小説の読解について説明 プリント
小説の読解について説明
小説に限らず、文章を読むという行為には前提として、書かれていないことを読み取ることが必要だ。登場人物の心理はどの作品もそれを明確に説明することはない。読者がそれを創っていくことが求められるわけである。となればその心理は読者がどう解釈してもいいはずである。少なくとも読者は自分なりに、そして自分の経験に応じた解釈が許されてしかるべきだ。だからこそ読書の楽しみがあるのだともいえる。
一方、正しい読解ということも主張される。「行間を読む」ということばがあるが、正しい文章の流れがあり、それをたどることは可能であり、そう読むべきだ、というわけである。「好きなように読む」ということは作者に対する背信行為で、読みの荒廃というべきことだ。そこには混沌しか生じない、というわけだ。作者が発するメッセージが歪められたら、テクストそのものの意味がなくなってしまう。推理小説の読者が殺人犯を自由に決めていいわけがないし、歴史的事実だって変えられてしまう。単に小説の読み方以上の重要な問題があるのではないか。こんな反論も想像できる。
はたして小説を自分勝手に読むことは、読者に許された権利なのか、そうではないのか。ふつうの人(?)にはどうでもいいことだが、国語科の高校教員にはちょっと大事なことだ。
目指すのは間主観的な了解 これが正解となる
私の結論を言えば、信念を持つ主観的な読みは大事なことだが、当然そこには「間主観的」な了解がなければならない、ということである。「間主観」という言葉を表層的な意味で使っているようにも自分で思うが、やはり「そう読む」理由をできる限り「言語化」して、(これに限界があることはわかっていても)感覚的ではないクリティカルな根拠づけをして説明する努力は必要だろう、ということになる。つまり、「こういう表現がされているからこういう解釈が可能」という理由付けが必要となる。これが解釈の「根拠」というべきものであるり、これがうまく説明されないと論理的な理由付けはできない。
これは非常に難しいことで、どう説明したらいいか、よくわかないことを言語化しなければならない。自分の気持ちとぴったりと合う言葉を出さなければならない。非常に難しく、だからこそそこに「国語力」が必要なのだが、ここに語彙力、ボキャブラリの多さという基本的な知識力の問題がでてくる。頭の中はいろんなアイディアや理解がいつも現れては消えていく(のではないか?)。それを意識化することは非常に大事なことである。
僕らは睡眠に入ろうとするところで何かをハッと思いついたり、目が覚めた瞬間にいろんなことを頭に浮かべることがある。こういう実感がある人は多いことと思う。この思考内容が意識で捉えられればさまざまな、オリジナルな発想となって外部に発信できるのではないか。
小説に限らず、文章を読むという行為には前提として、書かれていないことを読み取ることが必要だ。登場人物の心理はどの作品もそれを明確に説明することはない。読者がそれを創っていくことが求められるわけである。となればその心理は読者がどう解釈してもいいはずである。少なくとも読者は自分なりに、そして自分の経験に応じた解釈が許されてしかるべきだ。だからこそ読書の楽しみがあるのだともいえる。
そういう能力を高めるために、小説問題の本文の「物語文」(石原千秋氏の言葉)化が提唱されている。「~が~となっていく物語。」とか「~が~によって~となっていく物語。」というような文に小説がまとめられれば、それに沿う(問題への)解答ができ、また文章化して解答することも容易になるはずである。ジョナサン・カラーも「「解釈はつまるところ、『……について』のゲームである」と書いている。それは筆者の意図を目指していこうとする「宝探し」ではなく、読者が作る自分の受容の姿である。この能動的な姿が大切なのだ。
書くことが見つからない、と思っている人へ
もう一つ大事なこと。その自分なりの「読み」を見つけるためにはどうしたらよいかということである。物語文を見つけるには、それを創っている「雰囲気のための小道具」に注意して読むことが大切であるということを、生徒にはっきり指示しておきたい。「色」「季節」「時間」「状況描写」など、さまざまなことが読者を”そういった読み取り”に誘おうとする。それを知ることが大切である。では、そのためにはどうするか?「もし、この場所が羅生門でなく凱旋門だったらどうだろう」とか、「もし、変身した動物が虎ではなくパンダだったらどうだろう」とか想像してみると、「いやいや羅生門でなければななぬ」とか「パンダだったら平和主義者になっちゃう」とか、そこに何か自分の思考に発見が出てくるだろう。
また「道具や状況」「時代設定」、「主人公の立場や職業」などと幾らでも思考の種に気づける。すると、言語の体系は差異しかないのであれば、その表現が選ばれている、いないという差が、どういう効果の違いとなっているのかわかってくる。問題を明らかにしてくれると思う。「色」も大事な要素。なぜ夕日の赤さの中でその事件が起こったのか、などは読み取りを決定することになることがある。「緋文字」などにもあるようにある種の文化的な背景が読者を導くのはいろいろな実作で証明できると思う。下駄の鼻緒の色で所有者の年齢や嗜好をいうのは、明らかに作者が読者をある方向へ誘導する仕掛けであるが、それを読者がどのように自覚するのかを考えてみることは、有効な読み取りの方法であろうかと考える。
いずれにしても、新しいものの見方、新しい考え方の提案などを知ることは根本的に私たちの好むところだ。欲望とかエロスだとも言える。生きるための基本的なエネルギーなのかもしれない。
配付プリント 以上
頭の中ではいろんな発見をしている、というお話
私は最近しみじみ思うんだ。歳を取るということ。授業やら、試験問題作成やら、いろんなことでミスをしちゃうことでへこむんだ…。つくづく自分が情けなくなることがしばしばあるんだけどね。みんなも私のことそういう目で見てるだろう?ボケてるって…(こら、なに頷いてんだよ!)しかし、老いるということは一種のある新たな体験でもあるんだよ。そして、新たな体験は自分の衰えでも、それはそれで面白いものでもあるんだよ。『ああ、親父が言ってたあのことは、こういうことだったのか!』とか、『なるほど、耳鳴りってのはこういうふうになることなのか』とか、新しい実感は、いましゃべったようなちょっと面白いことでもあるんだ。私なんか頭の衰えだけでなく体のいろんな部分の痛みや痺れなんかも出てきて、辛いとも思うんだけど、ああこれかという実感は。新たなことを知ることでもあるんだ。
新たなことを知ること。いままでなんとも思わなかったり、他人の書くこと、言うことを実感することの面白みを感じることは、人間の性かもしれない。これも自分なりの物語を紡ぐということなんだろう。君たちだって今にわかることだ。今、嫌だと思う親や、うるさいと思っている年長者と同じ様になっている自分を何十年後かに発見するわけだ。その時を想像すると、ちょっと『ザマミロ』とかいう気持ちにもなるな。いや、これも失言でした。
まあ。小説を自分なりの、ちょっと独創的な読みをしてみてもらいたいな、という話でした。みんな同じじゃあつまんない。ということ。」
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