むりやり教科書に採用するのも、仕方ないところがある
『こころ』も夏目漱石の代表作といえる作品だね。教科書でも定番だが、これも本当に高校生に読んでもらうのに適当なのか、議論がある作品だ。この小説は3部に分かれているが、教科書には『先生と遺書』の一部が採録されているのがほとんど。特に”K”の自殺がクライマックスになっている。ある文庫本の解説では、この『先生と遺書』だけが教科書に採録されているということに、作品の全体像を無視する愚挙であるという批判を強く主張している。これはこの作品を一つの読み方に誘導するということだろうね。確かに恋人を奪われないように友人を裏切るひどい男の話、というだけなら”下 先生と遺書”だけで十分なストーリーではある。長編をちょん切って学校の授業で読み、目標のテーマを確認させるという国語教育は”病いともいえる偏執性に貫かれて”いる、といっている(ようだ)。確かに人を“冷たい目で”“研究する”人間の告白という遺書の読解は、“上 先生と私”や“中 両親と私”を重層的に読んでいかなければ得られない読みではあると思うけど、教科書で、高校の国語の授業で扱うには無理があるね。
だから、『こころ』をきちんと読ませようとする学校では、夏休み中に全編読んでくることを宿題にしたりする。この高校でも、以前は全員に文庫本を全員に買わせたりしたんだけど。ちょっとやりすぎの感じはするね。今回は仕方ないのでプリントで補強して授業をしたり工夫をしたわけだ。
さて、ともかくこれはどんな物語なの?『こころ』全体として自分の考えを言ってもらいたいね。全部読んでいな人も大勢いると思うけど、読んだ範囲の感想から自分なりの解釈をしてほしいなあ。さあ、どうだ。
触毛がさされた。触毛はちょっとした文学少年だったらしく、漱石はほとんど読んだ、とか言っていた。今まであんまり発言しなかったのが不思議なくらいだ。家は理髪店だが、いろんな本がどっさりあるような不思議な家だそうだ。
とにかくこの小説は次を次をと読みたくなるような小説だと思います。でも、通読してみると主人公が実は誰なのかがはっきりしないという変な小説ですね。僕は、先生が主人公だと思います。自殺した原因がやはり友人への裏切りだと思いますから、思いがけなく自分も悪人だったことを悟って悩みながらも自分を処罰した悲劇、というまとめです。だって先生が人間不信になった原因は叔父さんの裏切りでしょう?
よく考えているな。これは絶対あるな。自分さえも信じられない人間だと自覚した、ということだね。ただ私は、それにしては時間をかけて決断したな、という感じがするが
それだけ自分のしたことの心の中を見つめ続けたんじゃないですか。苦しみながら考え続け、そしてなぜか自分を慕ってくる若者”私”がいることも影響して、自分の人生をもう一度考え直し、自死を選んだと考えるんです。根本的に人間に絶望したんじゃないかな
ほう!すごい!”私”という若者の存在が”先生”に自分の存在の意味を改めて考えさせた、ということかな。これについてはどこを読んでそういう考え方が出来上がっていったのか、その根拠となるところを考えておいてね。…さて他には?
