21 『城の崎にて』 志賀直哉

感動か 恐怖か 寂寥か あるいは 藻掻もがきか

先生
先生

小説のテーマとして、明らかに人々に訴えるのは「死」だね。私もいろんな小説に感動した経験があるけど、いわゆるハッピーエンドっていうのはあまりない。感動が迫ってくるのはやっぱり死だったよ。なぜ人は死ぬんだろう、どうしてこういう辛さを味わわなければならないんだろう。この問題がずっと頭にあった。特に身近な人の死があるとね、色々考えてしまうね。

しかし、小説の中での死は嫌なものだというよりは、なにか味わいのあるもの、という感じだったかな。

君たちの中でも、死について考えるのは嫌だという、とか、既に身近な人の死によって自分が傷ついたという経験があって、もう耐えられないって思う人もきっといるだろうね。私も親の死を思い出したくないという気持ちもないわけじゃないしね。

ただ今回は作品として死をどう描いているかを読んでみようと思います。自分の悲しみはちょっと横に置くように考えてみよう。

まず『城の崎にて』を読んでみよう。既に教科書でやったかもしれないが、単純に読んでどう思った?

城崎温泉 一の湯

珍しく二知が挙手。

二知
二知

わたしはピンと来なかった。なんで名作なのかさっぱりわからなかった。自分が文学のセンスがないのかな、とも思いました

次は福生。

福生
福生

僕もそう。ただ小さな生き物が順番に死んでいく。それが事故で死にそこなちゃった(ちょっと言葉がまずい?)自分にどう跳ね返ってくるか。それぞれの死が自分にどう影響したのか、という感想が連続するだけだし。教科書の編集者や文科省に、わたしたちに何を感じさせたいの?と聞きたいところだ

岡野はいう。

岡野
岡野

僕もそうだった。今、二人の言うのを聞いて、「王様は裸だ!」って聞いた気がしたよ

ところが佐々木は、

佐々木
佐々木

僕は、正直言って感動しちゃった。どうしてか?は、これも正直言ってわかんない。いや、実は面白いと思った、と言うのは、いろんな死の話はあるけど、こんなに悲しさとかけ離れた死についての話も珍しいと思ったからよ。この”自分”という人、死に親しみみたいなものを持っているよ。自分も死にそうになっているのに。死ぬっていうことをわざと感動や悲しみの範囲から避けて書いているようだ

「城の崎にて」収録。 後書きでいわゆる心境小説だとも言っている。どれもこれも名作だ。

先生から改めて指示が出た。

先生
先生

そうだなあ。まず、何が死んでんの?

広田
広田

蜂じゃない?

  ある朝のこと、自分は一匹の鉢が玄関の屋根で死んでいるのを見つけ た。足を腹の下にぴったりとつけ、触覚はだらしなく顔へたれ下がっていた。

  ほかの蜂はいっこうに冷淡だった。

ここの、”だらしなく”が気になるなあ。

そして生きている蜂の”冷淡さ”。また”寂しかった”とか”いかにも静かだった”とある。なんか普通の感覚とは違うね

と広田が答える。

死への無関心って悪くない?

二知
二知

なるほど。言われてみればそうね。生きている蜂が”冷淡”だという言い方は、生きている蜂に批判がましい感じじゃない。そういう感情とは違うもののような気がします

これは二知の言葉。広田は続けて、

広田
広田

そうなんだ。無視されていて、それでも良いっていう感じなんだよ。死んだ蜂には無関心な蜂って当たり前だけど、普通は読者は感情移入してしまってそれが当たり前のようには見えない。冷たい仕打ちのように感じちゃう。でも、ここはそういうふうには読めない。

夜の間に雨が降り流されて、どこか泥にまみれていても、それは静かで、親しみを感じた、と書いてある。

そういう死ならOKと感じる人がいるんだ。

先生
先生

あとはどんな事件?

広田
広田

ねずみを見た。だけど先生、これはちょっとグロい気がする。というより、救いがないよ。絶対に死ぬのに、その瞬間まで生きようと苦しんでいくんだ。穴に逃げても死んでしまうのに。

先生
先生

まあ、そうだけど。

首のところに串が刺されていて、石垣へ這い上がろうとする。見物人がそれに石を投げて、笑っている。ねずみは石垣の間の穴に入ろうとするが串のために入れない。まあ残酷な姿だな。

このねずみの死はどうなの?

