三島由紀夫 本当は近づきたくないんだけど
「今日は『美神』という小説。作者は三島由紀夫だね。名前くらいは知ってるだろう?知っている人は?まあ、多くの人が知っているようだね。小説を読んだことがある人はいる?ああ、誰もいないか。もっとも有名なのはやはり『金閣寺』かな。金閣寺の若い僧が“美しさへの復讐”の故に放火するという話だが。確かにこれは名作と言えるだろう。
三島由紀夫についても、特にそのセンセーショナルな死についてはみんなも聞いたことがあるだろう。自衛隊の駐屯地でクーデターの呼びかけをして、それに同意しない自衛隊員に失望して割腹自殺をしたという事件だ。当時の三島は今の村上春樹のように、ノーベル文学賞を受けるんじゃないかと期待されていたくらいだったから、この事件は世界中に配信されて驚かれたということだった。私も、この事件はテレビで見ていたが、右翼的主張が気に入らなくて、それからも三島の作品は読みたくもなくなったなあ。この人の作った政治団体は、制服に凝っていて、見ていてかっこいいと思った若者も大勢いたんだ。そういうことも、私は気に入らなかった。どうしてこういう行動に出たのかは、今でも説明する文章が世の中に出るけど、全く理解できないし、まして同意なんてできない、というのが正直なところだ。
教科書用にはいい作品かな
しかし、それはそれとして、今日考える『美神』は考えどころ満載である。たぶん、いろんな意見が可能で、うまくいけばみんなも面白いと思える授業ができるんじゃないかなあ、と思う。まず、ここで読み直してみて、どういう作品、どんなことを言っている物語なのか、考えてみてもらいたい。できれば、みんなを唸らせる解釈を…。」
と、『美神』の読みをめぐる授業が始まった。しばらくして先生は、
どう?短いし、話も簡単。自由に感想なり、解釈なりを言ってごらん
と言った。
大隈が発言した。
まずR博士ですね。83歳でドイツ人、でも今はローマ市のアパートの4階の3部屋を使って生活している。彼は今臨終の床にいる。そしてなんと研究対象の女神像をその発見の功で、博物館から自宅へ借りてきて病室に置いてある。
これって、あまりに不自然ですね。設定に無理があると思います。なぜ、イタリア人じゃなくてドイツ人?古遺物の専門家であることはわかるが、美術館の品物をいくら発見者であっても自宅へ運べるはずもない。女神像は2,17mもあるのに部屋は3階。わざわざ3階に設定しているのはなぜ?実際のモデルはいるかもしれないが、あまりにねえ…。
こういうことは書いてなくてもいいのに、と思いませんか。
僕はこんなこと考えているうちに話が頭に入ってこなくなりませんでしたよ
「よくそういう点に気がついたね。普通はそうはならないよ。それだけでも大隈は偉いよ。その他の人はどう?」
続いて、青木だ。
僕はこの博士の執着心に引っ張られた。ほら、ただの茶碗に何億もの値段をつける人がいるでしょう。天目茶碗とかいう。茶碗の底にいくつか星のような点があって、そのまわりが暗黒に近い、深いブルーのような茶碗。あの茶碗に一生を捧げる人もいるということです。確かに美しいかもしれないが、でもその価値が僕にはわからない。でもそれに魅入られて、同じようなものを作るために、一生を捧げてるんだって。
でも、考えてみると、たとえば高校時代に何かの虜になって、それに一生を捧げる人は珍しくもない。一生を捧げなくても、大きな将来への決断をする人はいる。たとえば、進路決定なんかそれに近いものがある。それがゲームの専門学校進学であったり、芸能界への挑戦であったり。
僕は音楽に関する進路を目指しているけど、これだって一つの賭けだ。
問題は僕にそれだけの執着心があるかどうかだということなんです。本当は僕はそれに自信がなくてちょっと悩んでるんです。僕はこの博士が羨ましい。この人の執着心が欲しいと思うくらいです。」
なるほど、よく発言してくれたね。そんなことを口に出せるくらいなら、君は十分自分がわかっているよ。大丈夫だ、失敗したって機会はまだまだあるよ
と、先生が言った。そんなに簡単なことじゃあないよ、と僕は思った。
さて、考えてみよう
美とは何か。この問題は、何が美しいかとは違う
“美”とはなんだろう。難しい問題だね。辞書を引いてみたんだが、
1 形、色彩が整ってきれいであること。うつくしいこと。また、そのさま。
これは何も言ってないね。ただ
2 美的直感の対象のもつ性格を表す概念。
という説明もあった。哲学用語だそうだ。しかし、これも我々に特別な了解感を与えてくれない。ついでに、こういう言葉に対しての説明は『明解国語辞典』が面白い。
美 1うつくしいこと(もの)
2よいこと。ほめる価値のあること。
これも、呆れるばかり何にも説明していない。結局”美”って説明できないんだね。
でも、“人を惹きつける力”であることは確かだ。
うつくしいもの
うつくしい人
うつくしい景観
ということは感じる、この感じ、は確かにある。うつくしいという感覚を人に対して形容的に使うことを否定する意見もあるが(美しいとか美しくないとかいうのは、差別に通じるというのだ)、でも私自身確かにそういう評価をいろいろなものに対してしてしまう。みんなも同じで、”美しさ”に引き寄せられてしまうんだね。そういう意味で”美”というものは確かにあるような感じがするね。それも抗うことができないくらいの圧倒的な力だとも思われる。そうじゃない?