青木が発言した。彼の家は喫茶店。どうでもいいんだけど、喫茶店の息子ってなんか考え深いような気がするんだけど…どうして?。
僕はすごく”K”が気に掛かる。Kって何?なんでイニシャルなん?それに先生なんか、あ、そうあなたです。先生はこんな道を追い求める男なんて今の高校生にはわからんだろうって思うでしょう?いや、本当にわからないんですけど、けっこう僕なんかこういう生き方をしていく人って興味あるんですよ。自分がそういう生き方をしたいとは思わないけど、そういう人生だってあっていいと僕なんか思います。意外でしょう?このKがどういう意味を持つのかはちょっとはっきり説明したい。できないけど。説明があるなら聞いてみたい。
Kをどういう人間と見るかで、それこそこのあいだ先生が言ってた物語の解釈が違ってくるような気がする
「いや、みなさんご立派。Kについても考えてみなけりゃいかんね。他には?」
よし子が手を挙げた。
わたし、漱石さんについてよく知らないんですけど、やっぱりこの人,女に対して悪意があると思う。先生の奥さんて、静?静子?つまり“お嬢さん”でしょ。この人って馬鹿じゃないの?先生はこの手紙の後自殺するんでしょ、たぶん。その時になっても自分の旦那がどうして世の中に出ないんだか、旦那の友人が自殺した理由だって少しは自分に原因があることに気づかないわけ?そのくせ変な駆け引きをして、つまりKさんと仲良くしてみたりさあ。やっぱり不自然だよ。
漱石さんの女性観からして、女にうまく立ち回られて苦しみながら自分をどうにもならなくした男の物語、って感じがする。漱石さんてどんな女性が理想だったのかなあ。寂しくて悲観するってのは先生じゃなくて奥さんの方だたんじゃないかな。
学校の授業でこの小説を扱う時、よくエゴイズムとかなんとか問題にするそうじゃないですか?わたし、そんなこと男だって女だってあったり前のような気がする。ちょっと何言いたいかわかんなくなっちゃった
いや、いいよ。気持ちはわかるよ。じゃあ、細かく、どうしてこういう人物なのか、なぜこう書かれていないのか、ていう風に内容を考えてみようと思うんだけど。例によって正解はない。こういうふうに書かれているからこう読んじゃった、ぐらいの気持ちで検討しよう。これも私の考え方に引っ張っていくようなことなんだが、反論はOKだよ。
教科書では『先生と私』『私と両親』はあらすじだけ書いてあったね。ここはいちおうみんな話の流れを分かっているとしてすすめていくよ。
さて、この小説はまず誰を主人公と見立てることができるのだろう?あるいは誰と誰か。
曽宗が発言した。こいつ優しそうな顔してるけど、時々独創的なこという。名前が”留”だけに心の中に意見をとどめておくタイプなのかも。
やはり、「先生」だと思います。上、中。下と通して登場する人物として先生以外には考えられません
そうだね。やはり先生と呼ばれた人物こそ、『こころ』の主人公としていいだろうね。あと候補は、先生と出会った私、先生の友達K、先生の奥さん、奥さんの母親、このくらいだね。作品を通して登場するのは私と先生くらいなものだから、やはりこの二人がいわゆる主人公である、と言っていいんじゃないか。じゃあ、先生があるいは先生と私が、何をした、どうなった物語、と表現するべきなのか。この部分が難しいところだな
やっぱり、先生がかつて友を裏切り、自殺に追い込んだことを悔いて、その事実を年少の私に告白して自殺した物語、てなことでどうすか、」先生!
なるほど、とするとやっぱり先生の自殺の原因が最も重要な問題だということだなあ。これによってほら、以前に紹介したジョナサン・カラーの“解釈”ということに関わってきて、小説の読み方が決まってくるよな
つまり、贖罪ね
すごい言葉知ってんな。ショクザイって漢字でどう書いたっけ。おれもはっきり覚えてないよ。携帯で調べて、よし子、ちょっと黒板に書いて。おーそうだそうだ。みんな覚えておけよ。……おれも、覚えておこう。
でも、悪いことやった自分が許せないって自殺したのかしら。それってちょっとつまんなくない。言葉は過激で申し訳ないけど
「どうよ、みんな。」
そこでつい、おれ様も口を出した。
主人公と目される人は……
僕もなんかそう思うよ。贖罪で自殺なんかじゃないよ。どっかに寂しくて自殺した、とか何とか書いてなかったか
それはKの自殺のことについてだったよ。五十三に自分がやっちまったことの後悔とともに、Kが『淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出し』て、自分も同じ道を『辿っているという予覚』がしたってあるよ。つまり淋しさが原因なんだよ
「何だそりゃ。おれだって彼女がいなくて寂しいぞ。」と、これはトリックスター大野。こいつ本当に上手い。
でも、ちょっと待って。先生の自殺の原因が何はともあれKの自殺にあることは確かなんだから、本当のこの小説の中心人物はKじゃないかな
先生はそう言った。なんか自分の思い通りに授業が進んでいってるような気持ちが顔にあらわれているような気がした。最初から主人公はKというふうに持っていきたかったんじゃないの?
