!『ニコマコス倫理学』だよ!

曽宗
曽宗

おれ、この講座に触発されて、柄にもなく最近図書館でアリストテレスなんかペラペラめくっちゃった。『ニコマコス倫理学』なんて、どんなこと書いてあるんじゃろ?ってね。最初の方、わりかし理解できた(と思った)。「幸福」について書いてあるね。まず、我々の望むものは「善」である。それを扱う学問は「政治学」なんだ、とあった。幸福の追求を扱う学問が「政治学」なんだということに、おれなりに考えさせられたねえ。〇〇学というものが、時代によって内実は変化するものとも思うけど、政治学って本来は倫理まで対象となる、そういうものなんだ、ということね。今の政治学者、政治記者なんかそんな心意気なんかないんじゃないかな。

で、その目標とする「幸福」とはなんだ、というと、現実的な生活としては、「享楽的な生活」「政治的な生活」「観想的な生活」の三つだと言っている。ここ大事だよ。この「政治的な生活」というのが味噌で、つまりは名誉とか立派さとかそういう意味での幸福な実感を持てる生活、ということらしい。
そして、「観想的」というやつは、名誉とかを乗り越えた、ものの本質を追求していく生活、ということらしい。
そこでおれはこう考えた。つまりこの三つが描かれたのが「牛肉と馬鈴薯」だったんだ、と!
図書館で、良いものを発見したぞ、と!
倶楽部の中で「牛肉か馬鈴薯か」、と論じていた連中は「享楽的な生活」についての議論だった。彼らの言っていることは、単なる「享楽」の範囲の議論でしかない。
そして「吃驚(びっくり)」を主張する岡本の主張は、「観想」的な生活だ。じゃあ、「政治的な生活」を構成的なモチーフとして描いているのは?
……これを醸し出しているのが岡本の話に出てくる婚約者の母親なんだよ!彼女はどうも「享楽」を目標としてはいない。娘の婚約者としての岡本に不満があるのは、自身の「享楽」にこだわっているのではなさそうだ。しかし、名誉などの精神的欲望、他からの承認への欲望などは非常に強そうだ。(実際の独歩の恋愛経験にも恋人の母親に色々問題があったようだけど……)作中の人物の関係がうまく取り入れられている。だから岡本の話には娘の母親という存在が必要なんだ。どう?この恋人が出てくる理由はギリシャ哲学だったんだよ、ってのは……?

先生
先生

うーん。『ニコマコス倫理学』かあ……。まあ、一度読もうとしたことはある。途中で面白くなくなっちゃって、挫折したけど、最初の方にそんなこと書いてあったな。なるほど、もう一度読んでみるか。新しい独歩の解釈になるかな。
それに(これも一部しか読んでないけど)アリストテレスには『形而上学』という主著もあるね、その中の最初の文が、

どんな人間でも「知りたいという欲求」をもつが,これは生まれつきだ。その証拠に,様々な感覚が愛好されている。実際のところ,感覚は,役に立つというこを離れても、それ自体のゆえに愛され、またとりわけ眼によるそれが好まれる。

というもので、よく知られているところだ。これに従うと、岡本の言い分はアリストテレスの根本的な人間の見方に合っているということになるな。実際、我々学校の教師は、君たちのこの欲求に「火」をつければ、もう役割を終えるというふうに言われる。君たちの「おっ、それ、おもしれーじゃん!」というひと言さえあれば、その先はどんどん開けていく。そういう実感は教員の最も嬉しい体験だ。ほんとだよ。

さて、
そうすると、この小説は「『吃驚』によって創生される、観想的な生活が本当の幸福であることを主張する物語」ということになるかな。つまり、実利から離れて純粋に物事を捉えようとする知的な態度。そうした生活態度が一番の幸福につながる、という主張だね。まあ、昔の中国の隠者みたいな生き方を連想してしまうけど。
こんなことは誰かがすでに言ってるのかもしれないけど。

『アリストテレスの哲学(中畑正志・岩波新書)』には、この『形而上学』の始まりの文について、「生まれながらにして」という訳が「自然本性によって」と変えてある。訳者によればそこはもとの言葉では「ピュシスによって」となっており、この「ピュシス」とは、「生まれながら」という意味の範囲より広い意味を持つ言葉であるという。「成長や発達という時間的プロセスと養育や教育という社会プロセスのもとでかたちづくられること」も含む概念だという。つまり、私たちが生涯本能的に引いていかれる強い力だ、ということだろう。
「いない、いないばぁ〜」の時の赤ん坊の大笑いから、あの「つまりこれだったのだ!」「なんと歓ばしいことか!」という『イワン・イリイチ』の臨死の言葉まで、ずーっと我々が求めたいたものが「ピュシス」の持つ概念だということなんだろう。そんなふうに連想すると、『牛肉と馬鈴薯』の面白さも変わってくるようだ。
いま、大野が言ってくれたことに関連して考えてみれば、人間が生活するということは、常に経済的な豊かさを求めること、自由を求めること、というふうに外へ外へと欲望を広げていくことに他ならないから、観想ということは夢物語でしかない。生活は闘争、競争でしかないという現実に対して、すごく考えさせる物語でもあるな。見てみろよ。周りにいる大人たち、男も女も、学生も、生徒も、みんなこうした流れの中にいて、ちっとも不思議と思わないもんな。
……ああそうだ、みんなにはもう一つ読んでみてもらったね。同じ文庫に入ってる「少年の悲哀」ってどう?私は今こっちの方が気になってるんだけど。
今の「ニコマコス」なんかも参考にしながら次回も独歩の作品に関係させて読んでみるか。

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