15 街、土産、そして……女

敗戦から10年

今日は『萩のもんかきや』 中野重治

教科書には載ってないけど、今日はひとつプリントで読んでみよう。作品は『萩のもんかきや』という中野重治という人の作品。読んだことある人?」

「誰もいないね。じゃあちょうどいいから読んでみようよ。受験勉強の息抜きにはならないだろうけど、まあせっかく出席したんだから新しいものも読んでみて。えーとこれは何年発表かな、昭和31年の作だ。古いね。ほぼ私の誕生と同じくらいなのでね。

ちょっと言っておくと、第二次世界大戦が日本の降伏で終わったのが、昭和20年の8月。それから11年後の作だよ。それで一回めの東京オリンピックが昭和39年。昭和31年は1956年ね。ちょうど昭和30年代は戦争の記憶も薄くなってきて、いよいよ日本が経済大国になろうという未来を現実に意識してきた時代だったそうだ。確かに私なんかも労働者階級の生まれで、親父も工場労働者だったが、親たちもこれからの生活はきっと今以上に良くなっていくだろうと信じていただろうな。そういう時代だよ。

一方作者は(これは読む前に知っておくべきじゃないことかもしれないが、まあ今回は言っちゃおうか。戦前戦中はずっと左翼の活動をしていて、治安維持法で逮捕された経験もあった人だ。いわゆるプロレタリア文学の人だ。そしてそういう思想を捨てるという約束をした、もちろん強制されて、自分の信念を曲げて。こういうのを転向と言うけどね。戦後は一時共産党から出馬して国会議員にもなった。こういう経歴の作家が書くものは、よく『主人持ちの小説家』の作品であると批判される。小説が政治思想という主人を持つようになっている、という批判ね。だけど、小説として読んで、読者として共感したり反発したりすることで自分なりに評価することは大事なことだ。政治的にどういう指向を持っているか、あるいは宗教、信仰としてどんな思いがあるか。こういうことは個人個人で持っていると思うけど、小説としてどんな感動を与えてくれるのか、どんな解釈をさせてもらうのか、どんな欠点や傷を持っているのか、などについて考えてみてほしいと思うね。

ちょっとくどくなってしまったが、しかし私自身は中野重治の小説、詩はすごく価値あるものだと思ってるよ。確かに政治的な匂いがすることはあるけど、それより強く文学的芳香を感じるね。私もちょっとかっこいい言い方してるかな。

舞台は 萩。どんなところか知ってる?

さて、この短編は主人公の『私』が何か厄介な口利きの仕事があって山口県萩市にやってきたところから始まる。そこである大きな家の前に出る。

家並みが低い。大きな家のところへ出た。そこは四つ辻で、その家は四つ辻の一角をいっぱいに占めている。一方は土塀でそっくり仕切り、それに門でしきられて、玄関の敷台のところがのぞける。門のうちが掃いてあって、大きな石がある。人間は見えない。しんとしている。古い家なのだろう。豪家なのだろう。しかし侍屋敷ではない。町かたの金持ちで、旧幕時代からの御用商人といった素封家なのだろう。四つ辻のあと三方には、そんな家は一軒もない。見るとそこに門札がかかっている。立派な字で名が書いてある。

「へへえ…」と私が思った。

そうにちがいない。たしかあれは長州だった。萩にちがいなかった。いちばん大きい保守政党の国会議員で、党内でも一通りのちゃきちゃきといったところ、なかなかに立ちまわってもいる。年も私などよりは若いはずだ。一通りの悪党らしいことは、ニュース映画の写真などでみてもわかる。あれがここの家なんだナ……サンフランシスコ条約が、和解と寛大の何とかだといってるばりばりの先生が、実のところ吉田松陰なども利用してやってきてるのだナ……それくらいのことしか頭に浮かんでこない。本質的な憎悪といったものが湧いてこない。

