13 「羅生門」でないといけないの?

どこの高校生もみんな読んでるらしい

「今日は『羅生門』を考えてみよう。もうあらすじは確認しないでいいかな。芥川龍之介の短編小説で、ほとんどの国語総合の教科書には載っている。思えばこれは異常なことで、日本のほとんどの国民がこの小説を読んでいる、ということでもあるんだ。それに相応しい小説なのか、まずは思い出して、感想を言ってみて。では福生、どう?」

福生
福生

うーん、あまり面白くなかったです。なんだか暗い感じで。なんでこんな話が高校一年生の最初の小説なのか、と思いました。人間が生きるために悪いことをするなんて当たり前ですよね

先生
先生

そうだよね。それでなきゃ死んじまうもんね。つまりこの小説はどんな物語、というと?

福生
福生

人間は生きるために悪事をするものだ、という物語

「なるほど、他には?竿頭さんは?」

誰しもギリギリにならないと……

竿頭
竿頭

まあ、今に生まれてよかったなという感想です。何か、この下人さんはかわいそう。何も頼るものがなくこんなに崖っぷちにきちゃって。もっと前に盗人にでもなんでもなっちゃえば良かったのに。物語という文にするなら、人は切羽詰まらないとその気にならないものだ、ということを示す物語、ということかな。あたしもこういう性格だから自分でもなかなかその気になれなくて困っちゃいます

「ああ、新しい読みだねえ。でもギリギリになればやるんだからまだいいじゃん。私なんかギリギリでも対処しなかったから、こんなところでこんなことしてやっと食ってるんだよ。」

圭

この先生、教育になんの価値も置いてなくて教師になったのかよ、ひどいね。でもこういう人は偽悪趣味で、意外とプライド高いから、下手なことは言わないほうがいいかな、と僕は思った

「普通はこの教材をやるときどうしても善と悪というテーマを前提に授業を進めるんだけど、それが悪いというわけではないんだが、もうちょっと別の面から読めないか、ということではどうかな。今、決断力という面から物語の読み方があったと思うんだけど。」

栄古
栄古

人間は功利によって生きるものだという物語

と栄古が珍しく発言した。前に読んだ小説だから、いろいろ自分の考えが湧いてくるのだろう。

栄古
栄古

いずれにしても、損得ですよ。自分が生きるという得は何ものにも変えがたい、根本的な欲望です。下人は正義感を持ったふりして結局自分が大切だということがやっと分かったんだ。自分で自分のことがやっと分かったんだ。違いますか?

盛んに自分自身が理解できたということを力説している。こいつはイタリア人っぽい楽天主義者だったはずなんだけど、自分自身を理解しているのかね……。

って、俺はどうかな。いやなかなか自己反省をさせるぞ、この発言。僕たちに「お前ら反省しろ、自分が分かってるのか?」って考えさせるために教科書に取り入れてあるのか?文部科学省の深いたくらみ?

また、物語論になっちゃうんだけど

「私が授業で紹介した物語論に関連して『羅生門』を読むとどうなるかな。圭くん久しぶりにどうだ?」

きたきた。前になんて言ってたかなあ。物語って「行って何かして帰る」、か。

圭

えーと、羅生門で雨宿りして、二階に行って婆さんを見つけて、夜の闇に消える、というんだから一階→二階→一階ということかなあ。物語というもので教わった線で考えてみると……

「すると二階で体験したこととは何?」

圭

死人の頭から髪の毛を抜く婆さんを発見し、その理由を聞く、と言うことです。つまり婆さんとの会話です

「それでその結果下人はどう変わった?」

圭

それは今言ってた自分が生きることを肯定した、とか自分がわかった、とか…

(なんか僕には畳み掛けてくるなあ)

「一階の下人はどういうふうに書かれているんだろう?」

圭

一階の下人ですか?えーと、途方に暮れただの、問題の後回しだの…

(そろそろ解放してくれないかな)

「具体的にはどんな人間かわかる表現は?授業でも必ずみんなに確認したところだと思うけど。どんな人間かと読者に感じさせるための表現、小道具とかをイメージャリーと呼ぶんだけど、どんなもの、ことがイメージャリーとして使われているかな。圭ばっかりじゃかわいそうだから、誰か?」

二知
二知

最初のところでは、先生がキリギリスを指摘してたのを覚えてます。イソップを連想しないか、なんて言ってた。これはなるほどと思っていたんだけど。そのほかには…、ああニキビなんかそうかな

二知さん、ありがとう。自ら発言してくれた。先生は、喜んじゃった……。

「おお、ニキビ。ニキビはなんの表象だろう?」

二知
二知

若さだって言ってた。未熟さや覚悟のなさなんかが連想されるって。

私もなるほどと思いました

「二階ではそういう下人の属性(変な言い方だが)が変化した、という事になるね。二階ではニキビから手を離した。つまり二階ではこの男はどうなったというの?一言で言うとどうなった物語と言えるのか。」

二知
二知

まあ、しっかりしてきたとか、大人になったとか、でしょうか?

