17 ”美”に関して 参考になる文章を読んでみよう

『事典 哲学の木』  講談社

美   佐々木健

 美の創造性

美は筆舌に尽くせない、言葉にならない。百万言を費やしても、知らないひとに、ある傑作の美を理解させることはできない。しかし、それは概念ぬきということであろうか。言葉で説明できないというだけのことなら、甘さや赤さなどの感覚的質も同じである。しかし、赤さが言語化への欲求をかき立てないのに対して、美を前にしたとき、われわれの心には言葉が渦巻いている。その充実体験を何とか言葉にして書きとめたい、語りたいという強い欲求が生まれてくる。美は言語化の挑発であり、言葉にならないということは、この言語化の挫折に他ならない。赤は言語の手前にあり、美は言語の向こうにある。美が言語化を挑発するということは、美そのものの創造性と考えることができる。美しいものに触発されて、藝術家は新しい作品への 制造意欲をかき立てられる。それは、美の創造に伝播するかの如くである。『饗宴』においてプラトンは、ひとが潜在的に具えている 、創造性が、美に触れたとき現実化されるという考えを示していた。

美の包越性

 美とはものないしものごとの完全性が端的に直感されたものである。言い換えれば、「よき存在」が幸福感を以て体験されたものである。それはわれわれの実存と深く関わりあっている。道徳的意識抜きに悲劇の美がわかるはずはない。では、それは不純な美であろうか。それを不純と呼ぶのは、西洋近代的な美学の立場である。ミケランジェロの「ピエタ」やバッハの「マタイ受難曲」は、深い人間的感情や宗教性にもかかわらず美しいのではなく、まさに人間的、宗教的に卓越しているがゆえに美しいのである。つまり、美は真や善と並ぶひとつの「自律的な価値なのではない。むしろそれらのあらゆる価値が直接に観取されたとき、美として現れてくるのである。他の価値を排除するどころか、むしろそれらを 前提とし、それらを積極的に要請する。美のこのあり方は、K.ヤスパースの用語を借りて、包越性と呼ぶのが適切である。

自然美と藝術美

 近代美学は藝術美を美の典型として考えてきたが、この美の包越性の考えに従えば、藝術以下と見なされてきた職人仕事(craft)にも、また単なる実用品と見られてきた工業製品にも、また善の領域とされてきた行為にも、美をみとめることができる。だが、美の本領は自然美にこそあり、藝術を初めとする文化的な美は自然美の影のごときものである。それは藝術が自然を模倣するものだからではなく、美の基準が自然を措いて他にないからである。西洋近代が美を歪めてきたのは、藝術を基準として美を考えてきたからである。自然美においては、諸価値を包越 のするまでもなく、端的に存在の充実あるいは完全性が美として現れてくる。自然美とは、一輪 』のすみれ草のような自然対象の美ではなく、タ焼け空や大海原に見られるように、われわれを包み込む広がりとしての自然の美であり、人の矮小さを告知するような大きさをもつ。美の感覚を喪失してきた近代は、自然をもっぱら征服すべき対象としてしか見なかった近代である。人間中心主義の奢りが文明の危機を招いたとすれ にば、近代を超える第一歩は、真の自然美の再発見にこそある。

『意志と表象としての世界』アルトゥール・ショーペンハウアー 世界の名著 中央公論社

第38節

美的なものの見方には二つの切り離せない構成要素があることをわれわれは知った。そのうちの一つは、個々の事物としてではなくプラトンの言うイデアとして客観を認識すること、すなわち事物の類全体の不変の形式として客観を認識すること、これである。そのうちの第二は、認識者が自分を個体として意識するのではなく、意志をもたない純粋な認識主観として自分を意識することである。以上の二つの構成要素はつねに一つに結合されて出現するが、そのための条件とは、根拠の原理に結びついた認識方法から離脱してしまうことであった。根拠の原理に結びついた認識方法は、これに反し、意志への奉仕にも科学にも役に立つ唯一の認識方法だといえる。――

美を見つめることによって満足感もやはり、今述べた二つの構成要素から生じるのだということをこれから見ていくことにしよう。なるほど、美的観照の対象しだいで、この満足感はあるときは、一方の構成要素からより多く生じ、またあるときは他方の構成要素からより多く生じるのではあるが。

あらゆる意欲は欲求に端を発する。したがって意欲は欠乏に、すなわち苦悩に端を発すると言いかえてもよい。意欲は満たされればそれでいったんは終わる。しかし、一つの願望が満たされれば、これに対し少なくとも十の願望は満たされないままで残っているのである。さらにこう言いかえてもいい。欲望は長期にわたってつづき、要求は無限にはてしない、と。欲望が満たされるのは束の間のことであり、満たされた欲望は測ればごくわずかなものである。だが、限られた(一時の)満足が得られればそれでいいとしても、じつはそれさえ見かけだけの満足でしかないのである。つまり一つの願望が満たされればすぐに新しい願望がその同じ場所に起こる。前者の、願望が満たされたということは、迷妄が認識されたということであり、後者の、新しい願望が起こったということは、迷妄がまだ認識されていないということにほかならない。意欲が、ついにある目的に到達したとしても、到達した目的が、二度と消え去ることのない永続的な満足を与えるということはあり得ない。それはしょせん、まるで乞食に投げ与えられる施し物が彼の今日の命をつないで、彼の苦しみを明日に延ばすようなことにも常に似ていることかと思う。

《……》

フェルメール 『ヴァージナルに向かう婦人』(部分)2008 フェルメール展図録

 内的な気分しだいで、つまり認識が意欲よりも圧倒的に立ち勝っているならば、いかなる環境の下に置かれていようと、こうした状態を引きおこすことができるはずである。このことをわれわれに示してくれるのは、あの卓抜なオランダ人たちであった。彼らは日常のとるに足らぬ対象物にもこのような純客観的な直観を向けて、彼らの客観性と精神の平安に対する永遠の記念碑を、静物画というかたちで打ち建てたのであった。美的な鑑賞家であるならこれを感動なしに見ることはないであろう。その絵はこの絵を鑑賞する者に、芸術家のこころ安らかな、静かな、意志から自由になった心的状態をまのあたりに思い浮かばせてくれるからである。あれほどのつまらぬ事物をあれほど客観的に直観し、あれほど注意深く観察し、しかもこの直観を描くも思慮深く再現するためには、芸術家の今述べた安らかな、静かな、意志から自由になった心的状態が必要であったのだ。絵はそれを鑑賞する者にも、これと同じ心的状態に参加することをうながすから、鑑賞者は今自分が置かれている状態、それが激しい意欲によって混濁した彼自身の不安定な心の状態であるだけに、これと絵を対比させて見るため、しばしば彼の感動はいっそう大きなものになるのである。

理解しにくい言葉、たとえば「包越」とか「観照」などがあっても、前後の文章から想像するこ とが重要です。全体として、こんなこと言ってんのかな、という納得感があれば多少ずれがあってもいい。

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