山口県萩市 維新の志士の生家が並ぶ

萩の町に来て、このような感想を持つ私。この記述から1951年のサンフランシスコ平和条約で日本が激論の末単独講和をしたあたりの政治的雰囲気が、現在この小説を読んでいる我々にも少し感じられる。この私は政治的には“一番大きい保守党”とは相容れない指向を持っていること。だから萩という長州閥の政治家たちの出発点となった土地についても、もともと良い印象を持つ人間ではないだろうということ。しかし、そういう地方都市に、あるいは政治の世界にいるいわばボスたちに、”本質的な憎悪”は、感じていないこと。これらのことが読者の頭に入ってくる。

ところで萩といえば、みんなには意外かもしれないが、この高校だって実は長州との関係があるんだよ。体育館のあのでかい額縁入りの書。あの右側はまさに長州藩閥政府の大物が書いた書なんだ。ここの最初の校長が吉田松陰の甥っ子なんだって。だから、この高校にはちょっと軍国主義的な匂いがあったみたいだよ。旧陸軍参謀総長(皇族)が息子をこの学校に入学させたことも知ってる?それで中庭にある鐘は日清戦争で分捕ってきた清国の軍艦の鐘だし。

ついでに、作者の中野重治は、みんなの中にもきっといるだろう、秦野に幼少期住んでいたらしいよ。あっ、また余計な話してしまった。

さて、歴史あるいい町に来た、なんていう感じでは全くなく私は萩の街を歩いてた、ということね。

私はいつもと違って娘に土産を買ってやろうと考えて、菓子屋に入って行った。夏みかんの砂糖漬けがあった。それを買って外に出た。ここでこんな表現が目についたかな。

砂糖漬けのお菓子が……私を甘やかす?

(菓子店のある辺り)そこいらはかなりに賑わってい、私はぶらぶら歩いて行った。かかえた砂糖漬が、これを携えて帰るということで私を甘やかしている。

いつまでにどこへ行かねばならぬということはない。あるにしても、停車場に汽車の時刻くらいのところだ汽車賃はある。弁当代もある。そして東京からずっと遠い。小さい町で、面倒な無駄骨折りからはひとまず解放された。おまけに、ついぞないことに子供に土産を買った。それを抱えている。平安な、いくらかやくざな心地で私はなお先へ歩いて行った。

この二箇所の引用部は誰でもが”あれっ”って思うところじゃないか?

娘への土産を抱えていることで、私は”甘やか”されている。そしてそれは”平安な、いくらかやくざな”気持ちなんだ。ねえ。独特の言葉づかいだよね。これはどういうこと?何を伝えているの、我々に。」

圭

さあ、ここから例のように思考の時間が始まった。確かに、ここは明らかに何か尋ねられる場所だと思った。しかし、僕は正直よく理解できなかった。だって砂糖に甘やかされる、なんていう洒落みたいな言葉の遊びじゃないし(無論そう考えても、思っちゃったんだから仕方ない理論の上では許されるはずだけど)。それでまたやくざな気持ちってどういう気持ちなのか。選択肢の問題だったら、どういうのが正解になるのかなあ。

クラスの中では一番歌がうまい風向が初めて指名された。全然言いたいことがまとまっていないようなので、気の毒だった。でも……

風向
風向

はい。よくわかんないです。でも、もしお土産が娘へではなくて、誰かよその義理のある人へのお土産だったら、それを抱えてることで、”甘やかす”とかいう表現にはならないような気がします。まして、わさび漬けなんかだったら…

これには、あの子あんなこと言うの?という意外な事態に笑いが起こった。わさび漬けねえ。あれ僕は苦手だなあ。まあ、長野の清流で育てた、とかいうのだったらいいけども、でも、先生は、

先生
先生

スーバラしい!そうそう、そういう連想が自分の答えをもっともらしくまとめてくれるのよ。

娘に甘いお菓子を買うから、この人は自分を甘やかしている、という言葉になるのよ、たぶん。そして、昔だったら自分は土産なんか買わなかっただろう、という思いが”甘やかす”なんて言葉を選択させたと思わない?

風向
風向

そう。つまりなんか自分がダメになっちゃったなあっていう感じ?俺ももう歳取った、っていう…。それが“平安”だけど”やくざな”という変な言葉遣いになってるんじゃないでしょうか?