ではこの小説では、そういう“美”について、何らかの関係ある物語だということが言えそうだから、できればまず”美”とはどんなものだということを説明しながら、小説の解釈まで言及してもらおうか。まああんまり堅苦しく、試験の解答のように答えなくてもいいからさあ、佐々木どうだ?」
“美”とは?なんていうと照れちゃうけど、“美しさ”なんていうものは、もともとそのものに備わっている、いない、なんていうことはないんじゃないでしょうか。それは見る人、聞く人、読む人の飽くまで主観であって(という言い方でいいのかどうかわからないけど)、美しいと意識しちゃったら美しく見えるだけなんじゃないかなあ。だって随分変なもんに美しさを感じる人がいるぜ。よく“フェチ”なんて言うけど、(この授業でも、先生がフェチという言葉を使って文化やお金のことを言ってたことがあったけど)よく言う”フェチ”って相当変なのもあるらしいよ。
だから、”美”なんて、”好きな色”と同じ。色なんてものは文化によって違うと言う話も聞いたよ。好きな色は何ですか、なんて聞くことと同じで、その色も美もみんな絶対的なものとしてはないんじゃない?
“美しい人”なんていう表現も、そんな人存在しないということだと思うんだけど。(お前、美人が嫌いなのか?という声に)いや、そりゃ好きだけどよ。でも、平安朝なら美人だった、という人っているじゃん。いや、これは言っちゃいけなかった?
まあ、私の失言よりよっぽど罪はないから…。今の発言はよくわかるよ。個人的な価値観であって、みんなが同じ価値観を持っているわけじゃない、ということかな。じゃあ、はい、尽明どう?
……私、まだはっきり整理できてないんですけど。たとえば“美しい人”と言ったとき、それが具体的に誰をイメージしているかは
違うことは確かなんですけど。ある人はジャニーズ系のイケメンを思い浮かべるし、でも私は彼らを本当は“美しい人”というか“美しい男”とは思っていないんじゃないかな、と自分で思うんです。
なんか言い方が難しいけど。いま“いい男”であることはそうだと思ううんですけど、本当に”美しい男”とは違うような気がして。誰とは言えないけど、もっと個性的な顔の男が好き、というか。
つまりそれぞれ”美しい~”でイメージするものは違う。でも、“美しい”と言ったときの“思い”とか”感情”とか、そういうものはみんな共通なような気がするんです。違いますか?人それぞれに“美しさ”は違うけど、好ましい形、外見、そんなことで感じる“美しさ”をもつ、ということではみんな共通しているんじゃないかなあ。よくわかんないけど、概念という言葉を、そういうもんだと思っているんだけど、私は…。
以前、古今亭志ん生のくすぐりの話の時、先生に指名されて、いかにも拒否感バレバレの態度だった小池さんが挙手した。
私も、そう思う。やっぱり『美しさ』ってあるよ。中学の時数学で集合ってやったけど、いろんな部分集合の重なってるところが人間全員にあって、そこに”美しさ”ってものがあるんじゃないの。”美しさ”っていう想いに関する全てのものの重なりが絶対あると思う。
うーん。“美しい”ということにいろんな見方があるな。誰か”美”なんてもんは幻想だ、とかいうヤツはいないか?
広田が発言したがってる様子だった。
「広田、遠慮するな。」
と先生が促すと、広田は
へへ、ちょっと思うんですけどね、そういうものは俺らの頭に生まれた後に仕組まれたものではねーの?快、不快はもともとあったようにも思えるけど、美、醜は後付けじゃあない?もしかしたら快、不快だってもともとある概念じゃないかもしれない、とかね。だって、言葉は後から人がつけたもんだろ。
この授業で、先生が俺たち人間は、”遅れてきたプレーヤーだ”という話をしたけど、俺、それを妙に覚えている。すでにゲームが始まっていて、いったんはそのルールに従わなければならない俺たち。この“美”ということだって、もうすでにルールができていることなんじゃねーの?既にある“美しい”なんていう感情や思いに従わされているだけじゃん。本当は美しいもくそもない、なんてね…。どう?
