11 『舞姫』を別の見方で読み解くと

人の良し悪しの話は盛り上がるんだなあ

教室では「太田豊太郎は上ばっかり見ているヒラメ」だの、「裏切り者」だの、「むしろ国への貢献者だ」の声が上がる。また「エリスこそがずるい女」だの、「本当に夫のことを考えてない」だの、「子供が犠牲者だ」「本当の友達じゃない」などの声があちこちで上がった。収拾はつかなかった。

そこで、先生がいった。みんなちょっと待て、「オレの話を聞け! たった5分でいいから…」と。

先生
先生

『舞姫』の主人公への批判、同情の読み方は明治時代もあったんだ。日本の近代国家建設に参加しようとする青年たちの使命感。その一人一人の個人的な生き方を飲み込んでいく国家という制度。こういう日本への問題意識を持ってこの『舞姫』という小説を読み解いていく立場はずーとあった。ほとんどの読者ががこの太田豊太郎という主人公を、エリスを、友人相澤を、日本という国家を、良い、悪いというふうに判別していった。それが『舞姫』という小説の価値を決める基準になっていた。

でも、それ以外のこの小説へのアプローチの仕方はないんだろうか。そういうことだけ・・ではないこの小説の「説明」はないんだろうか。

みんな、どうよ? 『舞姫』とはどんな物語なのか?

圭

誰も何も思いつかないようだった。そこで、またお話が始まった

『舞姫』にはもっといろいろ言いたいことがある。『舞姫』はどんな構造をもっているのだろうということを考えると、《あるエリートの男が日本からドイツに留学し、そこで知り合った女性を置いて、帰国する物語》ということになる。

そこにみんなは書いてはないことを読みながら筋を了解していく。いわゆる行間を読むことがどうしても必要だ。暗黙のうちにこういう行動をしているということはこういう気持ちを持っているんだろう、という理解をしながら読んでいく。

留学中の恋人が、ドイツからはるばる日本に追いかけてきた事件

『鴎外選集』第一巻(1978 岩波書店)には『舞姫』の解説を小堀桂一郎という学者が書いている。そこには実際の鴎外の留学ののち、一人のドイツ人の女性が彼を追うような形で日本にやって来て、その女性を鴎外の一族が説得してドイツに帰らせたという件について次のように書いている。

鴎外は今では世間によく知られた経緯通りに、自分の跡を慕って遥々海を渡ってきたドイツ少女を帰国せしめ、やがて親と周囲とが強ひる様にして取り決めたところの平凡な結婚生活に入るのだが、この間の彼の心の動きはいろいろと屈折した形でこの作品中に投影されてゐる。鴎外は自分がドイツ人女性を妻にした場合それが自分の将来の官途にどの様な影響を及ぼすことになるかを、自らも考へ、他人の意見をも聞き、冷静に(    )したであらう。結果として彼は小世界の情味ゆたかな幸福を振り捨てて大世界での活動を選択したのだが、それは必ずしも鴎外の側が己の官途の栄達を選択したといふばかりではなかった。陸軍が、誇張して言へば日本といふ当時の発展途上国が、彼の学識と力量を必要とし、選択したのだといふことを鴎外自身も確と認識してゐたはずである。自惚ではなく、真剣に、一個人がその様に考へることがあり得るといふのが明治といふ時代の特殊性であった。それは苦い、と同時に幾分の、或いは多分の誇らしさをも支へた、悩ましいNoblesse obligeの意識に違ひなかったので、よく読んでみれば、一見腑甲斐ないただの行政官吏と見える主人公太田豊太郎の心事にも、この意識はちゃんと書き込まれてゐる。

エリスの本名がわかった、という新聞記事 毎日

この文章について、私はこの筆者に反発を覚える。いかにも右派の学者らしい鴎外の官途上昇志向を認めるような論調は見苦しいと思う。でも、それについてはここでは置いて、さあみんな空欄にはどういう語句が入るだろう?この授業がテスト対策にもなることを証明してから、本題に入るよ。