「まあ、主人公なんて誰かいなくちゃいけないということはない。でも、『~という物語』という文を作りたいならその中心的な人物がいて、その人の考え、行動をまとめられれば都合がいいからね。
というわけで私の読み方をまた言っちゃうと、この小説の第一の中心人物はKではないかと思う。この人物の影響力は突出しているから。
まずKというイニシャルは昔から言われているんだが、『(夏目)金之助』のKではないかと思う。(作者の意図を追い求めるのが読解ではないが、ちょっとそれは置いといて、)イニシャルで示すとき、Kなんてあまりにもおかしくないか。XだってZだっておかしいけど、なにもよりによって自分の本名のイニシャルを使うかね、作者が。
そして、Kがどういう出自を持っていたか。…真宗寺に生まれた、とあったね。真宗とは浄土真宗だが、この宗旨についての特徴については教科書にも書いてあったな。そう恋愛観だよな。この浄土真宗の教義は一般的には妻帯を認めていると了解されている。全てが許されていてその後は完全に仏の手にすがる、という根本的な教義なんだね。まあ詳しくは知らないんだけど。
Kにとって最も守るべき教義は何だったかな。…そう、「道のためにはすべてを犠牲にする」ということだった。カッコつけんな、っていうご感想ももっともだが、それはそれとして、『道』ってなんの事を言っていたんだろう、というのはあんまり問題にならないね。『道』って何?」
青木がすぐ答えた。
Kがどんなことに価値を見出していたか、を探せばその答えの根拠になります。えーと、十九から読んでみればいいということ。つねに精進と言っていた、とあります。注には、「雑念を去り一心に仏の道を修めること。」とあります。でも、二十には「聖書」も読む、お経も読む、コーランも読むつもりだ、と言ってますね。仏教の修行に賭ける、というよりもっと広く宗教というものを研究しようとしていたんじゃないですか?だから、勉強しなければならなかったんでしょう。モハメッドと剣、という言葉に興味を持っていた、とありますよ。
……だとしたら、女性を好きになることはダメなんでしょうかねえ?ちょっと変な気がするなあ。なんか専門の学問があって、それを極めるのに恋愛感情はいけないのかなあ。どっちか一つ、という問題じゃあないような気がするけど
「青木、面白いことに気がついたなあ。ということは、Kの持っている問題(というか、ちょっと変な言い方だけど、こだわっているところ)はむしろ恋愛が成就できなかったとか、信頼していた友人に裏切られたという絶望とか、そういうことではないということではないかな。
Kにとって大事なことはその問題に対する自分の姿勢、自分の覚悟の強さということではないかな。つまり、精進による心の強さということなんだね。他人から傷つけられたのではなく、あくまで最初から最後まで自分の問題だったんだ。どれだけ自分が真剣になれるか、どれだけ自分が命をかけるような気持ちになれるか、ということ。むしろこれは利己主義の極みだな。
そしてKはそういう自分への反省は感じていなかった。それを理解したのが自殺の直前だっったのじゃあないか。こういう解釈はどうだ?」
なんか同じことだという感じもするけど。問題になることはあくまで自分ということね。
そういえば、Kが先生の騙し討ちを奥さんの話で知ったとき、案外に落ち着いていたという場面があったけど、たしかにもうそんな問題は彼のうちでは小さなものになっていたということか
この小説の思想的父祖は”K”
「そう考えるとKって全編を通して貫いているテーマの基底を示す人物ということになるんじゃないかな。つまり主人公はKだというふうに私は考えるんだ。
Kっていうイニシャルも、多くの人が『金之助』のKだという説を述べているけど、私もそれしかないと思う。
そう思う理由はまだある。
漱石と小説の登場人物を離して考えるべきことは普段から言ってるんだけど、それを破って言う。