……うーん。難しいなあ。哲学の専門家がいたらいいけど。どう考えたらいいのかなあ
と、先生もしばらく考え込んだ。これは国語の授業の範囲じゃないのかも。あるいはもしかしたら全く“美”なんてことを考えるとき、方向が頓珍漢になってるのかもしれない。その時、先生が言った。
いやちょっと待て。私はその手の言葉を説明している辞書を持っていることを思い出した。ちょっくら職員室へ取りに行ってくるわ。
と言って出ていった。しばらくして、
「あったよ。」
《美しいー美しくない》かは,あくまでも私や貴方の主観的な判断にもとづいている。置かれている状況や関係の違いに応じて、各人各様の《美しい》がある。《美しい》には、普遍はない。しかし、《美しい》何かを求めたり、何かを《美しい》と感じたりすることは、誰にでもあることだ。そのような万人に共通するところの人間の心性を《美》と呼ぶならば、《美》は普遍性をもつと言える。また私にとって《美しい》と思えるものを「これこそがホントウの美だ」と主張したがることも、万人に共通することである。このように人間の心性に深く根ざした 《美》の基礎の上に,《美しい》を判断する基準が各人各様に異なっているからこそ、《美しい》についてのやりとりが交わされることも可能と なるのである。東と西、北と南,新と旧,そして我と彼,それぞれの 《美しい》が出会う時、《美しい》についての私の確信が揺らいだり、いままでとは異なった確信が芽生えてきたりする。《美》とは《それぞれの《美しい》を交流させ。そこからより確かな《美しい》へと志向させる〈ハタラキ〉である。
新版 哲学・論理用語辞典 思想の科学研究会 編
これは、美を認める立場かな、“美”というものを…。でも、こういうのこそ現象学的な立場というんじゃないかな。みんないま“美しい”ということを了解しちゃっているんだから、これを基礎として考えましょう、ってなことだろうか。いや私もよくわかってないんだから、今どうしようもないけど、こういうことを後で専門家に聞いてみたいもんだね。笑われるかな。
じゃあこのことも含めて、この『美神』という小説の解釈を自由にやってみようじゃないか。“美”について、いろんな考えがあるんだったら、それも読者の特権として、自分なりの読みという行為に採用していいよ。それだって、面白い解釈になるんじゃない?。
誰か考えたこの小説の読み方を言える人はいないか?特別に奇を衒った発言でなくてもいいんだよ
じゃあ、私めが…。
たとえば、老齢のため脳の海馬が壊れてしまって、像の本当の身長を誤って記憶していた老博士が、最期に女神像の裏切りと妄想して死んでいく、という悲惨な物語、というのはどうでしょうか
と、言ったのは、やはり佐々木だった。『舞姫』の時、突然発言してびっくりさせた男だ。オタクっぽいけど、この小説解釈の授業では、面白い指摘もしていた。今回は先生もさすがに苦笑いを隠せなかったが、今回の授業ではここで、クラスに乾いた笑いを起こさせた。
佐々木は続いて、
すみません、冗談です。でも、これも読者の権利ですよね、本当に信じてそう読んでいるのだったら。
僕は本当はこの博士は”美”を求めていたにもかかわらず、醜い執着心しか持っていなかった、と思います。一番の皮肉ですよね。僕は詳しく知らないけど、美学とか宗教学とかあるでしょ?ああいう学者たちって、いちばん”美”とか”宗教」”とかから遠い人たちじゃないでしょうか?