選択肢を与えると、1検討 2熟慮 3計算。どう?……

答えは、3! けっこう当たった人多かったね。

損得勘定という言葉があるし、3が最も良いだろうね。他の語句に比べてその行為があまり褒めれれた行為ではないニュアンスが出せるからね。しかし、どうしてそういうニュアンスがこの際良いんじゃないかという合意が成り立つんだろう。行間を読むといううことができるからなんだね。あるいは、行間を読まないと文章を理解できないからなんだろうね。それを確かめ合うのが、間主観性を持つ読解ということなんだ。なんとなく理解できるだろう?

それらは全て、暗黙の了解だ。では、『舞姫』の構造はどの様な暗黙の了解に従っているんだろう?

ナラティブあっての人間です

それは大まかに言って『どこかへ行って…何か起こって…帰る』というルールに従っている、ということだ。そう、遅れて来たゲームの参加者であるわれわれは、こういうルールに従わなければならない。私がすぐ想起するのは『浦島太郎』だ。こういう『物語』を”ナラティブ”と言い、そのルールについて研究するのを〈ナラトロジー〉という。普通〈物語論〉と訳すようだ。

「~という物語」という文を作るときに、その描かれている内容にかかわらず、どういう構造でなりたっているのかということに重きを置く物語の評価解釈を考えることが面白いね。関係する学問分野を「詩学」というらしい。必ずしも詩についての学問ということではない、という。人間の作る物語は無意識のうちにあるルールに従って作られるという(まあ基本的にということだろうが)。

有名な評論文に『BERLIN 1888』というのがある。『都市空間のなかの文学』という本に入ってる。筆者は前田愛という先生。このなかで太田豊太郎のベルリンでの行動は、表の華やかな世界(ウンテルデンリンデンや王宮周辺)と暖かいものに包まれる世界(モンビシュウ街やクロステル巷など)と行ったり来たりして過ごす。それこそが公の官吏、留学生として嘱望される彼の表の顔とエリスの同棲相手として愛情の中で生きる顔。これを表象しているのだ、というふうなことを書いている。まさに、いいも悪いもない。この小説はウンテルデンリンデンとモンビシュウ街との対立の上で最終的にウンテルデンリンデンを選択して(モンビシュウ街を捨てて)生きることを決断した東洋の男の物語だ、というんだ。

さらに私は、西洋をとるか日本を取るかという選択も重層的に示されていると考える。もし父=公、母=私と考えたら、豊太郎は父を選択したということだ。実際に豊太郎は父を幼い時に亡くしたので、生き残ったのは母だが、この小説の中では、その母を死なせている。それも、たぶん母は自死したのであろうことを暗示させる。母はこの小説では明らかに父の代用であると考えている。では、母はどこにいるのか。もちろんベルリンにいる。エリスだね。エリスは母の代用じゃないかな。(作者鴎外が父を亡くしていた青年として書いているのは、興味深い。)

現在のベルリン

こう考えると、日本から志を抱いて西洋に渡り、ベルリンという都市で表と裏(公と私)の表象を体験し、結局は表(公)を選択して、日本に帰ってくる、という物語、というのがこの作品の読み方だ、ということになる。行って、何かして(ミッションを完遂し)かえってくる、という物語のコード通りである、ということだ、

物語、お話、ということはこのことを意識すれば作れる、という人もいる。たとえばどんなものがそうだろうか、考えてみて。」

「映画なら『ナルニア国物語』なんか典型的な感じ。」

「ゲームでもあるよ。RPG『ドラゴンクエスト』。アニメでも『ワン・ピース』なんてどうだろう。僕の知る限りまだ帰ってはないけど。」 と、生徒からは声が上がった。

「私も、そのくらいは知ってるよ。」

やっぱり座りのいい物語ってあるよね

圭

と、先生は生徒が最近反応してくれるので、だいぶリラックスできているようだった。まあ、テストには出ないだろうけど。

「近代文学の傑作とも言われる『暗夜行路』もこの意味がある。そして、古典でも、西行とか、芭蕉とか。出かけた先で何をするか、が問題だ。『ワン・ピース』は仲間を作り、その繋がりを強力にしていく。『暗夜行路』などは自分を見つめ生きる意味を取り戻していく。みんなは『城の崎にて』を教科書で読んだろ。あれも、一つの回復の物語だ。君たちだって、今この高校に入学して、さまざまな傷をつけられていると思うが、それもいつか回復していかねばならない。それがいろんな物語を読む理由の一つかもしれないじゃないか。