「うん、それが善悪の側面から離れた見方と言っていいんじゃないか。ちょっと誘導尋問になってしまって、圭君、二知さんには申し訳なかったけど、私が示したかった文は、若くて未熟な下人が、羅生門の二階で死人の髪の毛を抜いていた老婆に会い、会話によって大人の覚悟を身につけて現実社会に戻っていく、という物語、ということになる。何度も言うけど解釈は自由。これにこだわることはないよ。自分で考え、できればそれを言い合って間主観的結論を求めよう、ということね。

イニシエーション、メンター

ちょっとかっこよく言うと、老婆は下人が大人になるための”メンター”(指導してくれる人)であり、彼女との出会いは一つの”イニシエーション”であった、ということになると思う。通過儀礼というふうに訳されているけどね。羅生門の一階は最初は問題を先送る、決断のできない未成熟の世界であったが、二階に登るという行為の結果、老婆を一種の指導者として決意を固め、その後もとの現実世界に戻って生きていく。その世界は汚れに満ちた世界ではあるが、それでもそこで生きていくということを彼は選んだのである。

つまり『羅生門』は通過儀礼の場所であった。なるほど門というものはある世界とある世界を区別する表象であり、一階から”登る”という行為も水平移動とは違う意味を与えるではないか。彼は婆さんとの会話を終えて、一階に降りることでまた汚い現実に戻るのだが、そのためには一度は精神的に“登”らなければならなかったのである。その結果が盗人になることであっても。だから、平屋ではなくて、二階がある建物が必要だったんだろうと思うよ。

『八十日間世界一周』は信用取引の物語

と、こんなふうに説明するとなんだか分かったような、納得できちゃうような気になるんじゃないか。こいう説明はもう誰かがしてるかもしれないが、少なくとも私は自分でこの小説を解釈した結果こんな文章を作り出してみた。生きるための悪は許される、という解釈とは別のものを捻り出してみたんだ。みんなが同じ読みをして何が面白いの、という気持ちだね。ちょっと強引でもそんな気持ちで小説を読んでもらいたいんだ。

この授業では最初からずーっと言ってるけど、数学でも”別解”があるだろう?鑑賞も別解が面白い。自分が本当に感動した理由やストーリーの斬新さなどももちろん解釈に加味して良い。そう考えてみると新しい小説の読み方ができると思う。この小説解釈の訓練はみんなの進路にも必ず有益だ。

理系だってそうだよ。物理学だって工学だって医学だって物語への欲望は人間の基本だからだ。もちろん法学だって経済学だって。よくは知らないけど、アインシュタインなんて、きっと頭に中は物語でいっぱいだったんじゃないかなあ。

よく”意味がある”とか、”意味ない”とかいうけど、この”意味”というのが実は物語なんだ。単純に役に立つとか立たないとかいうこととはちょっと違って、”意味”とはある価値観を持つ物語なんだ。これがないと私たちは生きていけないよ。日々の生活を考えてごらんよ。私たちの生活は、これをこうやればこういうふうになると、何かの効果や結果を予想して行動している。因果という規則の中で日々意味あることをし続け、そしてその結果が報われると信じている。それこそ生きる”意味”である。何か意識して行動するとき意味のない行動などはない。自由になりたいと思うのは、意味のある生を求めているからだ。みんなが高校で勉強する。人によっては塾に行く。テレビを見る。ネットを見る。SNSをテェックする。それは結果を求めているからだろう。身だしなみにすごく気をつける。頭髪にこだわる。彼女、彼氏が欲しいと思う。食べるもの、飲むものを考える。その全てがある結果を予想して良い方を選択する。当たり前だが、それはなぜなんだろう?それは生きる意味を求めているからだ。

金儲けをしようと投資をする。これもそうだ。金を儲けることは目標なのか。そうじゃないね。金儲けをするという物語を作って生きたいんだ。金儲けではないことで自分の物語を作ることができるんならそれでもいいんじゃないかな。出世をしたい、名誉を得たい。これも本当の目標ではない。目標は自分の物語を作り上げることだ。

こうして私たちは日々物語を作っている。作ろうとしている。

こう考えるのが“物語の専門家”とも言える人たちなんだ。難しいことは私もわからないけど…。なんとなく納得させられるような言説だな。

ところで、人間は物語を作る動物なんだが、これに関係するんじゃないかと、私が思っていることがある。実は私はずーっと前から「なぜ鏡は、左右は逆に映るのに、上下はそのまま映るんだろうか」ということを不思議に思ってきたんだ。みんなにも何かこだわって、どうも納得できる説明がない、ということはあるだろう?ない?」

佐々木
佐々木

そりゃありますよ。すぐには出ないけど。あっそうだ、プラスとブラスをかけるとプラスだけど、どうしてマイナスとマイナスとかけてもプラスなの?とかどうでしょう

「そうそう、そういうこと。ほかには?」

佐々木
佐々木

そういうのを集めたサイトがありますよ。くだらないけどなぜか笑っちゃうのもある。“渋滞の先頭は何やってんだ”とか。僕は“なぜ国語の先生の話は長いのか”とか不思議に思いますね