前に、物語はどこかへ行って何かして、帰ってくるというという構造が基本、という話をしたが、私はKと先生が旅をしたエピソードが出てきたね。そう、房総半島だったね。そこで誕生寺へ行った時に異常にKが興味を示したのが、日蓮のことだった。日蓮という鎌倉時代の僧侶の生き方を詳しく知ろうとしたということ。それに興味を示さない先生に対して、Kは言ったよな、なんて言った?」
指名もされないのにいきなり大声で反応したのが広田だった。久しぶりに発言。
『精神的に向上心のないものはばかだ!』
「おっと、広田か。読んでると忘れられない言葉だろ。」
忘れられないですね、多分ずーと。ちょっと気恥ずかしいけど、日々のんべんだらりんと生きているから。オレもどやされているような感じです。受験勉強もしてるけど、これが本当の知的好奇心から発した勉強なのかなって。ちょっと逃げなのかも知れないけど
「なるほど、いま君も少し苦しいとこかも知れないが。でもこの先にはたぶん明るい世界が待っているんだろうから…。まあ、気休めだけど…。
本題に戻ると、漱石のことだ。夏目家というのはどこに自分の家のお寺があるかというと、実は東京文京区にあったんだ。これたまたまその寺の前の道を歩いていたことがあって、そこに看板が出ていて、ここが夏目家の菩提寺だと。それでここが浄土真宗大谷派の寺だったんだ。これはまさしくKを連想させるじゃないか。そしてKはこの家を捨てる。あるいは家から捨てられる。
二八で、夏休みに二人は房州へ旅に出る。そしてKは日蓮のことを誕生寺の坊さんに尋ね、日蓮のことにこだわるようになる。自分を高めるということについての覚悟を確認するように。その時にKは先生に向かって『精神的に向上心のないものはばかだ』という言葉を投げつけて、難行苦行をする人に対する憧れを明らかにした。これはすなわち全てを仏の前に投げ捨てるという真宗の他力本願には目向きもしないということだろう。以前話した物語のコードに沿って言えば、この旅行からKと先生の人生はぐるぐると曲がっていくのである。Kとは、まさしく家を捨てた男ではないか。
夏目家とは一線を画した漱石
漱石はどうか?
東京雑司ヶ谷に漱石の墓はある。写真を見せたね。今やこの墓地は漱石などの有名人の墓見学のメッカともいうくらいの所だ。そこの漱石の墓を見てみると、すごく立派な墓で圧倒されるが、じゃあ戒名はとみると、真宗の法名にある“釈”の一字がない。漱石の戒名は「文献院古道漱石居士」。真宗が皆”釈”の字を必ず法名に使うのかどうかは知らないが、とにかく漱石の墓ににきざまれているのは法名ではなく戒名ではないかと思う。これが漱石の意志かどうかは分からないが、Kのことを思わざるを得ないではないか。日蓮宗ではないが鎌倉の禅宗寺をイメージさせる。
Kという人物像は作者を想起させる。別に漱石が難行苦行の生活をしていたということではないが、やはり精神的な向上心はずっと持ち続けたであろうことは、学者としての出世や、金儲けに目もくれなかったことから想像できる。Kは漱石そのものではないが、漱石の一つの理想像が彼であったということ。これは私の妄想だが、どうもそんな気がしてならない。
さて、じゃあ先生は登場人物としてどういう位置にいるのか、ということを私なりに言ってみることにしよう。みんなも自由に考えてね。うまく自分の考えがまとまったら発言してみて。
私は結局Kは先生のメンター、先達者ではないかと思う。そう感じたのはKの自殺の場面を考えてみた時からだった。一つはKが自殺する晩に先生に向かって、夜安眠できるかと尋ねたシーン。
・その時に部屋の明るさが意味することとは何か。
・自殺した後Kはなぜ襖障子を開けておいたのか。
・先生が感じた自分の未来を照らす黒い光とはどんなことなのか。
これら全てはイメジャリーとしてKの自殺の理由を考える読者である我々をある方向にいざなっていく。ちょうど前にプリントして配った、ジンメルの文章で読んだ教会の柱の列のように。ジンメル『橋と扉』参照)
自殺の時の部屋の明るさと襖の開き、閉まりがポイントでは?