ああそうだ、医療にもこの考え方が応用されているらしいよ。ナラティブ・セラピーといって、患者が精神的にダメージを受けて、それを新たな物語を自分に与えることによって回復していくことを目指す、なんていうことらしい。誰でもが、日々物語を作るために生きていく。物語こそ生きる『意味』なんだって。そう言われれてみれば、確かに『意味』のない生活なんて我慢できないのね。私だってみんなにしょうもない先生とか言われても毎日学校に来るのは、どこかで意味あることを生徒や他の先生とかに示したくて来ているんだろう。そんなことも考えてしまうよ。生きるのにはナラティブが必要なんだ。」

圭

こういうちょっと自虐的なところが鼻につくんだよなあ。そういうことわからないのかね。でも、まあ僕を含めてみんな自分のことは自分ではわからないもんだ。

「えーとそこで、ナラティブのことなんだけど、これも有名な研究があるんだ。歴史もちょっと古くて、二十世紀の初め、ロシアで民話研究が始まった。

ナラトロジー(物語論)の立場から見る

1028年プロップという人が『昔話の形態学』という論文を発表した。この論文が大きな影響を与えた。彼はロシアの魔法民話を集めて、ある発見をした。

1 昔話の恒常的な普遍の要素となっているのは、登場人物たちの機能である。その際、これらの機能が、どの人物によって、また、どのような仕方で、表現されるかは、関与性をもたない。これらの機能が、昔話の根本的な構成部分である。

2 魔法昔話に認められる機能の数は、限られている。

3 機能の、継起順序は、常に同一である。

4 あらゆる魔法物語が、その構造の点では、単一の類型に属する。

この結論はもちろんロシアの魔法物語昔物語に関するものだが、大事なことは”機能”ということ。これを31に分類したのだが、話の内容の差ではなく、物語の中の働きに着目したことだ。この辺の分類はよくはわからないところもあるが、その要素とは、たとえば主人公に対して何かが禁止される(禁止)、禁止が破られる(侵犯)、さらに主人公が家から出る(出発)、魔法の贈与者が現れる、敵との闘争、傷を受ける(烙印)、敵は敗れる、帰還する、などなどの言葉で説明される。最終的には主人公は結婚するか王位につく。

こういうお話の分析の結果、何がわかるのか?」

誰かが発言した。

「つまりは、物語の骨格はみんな同じようなルールにある、ということですか。」

「そういうことだなあ。私もその結論だけは理解しているつもりなんだけどね。つまり、私たちにはみんな『こうならなけりゃ話にならないでしょう」という了解がある、ということなんだよね。いや物語の研究はそんな簡単なことじゃないよ。もっと精密な研究がされているんだろうけど、でも私はそこが面白いなと思うんだ。

何年も前に、この学校でテレビドラマのロケをしていたことを知ってる?ある高校の弱小野球部が、だんだん部員の気持ちがまとまってきて、最後にはいいところまでいく、という話なんだけど。これロケがあった数日間は結構すごかったよ。有名なジャニーズ系のタレントが主人公の教員になっていて、そいつをひと目見たいと学校の外に女性が集まったりして。そんで、私はその当時ヒロインの女優の名前さえ知らなかったのに、その後その女優がだんだん有名になってきたり。

そのとき私の授業している教室の前の廊下を、そのタレントだの女優だのが歩いていくんだよ。生徒だってそわそわしちゃって。悪い癖で、私もつい調子に乗ってその授業で与太話しちゃって。『結局どんなドラマになるにしても、部員みんなの心がバラバラになって、その野球部は空中分解するという話には絶対ならないんだよなあ』なんてね。

空中分解ではドラマは終わんないのよ、当たり前だね。

同じようなことは、音楽でもそうだね。コード進行というのがあるんでしょ。変な和音では曲が終わらないのよ、普通はね。初めて聴く曲でも、曲が終わりそうだとなんとなくわかるじゃない。変な音で終わるのもあるが、全く中途半端な音では終われない。そうだろ?

