あまりに単純な、お子様先生
漱石の小説は『こころ』など考えさせるところが大いにあって、私も本当に日本に得難い本格的な小説家とも感じるが、小学生くらいに読ませる小説としてなぜ『坊ちゃん』なのか、とずっと思っていた。自分でも全くこの小説の価値がわからなかった。今でもわかってきたと言えないくらい。くだらない小説ではないかという気までしてしまう
今までも漱石についてはいろいろな読み、解釈がなされていて、左の本もその一つ。しかし、皆さん『坊ちゃん』はお好きなようで。大岡昇平なんか、多彩で流動的な文章は他の作品にはないもの、という。頭で捏ねてない「快楽」を読者に与える、といっている。大岡昇平が言うんだから、間違いはないんだろうけど…
ある無鉄砲な男がいて、親には邪険にされながらその家で働く婆やには可愛がられる。両親が亡くなって兄が地方へ就職するとき、彼は一人東京に残され、ある物理学校へ入る。兄からは一定の金を渡され以後彼ら二人は連絡もなしに生活する。弟は卒業後四国のある中学校の数学の教員として移り住むが、そこの人々や学校の生徒、ほとんどの教員とはうまくいかず、生徒からはさまざまな嫌がせを受ける。私生活のことごとくを見張られているようで、また実際に宿直の際には生徒から陰険ないたずらをされる。田舎の生活は都会育ちの彼を意地悪く攻めてくるのである。若き数学教員を受け入れてくれるのは先輩の数学の教員山嵐一人と言ってもよいくらいだった。
その後、うらなり君という同僚の婚約者であるマドンナと坊ちゃんの中学校教頭などの人物がでてきて話が進む。教頭は赤シャツとあだ名がつけられ、この小説の第一の悪役である、彼は中学で唯一の学士で、いつも赤いシャツを着ているキザな人物である。赤シャツとその腰巾着の美術教師野だいこは数学の教師の堀田と対立しており、坊ちゃんを自派に取り込もうとするが坊ちゃんは拒否する。
また赤シャツはうらなり君の婚約者マドンナに言い寄りながら、一方で美人の芸者にも言い寄り、さらにうらなり君を遠く宮崎の延岡の学校に異動させマドンナを自分のものにしようとする。こういった赤シャツのたくらみに坊ちゃんは気付き、山嵐とともに赤シャツ、野だいこに制裁を加える。そしてそのまま中学校の教員を辞職して東京に帰り、婆やの清と生活することとなる。
ざっと読めば、ちょっとの時間で読めるような小説である。文章も頭に入りやすく、今回読み返してみてスイスイと読めてしまった。確かに痛快な中編小説と言えると思った。
坊ちゃんてすぐ頭に血がのぼる どこかの国の元首相みたい(一部保守系に人気があったのはこの攻撃性にあるのでは? でも、それじゃあ坊ちゃんがかわいそうか?)
しかし、やはり私には人物の設定が単純で、要するにうーんと唸らせるものが感じられない作品であった。なぜこの小説が漱石の代表作の一つとしてもてはやされるのだろう、という疑問はどうしても浮かんできてしまう。ストーリーは単純で、一本気で単純な“江戸っ子”とキザで裏表のある上司という対立があり、結局は単純な若者が汚い上司に鉄拳制裁し、辞職して帰る、という勧善懲悪の話である。
さて、漱石の『坊ちゃん』を読んで、皆さんはどう感じただろうか、ということを。ここで聞いてみたい。……では羅漢君。」
僕は小学生の頃読んだので、よく覚えていないんですが、そうくだらない小説とは思っていません。やっぱり、世の中で正義は勝つ、という話の流れはそれでいいんじゃないでしょうか。いかにも赤シャツは嫌なやつだし、野だいこはそれに輪をかけて嫌なやつだ。それに比べて山嵐は勇気もあるし、坊ちゃんよりよっぽど理性的だ。
それに僕は、清さんとの心の触れ合いというか、暖かいけどさびしい交流が好きだなあ。さらに中学生というと、旧制中学だからちょうど僕たちくらいの年齢だろうけど、やっぱりダメな年代ということになりますが、自分のことが書かれているような気持ちにもなります。先生も生意気な年頃の僕たちが嫌いでしょう?