Kは自分の辿ってきた道が、そのまま先生が辿る道であることを知っており、それが人間が人間である限りに必然の”淋しさ”ゆえであること、それを知ってしまった人間の運命であることを言っているんじゃないかなあと思うんだ。明るいところで自殺し、暗い部屋で何も分からずに、理解できずに安眠している先生をどんな目でKは見ていただろうか。本文の四十八の場面だ。しかし、その前に四十一から四十三を確認しておこう。
『精神的に向上心のないものは、馬鹿だ』と先生がKの一番痛いところをついて、やりこめた後、Kは『覚悟ならない事もない』と言っていたな。これはたぶん自殺の覚悟か、あるいはそのほかの何らかの決着を考えていたんだろう。一方先生は、その会話の後、『私にとって比較的安静な夜でした
『私は程なく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の室には宵の通りまだ燈火が点いているのです。急に世界の変った私は、少しの間口を利く事もできずに、ぼうっとして、その光景を眺めていました。』
この時、Kは特別なんの用もない。ただ様子を見ていただけだというようなことを言う。
みんなはこのエピソードをどう解釈した?特にKは明るい室、先生は暗い室。そして、この後の自殺の時のことも考えてすごく暗示的ではないかな。そして、襖。
まさしく襖は先生とKを隔てているもの。そこを少しでも開けて行き来できるようにしてくれているのは先生ではなくKだった。
自殺前のそのKの姿を先生は逆光のためにはっきり見ることができなかった。しかし先生はいずれは明るい=知ってしまう世界に来てしまうことをKは確信していた。だからこそ襖障子を開いて道を作ってくれていたんだな。
自殺。知ってしまった明るさ
えっ?自殺する場所が明るい場所なのか、だって?
そうなんだよ。正直言うと私はそう思うんだよ。やすらかに寝ている先生の部屋こそ、暗くて絶望的な世界。Kが自分を殺す部屋こそ明るい世界なんだ。そこへKは先生を誘ってくれているんだ。四十八には、わざわざあの襖を開けたままKは自殺してしまった。いくら友人への別れを言ったとしても、その間の襖を閉めて行動に及ぶのが当たり前の心理だと思わないか?彼は友人にこの明るいところへ後から続いて来るように言っているんだ。そこは明るい世界なんだ。安らかでも暗い世界には居てはならないと言ってるんだ。四十八に書いてある『もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯をもの凄く照らしました。』という『黒い光』という言葉が、これまた考えさせられるものだね。黒い=苦しい、辛い。それでも道は光が照らす未来ではあるんだ、というふうに私は読みたいね。
ちょっとあまりに自分勝手な解釈をみんなに喋っちゃったけど、私の解釈、言いたいことがわかったかな。自殺を称賛しているんじゃないよ。でも高校の授業で扱う小説ではないかもね。でも漱石の小説はどれも本当は暗~い話ではないかな、とも思うんだ。もっと歳とってからもう一度読んでみてほしい。」
長いお話が終わった。よく分からないし、それほど切実さもなく先生の独演会を聞いていたのだが、いくらか小説の面白さも感じたのも確かだった。
触毛がまた発言した。
とすると、主人公の問題は先生はどう説明するの?