先生
先生

その意見に私も大賛成。つまり今の状態に私は「だめだ!」って思ってるのね。それがこの部分で読めちゃうのよね

風向
風向

うーん、先生とおんなじということには、わたし特別嬉しくはないけど

風向は笑いながら言った。まあここは先生も笑っていたけど。

先生
先生

それに最初に金持ちの議員の豪邸のところで、本質的な憎悪が湧かない、みたいな記述があったことも思い出されるね。中野重治という作者のことも、つい思っちゃうよ。それは本当は切り離さなければならないことなんだけど。ああ、あとね、作者とこの文章で出てくる私とも、本当は切り離されるべきものなんだけど。まあいつか「作者の死」について紹介するときもあるよ。

その後生徒たちからもいくらか意見は出たが、先生はその後の話に進めていった。

「さて、問題はその後だ。

もんかきや の若い女

私は小っぽけな店を見つけた。その店では女が往来に向かってガラス戸越しにいて、こっち向きに顔をうつむけている。一心に何か小さなものに取り組んでいるようだ。女の高い鼻だけが見える。

 何にしても高い鼻だ。まだ若い女らしい。しかし顔はわからない。上から見おろした位置になる黒い髪の毛、その下の額のほんの一部分、その下の、二つ並んだ眉の線、その下の高い鼻すじ、それだけしか見えない。眼は見えない。頬もほとんど見えない。口も顎も見えない。よほど鼻の高い人だろう。ちょっと日本人ばなれのした鼻すじだ。造作が見えないから、年恰好は見当がつかない。それでも年取った人ではない。むしろ若い方だろう。

彼女は非常に細い筆で、針を突っつくように竹筒の断面に羽織か何かをかけ、家紋を描いている仕事をしているのだった。その仕事の様子はひどくうつむいて、鳥がほんのくちばしの先で皿から水をつつくといったふうにちょっ、ちょっ…と描いていくような仕草だった。

 私はすぐそこから離れた。見ていられないようなところがそこにあった。あんな風にやってい れば、あの高い鼻はますます高くなって行くほかはないだろう、ますますあの立派な鼻すじは、 細くとんがって行くほかはないだろうという気になってそれがひどく残酷な仕打ちに思えてくる。 若い女らしいだけに、それがみすみすおろし金でおろされて行くように見える。離れる拍子にや はりそこに看板のようなものが出ているのが見えた。

「もんかきや」

木の小さい板に、仮名でそう書いて打ちつけてある。 

 ああ、「も、ん、か、き、や」か。もんかきや、もんかきや…..

 私は、「もんかきゃ」という言葉をはじめて見た。 あった言葉かも知れない。 女の背中の方に、 棚の上に衣類のタトウのようなものが積んであったとも思う。それにしても、あの紋というのは、 あんなにして、一々人が筆でかくものなんだろうか。何という芯のつかれる仕事。それにしても、 あんなことで商売が成り立つのだろうか。この節は、紋つきなんというものはもうはやらなくな っているのだろう。それとも、復活してきたんだろうか。復活してきたにしたところで、とてもますますといったものではあるまい。「もんかきや」ーー商売としてのそれが、ひどくはかないものに思われてくる。物質的に、基礎薄弱に思われてくる。京、大阪という土地でならば、百貨店の仕事を一手に引きうけるというようなこともあるかも知れない。長州萩で、紋つきを着る人がどれだけふえたにしたところで話になるものではなかろう。紋一ついくらというのだろう……

 歩きだした私にもう一つ表札のようなものが見えた。「もんかきや」の板の下に、 たてに並ベ て打ちつけてある。「戦死者の家」。「もんかきや」より大分ちいさい。

 してみると、女は後家さんなのだろう。寡婦なのだろう。この家が「戦死者の家」で、あの女 はそこへ職人として雇われているのでは決してあるまい。あの人が、つまりこの「戦死者の家」 の主人なのにちがいない。

 鼻の高い美人が――それは、あの肩つきからみて、背も高い美人にちがいない。――戦死者の 寡婦で「もんかきや」だということが、その「もんかきや」という仕事が、機械も動力も使わな い全くの手仕事だということが、また紋つきの紋をかくというその商売が、女の鼻が西洋人のように高いだけにつらいものに見えてくる。「もんかきや」ーー言い方が古いだけ、その分量だけ逆に新しい辛さがそこから響いてくるようにも思う。いくらかだらけたような、気楽な無責任な感じだった私がいきなり別の気持ちになったわけではない。それでも、「もんかきや、萩のもんかきや……」といった調子で私はいくらか急いで歩いて行った。