この最後のひと刺しが羅漢らしい。
「いや。ほんとに……。」
と、先生は言ってしまった。こういうところも、この教師の脇が甘いところだ。何回かこの先生は校長だか教頭だかに注意されているという話を、自分で言っていたぞ。
でも、羅漢よ、この授業で『舞姫』と『坊ちゃん』と話題にしたのはなぜか。何か気付くところはないかよ
ああ、前に先生が言ってた、出て行って、何かして、帰ってくる、という形は同じなんじゃないかと思ったけど。そのこと?
いやー羅漢君!君はいい生徒だ!評価上げてやろう。忘れなかったら
と、先生は大はしゃぎ。実は僕は気が付かなかった。なるほどふたつ比べてみると正反対のような小説でも、そういうところは同じ構造と言えるのかもしれない。ふたつとも、『浦島型』の小説なのか。
「舞姫」と「坊ちゃん」の比較は面白いなあ
先生は自分の大発見と思っているのか、いつもと違う滑舌の良い声で言った。「鴎外と漱石は、日本の近代文学の両巨頭と言う人がいるほどだが、対比的な人生を送ったことも有名だ。陸軍の軍医として、官僚として階段を登っていった鴎外、同じ留学をしても、精神的に苦しんで悩み悩んだ上で帰郷し、のちに大学の先生を辞めて新聞社に入ったという漱石。生まれは中国地方の田舎の鴎外、江戸の有力な庄屋の家に生まれた漱石。(漱石の実家は今早稲田大学文学部のキャンパス近くにあった。ここの町名は夏目家の家紋をもとについている)そんなに出世をしても最期は墓に名前以外彫るなと言って死んだ鴎外。博士号をやると言われたのに拒否するくらい反骨だったのにえらく立派な墓と戒名が残った漱石。ほんとに面白いよ。そういう雑な知識で比べると面白い。この二つの作品は構造が同じ。そしてその構造を作っている内容がまた対比的なんだ。
『舞姫』は東洋の小国から華華しいプロシア・ベルリンへ。『坊ちゃん』は華華しい東京・お江戸から四国の田舎・小都市へ。
『舞姫』ではそこで何をした?自分の個人的な愛や生き方を経験しながら、結局本当の自分を捨て、出世と国家を選択する。『坊ちゃん』は、色々な実生活上の誘惑(給料を上げてやる、など)を受けながらも自分の一本気な本性をあくまで捨てない。『舞姫』では自分を縛ろうとする障害はエリスという少女だが、『坊ちゃん』では自分を縛ろうとする力は清という老女である。太田は女に金を与えて別れるが、坊ちゃんは清から金をもらう。
体験の軽重や決断の厳しさはともかく、ふたりの主人公は正反対の滞在を切り上げる決断に到達したのだ。無論、私たちは漱石に賛意を示す(だろう?もちろんそうでない人もいてもいい)。太田には軽蔑の視線しか与えない(というのが一般では?)。
しかし、単純に象徴的に言えば、『舞姫』では”父”が主人公によって選ばれ、『坊ちゃん』では主人公は”母”を選んだ、というふうに見たらどうだろう。無論太田は父ではなく“国家”を、坊ちゃんは本当の母ではなく”清”を選んだということも考えさせる点である。ここのところは、もっと深く読み取って上手い説明をつける=解釈する、という楽しみを取っておこうと、私は思っているんだが。
それにしても、『坊ちゃん』は徹底的な田舎・地方への蔑視に溢れているな。うらなり君の赴任する延岡なんか、人間の住むところじゃないような感じじゃないか。そしてちょっとこの坊ちゃんの江戸っ子気質は鼻につく。漱石における都鄙なんか面白いテーマのような気がする。さらに漱石自身は大学卒業後に中学校の英語教師として松山に行ったのだが、そこでは大学出身の教員は漱石一人だったというよ。とすると、『坊ちゃん』の中では誰にあたる?そう、赤シャツなんだね。これはどういうことかな。いろんな不思議が『坊ちゃん』にもあるということ。
物語論というのは難しくて、いろんな文章に当たってもちんぷんかんぷんなところがあるんだが、この二作品を対比させてどういう物語かを検討してみると、意外に面白い解釈ができるんじゃないかというところ、ガッテンしていただいたでしょうか?」
誰も、なんとも言わなかった。
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