先生は佐々木に対して、ニヤリと笑った。
なるほど“美と醜”の不思議な関係が物語になったというわけだね。美を求める欲望がまさしく醜でしかない、ということね。
同じような考えだけど、”美”というものは本来として存在するものであると思うんだけど、もしそうなら、“美”は万人のものであると言えると思う。だってみんなが認めるしかないものなんだから。でもこの博士はそれを個人的なものに低めてしまった。それに対する美神の復讐、というふうにまとめるのはどうでしょうか。『あたしはみんなのものよ!』という女神のお気持ちが聞こえてくるということですね
と半分ふざけているような発言は、原戸という女子だった。九州の学校から転校してきた生徒で、僕は初めて彼女の話を聞いた。『あたしは~』という女神のセリフは、なかなか迫力があった。舞台度胸というか、変に臆したような感じがないのがよかった。
どうも僕ははっきりとした意見や感想を言うことができなくて、いつもクラスの連中を斜めから見ているような生徒だったので、転校してきた生徒の態度に感心してしまった。でもこの時間のおじさん先生は、そういう僕みたいな人間の存在を認めるべきだ、と言ってくれるのが救いだ。みんながみんな主張の渦の中にいるような集団っていうのは僕にとって苦の世界だよ。まあとにかく、この原戸富子という人は確かに堂々としていて、大したもんだと思う。
そして、次は栄古の主張になった。この人は優秀な生徒と認められていた。少し日本人離れした、イタリア系の顔つきでこの授業ではずっと黙っていた。滅多に自分の考えを主張するようなことはなかったが、やはり周りの雰囲気に影響されたのか。確かに雰囲気に影響されるということは授業の中で感じるな。
でも高揚した雰囲気の中で授業が行われると、なんだか活発な良い授業というふうに評価されるんだろうが、生徒の一人としては、後に残るものが本当にあったのかどうか、わからない時がある。何か気持ちが高まるような、つまり感情だけが残るような時がある。静かーに自分で考えをまとめることができないと、僕には意味がないようにも思える。だって学校は爆笑漫才の寄席ではないんだしね。
3センチ? 長さなんて表象の世界の単位でしかない
ところで栄古は、
「あの、僕はこの小説で何が博士の問題だったのか、ということに違和感を強く感じるんですけど。何かっていうと、結局像の身長の問題でしょ。それが何メートルかということですね。博士は像と秘密をわかち合うんですね。3センチ大きめに発表して、他の学者たちに本当の高さを教えなかった。たぶん実際に測ることも(どんな手段を使ったにしろ)させなかった。二人の秘密にしたわけです。
最期の時、その高さを知った時、博士はなんと言ったか。怨嗟の目で『裏切りおったな』と言いました。そして3センチ『育ったのである』とも書いてあります。
ということは、博士にはこの3センチ育った像の本当の高さがわからなかった。その秘密を“育った”像は分からせなかった。それが“裏切り”だというわけです。じゃあ、その原因はどちらにあるというんでしょうか?3センチ育った像か、それをずっと分からないでいた博士か。そしてそういうズレが、3センチが、いったい”美”と関係しているのか。私はむしろ、なんて言ったらいいか、そこに“美への不信感”のようなものを感じます。この小説は美への不信を描いた小説、というように思うんです。うまく言えなくてすみません。」
先生は、面白がっていた。
「秘密の共有の欲望と共に、その秘密がたった3センチの差、ということも問題視しているのかな。確かに博士は病床にあるとはいえ、実際に測るまではその違いをわかっていなかったし、それを裏切りとしか感じられないということは、本当に女神の美をわかっていなかったというわけだからね。あるいは、今の話から、数字というもので、”美”の真実を売った博士に対する、美神の復讐の物語、とも言えるかな。」
「ちょっと待って。まだ気になるところはあるよ。」としつこく発言を求めたのが、これまた一度も発言したことのない拝出だった。拝出が、言った。
それは、まず博士という人がどういうふうに設定されているかだ。彼は異国人だね。ドイツ人か。そして最後の方で異教徒であったと言っている。この設定はなんのためなのか、考える必要があると思うんだけど。連想はやはりユダヤ教徒というふうになってしまう。こういうことはナーバスになるべきかもしれないけど、どうしたってそう考えてしまうんじゃないか。もちろんユダヤ教徒が悪いというふうに全く思っていないよ。でももしかしたら、この人、イタリアでは疎外されてしまう立場であるというふうには、読者は感じるんじゃないかな。これはちょっと考えすぎかもしれないがね。さらに僕はこの像自体にもちょっと特別なものを感じちゃうんだ。それは、こういう記述だよ。(と彼は読み始めた)。
女神は 最上の”模作”なんだ
神聖と官能のえもいわれぬ一致は、プラクシテレスの原作たるを疑わしめない。これは羅馬時代の最上の模作であり、また今のところ残された唯一の模作である。
ここは作者が読者に語りかけている部分だ。続いて、
これを発見し、近代の人間にして最初にこの至上の美に直面した者の戦慄を想像されたい。
と読者に語りかけている。
つまり、模作だけど素晴らしい模作だった、と言っているわけよ。そうして、それに神聖な畏敬を持つ者がいて、それが博士であるということだよ。美神は本来のギリシャのものではない。ローマのこの像は、すばらしくても模作である。この像に対して全てを捧げるような人々に、本当の美神は復讐をした、という解釈だってありうるんじゃないの。博士の最終的なこだわりは”美”ではなくて自己の優位性、つまり独占の欲望だったんだしね
先生は時間を気にしていたので締めくくろうとして言った。
面白かった。よくいろんな発言が出た。私は、普遍であるべき美の信奉者であった老博士が、個人的な美の秘密の所有者に成り下がり、美神に復讐された物語、とでもまとめようと思っていたんだが、まだまだ面白い解釈ができそうだね。でも疲れた。今日はもうやめにすんべえ。
次回は、美というものについて書かれている文章を参考に読んでもらう。
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