 こんなふうにして、この短編は終わるね。」

「なんか、鼻の高い女がどうのこうの…。ちっとも話がわかんねー」

 と誰かが呟いた。僕も、実は同感だった。なんだこれっていう感じ。これに気持ちの決着つけさせてくれるんなら、これはこれで面白い授業なんだけど。クラスでは全く目立たない、実はこの年初めて同じクラスになった奴が手を挙げた。名前も覚えてない。誰だっけ?

拝出
拝出

先生、先生が言ってた方法で考えるなら…

 と言って、黒板に出てきたよ。へえ、思いがけない奴だね。

 そいつは板書し始めた、汚い字で。

拝出
拝出

① もし場所が萩でなかったら。

 ② もし私が土産を買うような気になっていなかったら。

 ③ もし「もんかきや」が別の商売だったら。

 ④ もし女が鼻の高い美人ではなかったら。

 ⑤ もし女が戦争の遺族でなかったら。

 というふうに考えて、どういう変化が自分の中でまとめられるか考えてみたらどうでっしゃろ?

 最後の「どうでっしゃろ?」はこの名前も知らないクラスメートの精一杯のギャグだったろう。クラスは逆にしーんとしてしまったが。

二項対立を措定してみて、考える種にしてみよう

 先生は受けた。名簿を見ながら。

 「うん、よくわかってんじゃない、拝出!じゃあ、拝出がー言った、①じゃないところと比較して萩はどうだというの?」

 丸楠は言った。彼はあまり目立たない男だったが、最近なぜかみんなの評価が高くなってきた。

丸楠
丸楠

地域のボスが大きな顔をして、いつも保守党が勝つようなところ、でしょう。つまりあまり近代的でない田舎の保守的な小都市。前半のところで、私は長州ということでいろいろ思っていることを書いていますから。それに先生の解説もあって、作者の志向もなんとなく影響してそう感じます

「そうだね。例えば権利意識が高い大都会でこういう状況があったとしたら、登場人物の私も、少し考えを変えたかもしれないね。現在も山口県の政治意識はだいぶ偏っているらしい。長州藩閥政府の名残りかな、相当時代錯誤な感じ。

 じゃあ②はどう?」

 今度は原さんという女子が手を挙げた。名前は泉。彼女は演劇部なんだって。

原

お土産は関係あると思います。なんでかと言うと、自分が”甘やかされる”と言ったり、”やくざな気持ち”だったり…そういう表現は何かを読者に示していると思いますから。お土産を買って帰ろうということを思いつくこと自体、この人にとっては、自分自身望ましい状況とは言えないんです。むしろもっとビリビリするような、ヒリヒリするような気持ちが本当はいいんです。もっとカリカリ……

先生
先生

わかったよ。君だんだん舞台に上ってる雰囲気になっていってたぞ。何かの役にはまっていたんか?

原

えへ、わざとそうやって発言してみました

 もう、だんだんこの教室は変になっていくぞ、僕はそう思った。

先生
先生

またまた思い出しちゃったんだけど、中野重治が逮捕されて、転向してから出獄して家に帰ってきた時、奥さんは彼を厳しい目で迎えたんだって。そんな話を聞いたことある。自分の夫が転向して、思想を捨てて帰ってきたことに怒ってたのらしい。ビリビリと。すごい夫婦だと思ったけどね。

 さて、②もそういうことで、どうも考えに入れなくてはならないようだ。では次は?「もんかきや」でない商売でこの女の人が働いていたら?