話長くて嫌だと? そんなら嫌がらせだ

「コンニャロ!まあ、そう思われても仕方がないな。でも、しゃべっちゃうよ。我慢して。

さて鏡の問題だが、これネットで検索してもいまいちわからない。NHKの『チコちゃんに叱られる』でも出ていたがすんなりと納得できないんだ。みんなはどう?……じゃあ、私の考えを言っちゃうよ。

ある本で(どんな本だったか記憶がない)、こんなふうに言っていた。『鏡はそのまま反射しているだけで、逆だとか逆ではないとか考えて反射しているわけではない。』って。」

圭

またまた変な話が出てきたよ。どう『羅生門』と関係あんのよ。この辺でまた僕はイラつく

「左右っていうけど、これを辞書で説明すると大変なことらしい。ちゃんとした説明、語釈ができないという。この辞書を開いているところの奇数ページが左、偶数ページが右、なんてふざけるな!だろ。じゃあ根本的なこの鏡の問題はどうかというと、右と左は人が勝手に自分の見ている面の方向を示す言葉なので、その件に関して鏡は責任がない、と言うのはどうだろ。これも『ふざけるな!』って思う?

じゃあこれはどう。『右と左を創造したのはその言語を使っている人なので、それは物語であり、現実を表象しているものではないから。』

世界の民族(この言葉も物語なんだが)には、右左という言葉を持たない民族もあるんだって。その人々に鏡を見せても、彼らはそんな疑問を絶対持たない。なぜなら右、左と言う言葉を持たないから。実際にはそうはならないかもしれないが、そう言えるということは面白いね。私は妙に納得してしまったよ。逆と意識できるのは、左右という言葉を持っているからだと。

何を言いたいかというと、虚構でもなんでもある物語に支配された人々にはそういうものの見方しかできないんだということ。そして私たちはこの物語の生成能力によってものを見ている、ということ。ものの見方は『そのまま見てる』んじゃないんだね。ある見方を自分自身に強要されて見ている。

10円玉は机に置いて真横から見ると薄い四角形だが、上から見ると円形だ。しかし10円玉は玉というからには円形であることは全ての人の共通した認識であり、その人々が共通して持っている“10円玉は円形”という物語に沿って私たちは生きている、ということなんだ。

結局人間の性(さが)なのよ

そして、もちろん問題はもっと重要なことにも発展する。私たちが生きるということは、何か希望や目的などを持っていくということだ。君たちが学校へ来て勉強する。友達としゃべる。部活動で苦しい練習に耐える。全て何かその先に待っている結果、成果を期待している。もし毎日学校で、午前中は校庭に穴を掘るという課題が与えられ、午後にはその穴を埋めるという課題が与えられたらどうだろう。その仕事にはなんの評価もなされず、ひと言の感謝や褒め言葉も与えられないとしたら。こんな毎日は絶対に耐えられないだろう。なんの意味も持たない労働。なんの物語も感じられない苦役。

しかし、世の中にはこうした苦しみに陥ってしまう人たちも存在する。生きることになんの意味も見出せなくなってしまった人。こうした精神的な危機に陥ってしまった人たちをケアする方法として、現在“ナラティブ療法”というものがなされているそうだ。自分の生に何かの意味を見出し、自分なりの物語をもう一度手に入れることができれば、一定数の人々は救われるのだそうだ。なんのために生きているのか、というのは人間にとって最も大事な問題の一つなんだね。自分を承認してもらえること。自分自身が自分を承認できること、は生きる意味を与える栄養源で、それが物語なんだということだ。

高校生はそういう意味ではちょっと危険な時期かもしれない。全く心理学とは無縁の素人の観察だが、私自身もそういう生徒を見てきた経験がある。この時期、君たちは確かに人生の分岐点に立っていると言える。進路が思い通りにいくか、失敗するか。君たちにはいま一番の大問題だろう。自分の将来が受験によって決まってしまような気持ちにもなっているかもしれない。心のどこかでそんな恐怖心を持っていることは、十分に理解できる。私にもそんな時があったし、でも本当は、みなさんの人生が大学受験で決まってしまう、なんてことは幻想だ。こんなことはみんなもわかっているがずだ。でもどうしても受験が自分の人生を決めてしまうような気持ちが拭えないんだろう。

そういう気持ちも、一種のナラティブと言えるんじゃないだろうか。そんな緊張感は仕方ないことなんじゃないだろうか。もし、仕方ないんだったら、自分でつくる物語がどうしても必要なら、いっぺんその壁をぶち破れるかどうか、やれるだけやってみるしかないんじゃないだろうか。

と、くどくど言ったけど、みなさんはそれぞれで考えてみてくれ。もうすぐそんな苦しさの物語は過去のものになってしまうから。受験の体験が思い出になることは、それはそれでちょっと残念なことでもあるんだよ。

さて、物語について、今までイメージしてきたものとはちょっと違うということが感じられたかな。単なる”お話”以上の人間の想像力とか生きる力ということに関係する重要なものだということね。まとめてみると、

物語は人間が日々創造していく、生きる意味のことである、ということだね。

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