全部、そのゲームの終わり方の様式というか、暗黙の了解というかそんなもので、お話も音楽も決められているんじゃないか。テレビドラマも、そこんところを無視して、斬新なドラマです、なんていってみても、絶対に視聴者は受け入れない。

こういうのを『コード』というんだ。遅れてきた参加者はこのコードを一旦は受け入れなければならない。みんなそれを受け入れている。言葉なんてすごく強い圧力だ。ピアスをしてきてはいけません、なんていうこととは比べものにならない。強いコードだ。でもみんなそのことに反発なんてしない。コードに縛られているという感覚さえも自覚できない。なんでかねえ。」

広田
広田

でもそれってだんだん緩くなっていくものじゃない?いまこの学校ではピアスなんてあんまりうるさくは言われないよ

「そうだね、でも緩くなってるのかなあ。私は変化していってるだけじゃないかと思う、コードが。」と先生。

よし子
よし子

そうね、社会や民族の規則って変化している感じがする。刺青、タトゥーなんかそうかな

大隈
大隈

そのくせむしろ厳格になっていくコードもあるよ。僕たちが自分自身をそうした規則の中に自分から入っていくこともある

よし子
よし子

大学生の就職スーツなんて典型じゃない?あんなにみんな同じスーツなんて日本だけでしょう?

「俺は絶対スーツで面接になんか行かねえぞ。」

「嘘つけ、お前なんか真っ先に買ってくるだろう。」

「うーん、そうだな。」

なんて、またあっちこっちで勝手なご意見。そこで先生が

「まあまあ。とにかく小説についていうと、この『舞姫』という短編がどういう物語のコードに合っているかというと、実は

その場から、行って、何かして、帰ってくる、という物語のコードに従っていることがわかる。最も典型的なのはどんな物語?」

みんな考えても答えは出てこなかった。そこで先生は

「『浦島太郎』は?」

というと。なるほど、という顔をしたヤツが多くなった。

圭

つまり、なんですか。『舞姫』は『浦島』伝説の明治版、ということを言いたいんですか

先生
先生

そうなんだよ。『舞姫』、は明治の『浦島太郎』の物語である、ということでどうだ?

圭

まあ。それならそれでいいけど。つまりそれがどうしたって言うと?

と僕はちょっと突っ込んでみた。

先生
先生

こうした考え方が、小説を構造的に考える、とでも言うことだろう。

そこでよ、同じような構造を持つ小説がまだあるはずだが。有名なところではどうよ

圭

そう言われても、なあ

と僕は今村の顔を見た。今村は今までひと言も発言なし。どこか遠くを見ている顔つきだ。

今村
今村

わからねえ

とひと言。

先生
先生

森鴎外が明治の作家の代表なら、他の作家はそんなに知らないだろうが

今村
今村

夏目漱石?

と、ぶっきらぼうに今村が言った。

先生
先生

何を読んだ?

今村
今村

えー、『坊ちゃん』と…。あっ『坊ちゃん』か

先生
先生

そう、『坊ちゃん』って面白くもない小説があったな。いやほんと、よく痛快な小説とか本の帯に出てるけど、こんな訳のわからない小説ないぜ。あれのどこが面白いんだ。悪い奴らを懲らしめるっていうけど、全然懲らしめてないよ。 でも、こういう意味で面白い小説だと思う。

『舞姫』と『坊ちゃん』は同じ構造だ、ということで。 続きは次回ね

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