よし子
よし子

ちょっとすみません。「もん」てイマイチわからないんですけど

先生
先生

ああ、それは家紋というのを知らないかね。家の紋だね、例えば徳川なら”三つ葉葵”とか島津なら”丸に十字”とか。そういう自分の家の紋が、羽織とかに付いてるでしょう。それを書く人を「もんかきや」というんだね。私もそういう商売があることを知らなかったが。戦後もそんな商売が萩にはあったのかね

よし子
よし子

それが、例えば魚屋とかだったらどうか、ということですね。そりゃ家紋を書くなんてのは滅びゆく、戦後でもすでに古臭い商売だったでしょうね。その上、⑤に関連して旦那さんが戦争で死んで、後に残った仕事を奥さんが守っていかねばならない状況なんか、想像しちゃうわ。小説の設定は戦後なんでしょう?

先生
先生

そういうことだね。若い女の人はどうだろう?

今村
今村

これが変な人だよ。なんかお婆さんで、やっと仕事をしているような感じなら僕のイメージに合うんだけど。なんで西洋風の美人なんだろう、まあたぶん作者がそういう人を実際に見たんだろうけど、フィクションを作るときに何か意味を持たせているんでしょう。読者はあれって思いますよ、西洋的な美人なんて

よし子
よし子

なんかあるわね

原

鼻が高くなくっちゃいけないんじゃない?

と原さんが言い出した。

大野 右
大野 右

なんでだよ。西洋風な顔立ちの女だから鼻が高いって書いてあるんじゃないのかよ

原

いや、鼻が高くなくっちゃいけないのよ。西洋風でなくてもいい。美人でなくてもいい。鼻が問題なのよ

大野 右
大野 右

どういうことだよ?

「鼻」が問題なのよ。表象なのよ。

原

「あんな風にやってい れば、あの高い鼻はますます高くなって行くほかはないだろう、ますますあの立派な鼻すじは、細くとんがって行くほかはないだろうという気になってそれがひどく残酷な仕打ちに思えてくる。 若い女らしいだけに、それがみすみすおろし金でおろされて行くように見える。

って、書いてあるじゃない。下ばっか覗くようにして仕事してるから、鼻がどんどん伸びて、高くなってしまうって言ってるのよ。重力で鼻が高くなるって言ってるのよ

今村
今村

はー、そうか。でもほんとにそうなの?

原

ほんとに重力で鼻が高くなるなら、あたしだってとっくにそういうアルバイトしてるわよ。そうじゃなくてその仕事が“もんかき”だっていうことよ。家のシンボルというものが何を想起させるかということ。まさか、昭和も30年代になって、読者が家紋に近代的な自由さを感じる人はいないでしょう?地方の、保守的な、有力者が支配するような社会にいる若い女の人が、たぶん時代遅れで儲けにもならなそうな細かい仕事を、戦死した旦那の跡を引き継いでやっているということを言ってんのよ

先生
先生

その鼻は、おろし金でおろされるわけか。この仕事がなくなっていく今後の時間によって。なるほど物語の筋は通るような気がするね。なんか君、作者の気持ちがよくわかる、って感じだね。

 と、先生が続けた。今生徒の発言から気がついたの?あるいは、自分の読みに、とぼけてみんなを誘導していったの?

もっと中野重治は読まれるべきだ

先生
先生

そういう文脈で読めば、最後のところで、いくぶん気楽でだらけたような自分を、もう一度奮い立たせてくれるというのもわかる気がするね。戦争に負けてまあ平和になった、日本の現状をもう一度問題にする視点を持てたということかな。サンフランシスコ条約のことも書いてあったな。そんなちょっとだらけた自分をもう一度奮い立たせる契機を描いた小説というふうに読めるということがあるかな。

私は、中野重治っていい小説書くなあと思うね。これだけでなく『村の家』とか『春さきの風』とか。今回もなんだか志賀直哉の短編を思い出してしまった。政治的主張は別にして、小説の価値はそれ自体にあると、教えてくれているようにも思えるじゃないか。政治メッセージよりも中野重治の持つ何か温かい励ましのようなもの感じない?

原

でも、先生。あたしは娘への砂糖菓子が表象するものとして、自分のだらけた精神とかいうことを感じたんですけど。こういうところは問題じゃあないんですか?

家族のためにお土産を買うことは、別にこの人の精神がだらけていくこととは関係ないです。仕事のためなら女房も泣かす的な価値観。これは責められても仕方ないでしょう

 この原さんの最後の発言は、どうも赤の他人のものとは考えられないお言葉でした。

 

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