「ああ、そうだな。
結局先生も自殺する。遺書を持って私も父を捨てて、汽車に飛び乗る。つまり本当の肉親関係は別にして、K→先生→私、という系譜みたいなものがこの中心的な流れなんだろう。つまりたぶん汽車に乗った私も同じような運命になっていくんじゃないかなあ。Kが宗教的に家の伝統に反逆する流れを作っていったんだから、この三人が同等で主人公だということかなあ。質問を出していて恐縮だが、ここまで自分の考えを言ってきて、もうあんまり主人公を一人と考えることは意味ないかもしれねーな。」
こりゃまたあまりにテキトーなお答えに僕は苦笑してしまった。
「それでね、志賀直哉に『沓掛にて』という、小説だか何だか分からない文章があるんだけど、それを読んで感じたことをプリントにしてみたんだけど、これを配っておく。漱石の小説に妙なウラ・オモテを感じる人は結構いるんだよ、きっと。」
ここで、よし子が発言。きっとずっと我慢していたんだろう。
先生、それにしても最後まで作中の先生は、奥さんに真実を知らせるな、という態度をとっているけど、今の先生、つまりあなた(全くめんどくさいわ)の解釈でもお嬢さんやその母親への現実感というか、不自然さがつきまとうと思いませんか。それから殉死ということにもあまり考えが至らない解釈じゃあないかと思います。すいませんね。でもその辺のあれこれが私には気になるとこいっぱい、という感じなんですけど。どうですか?
「全くその通り。その辺も含めて君ら整理して文章化してみてよ。」
僕の隣のやつは「そんなヒマねーわ」と呟いたが、それは先生に聞こえなかったか、あるいは先生は聞こえないふりをして授業は終わった。
追加 志賀直哉 『沓掛にて』からも読み取れる
先生から志賀直哉の漱石観の紹介
副題に『⏤芥川君のこと⏤』とある。
一体芥川君のものには仕舞で読者に背負い投げを喰わすものがあった。これは読後の感じからいっても好きでなく、作品の上からいえば損だと思うといった。気質(かたぎ)の違いかもしれないが、私は夏目さんの物でも作者の腹にははっきりある事をいつまでも読者に隠し、釣っていく所はどうも好きになれなかった。私は無遠慮にただ、自分の好みを言っていたかも知れないが、芥川君はそれらを素直にうけ入れてくれた。そして、
「芸術というものが本当に分かっていないんです」といった。
とある。
その直前の部分では芥川の『奉教人の死』について、
「主人公が死んで見たら実は女だったという事を何故最初から読者に知らせておかなかったか、という事」を「芥川君の技巧上の欠点」ということに絡めて感じていて、それを本人に言ったと書いている。
これについては多くの人(私も含めて)が同意できないと思うだろうが、ここで気になるのは漱石の小説についての志賀の評価である。作者と同じところで物語を見せる、ということに志賀直哉という作家は価値を置いて居るのだろう。こうした態度を物語論の研究者はどう考えるだろう。
基本的に、こういう志賀直哉的な描写の方法に私は”しびれてしまう”のである。原始的とも言われるが、志賀直哉にしかできない小説作法といえるのではないか。あるいは志賀直哉の基本的魅力というものかも知れない。
ということで、ここでいう「読者」を「釣っていく」という小説の代表が、もしかしたら『こころ』ではないかと思うのである。漱石の小説といわゆる探偵小説との関係が、すでに指摘されている。『こころ』と推理小説のプロットの進行においての類似性、あるいは『こころ』の小説としての魅力について改めて考えてしまう。
また、芥川の志賀直哉受容についても面白いところである。日本の小説界(文壇)の特殊性もよく言われたところだが、そればかりではない芥川の自信の無さはどこからくるのか、これも興味深いテーマである。それにしても、『奉教人の死』の結末がいかんという指摘は、どう考えても納得いかないが…。
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