岡野
岡野

このねずみの死は頭に残っちゃうなあ。笑ってみている人間たちだって、それが自分達の運命であることをわかっていない。笑いながら見ている人間たちをここに配する作者の思いも考えてしまうね。

と岡野が言った。

先生が

先生
先生

自分はやはり恐ろしいと思ったんだよな。でも寂しくて、それで”あれが本当だ”と思った。

ここの言葉がよくわからないんだ”本当”とは、何が本当よ?

広田
広田

でも、ここでも寂しいって言ってる。蜂と同じで……

難しい表現 言いたいことは何?

先生
先生

そうだ。寂しいはおんなじなんだ。

それでよくわからないところが、

で、またそれが今来たらどうかと思ってみて、なおかつ、あまり変わらない自分であろうと思うと「あるがまま」で気分で願うところが、そう実際にすぐは影響しないものに相違ない。しかも両方が本当で、影響した場合は、それでよく、しない場合でもそれでいいのだと思った。それはしかたのない事だ。

という部分だ。これがよくわからんね。

二知
二知

まず「それが今来たら」の「それ」って、死の場面ってことでしょう。あれ?いや、「じたばたする気持ち」なのかな?その前では「ねずみと変わらない」と言ってるから、じたばたかな?

広田
広田

じたばたが自分に来ても「なおかつあまり変わらない自分」と言ってるんだから、そう考えりゃいいんじゃない?

すると「あるがままで」で気分で願うところがっていうのはどういうことよ

二知
二知

あるがまま」はじたばたでも静かでも、どちらでもいいよ、っていうことで、「気分で願う」というのは、そのままその時の気分で、どっちかを願う、ということでしょ

と、二知が主張した。それに広田が、

広田
広田

いや、ちょっと違うんじゃねえ?「あるがまま」とはじたばらじゃない。「あるがままに静かな気持ち」ということ。気分で願うっていうのは、静かにしていたいということ。平常心でいるように願うっていうことじゃないの?だって、その次に実際に影響はしないものだって言っている。じたばたという実際には、なかなか静かさの方向に動くことはできないということで、そっちに行く時はそれでもよく、じたばたのままでもそれで良い、ということを言っているんだ

先生
先生

なるほど。みんな少し整理してみてほしい。ともかく、どちらでも仕方ないということは間違いないかな?

「っていうことは、ねずみのように死んでもいいんだということでしょうね。恐ろしい死に方だって受容できるんだという…。」

誰かがそう言ったら、先生は、

自然がエゴを溶かす

先生
先生

そういうことになるんじゃない?

実は特に志賀直哉の小説についてずっと日本の小説をダメにしてきた張本人だ、という説が戦後高まってきてるんだよ。でも吉本隆明という批評家が、人間のエゴとエゴの間に、自然が介入してあつれきを溶かしてゆく、というのがこの人の大きな特徴、という意味のことを新聞の連載で言っている。エゴの溶解という人間の不思議さって、うまく表現してるような気がしないか。自然がエゴを溶かすように、ちっぽけな動物たちが、死の恐怖に囚われている我々のエゴを溶かして死を受容するようにして行ってくれるという読み方もできるんじゃないかな。

エゴの溶解を実感できなくなってきた戦後はもう志賀直哉は小説を書かなくなってしまったというのも、わかるような気もするし、ましてグローバリズムの中で勝たなければ生きる価値もないような現代人には、志賀直哉はなんの価値も無くなったのかもしれないということも言えるかもしれないね。

普段は、私、本を勧めちゃいけないと言ってるけど、一つだけ、君たちには『暗夜行路』を一度は読んでみることを勧めたい。

それじゃ次のちっぽけな動物は?

広田
広田

いもりです。やもりは嫌いでいもりはいい色をしている、とか、訳わかんないけど

二知がいう。今回は大活躍だ。

二知
二知

このいもりの”偶然の”死の描写は、わたしも忘れ難いもののように思いました。

石の音と同時にいもりはしっぽをそらし、高く上げた。自分はどうしたのかしらと思って見ていた。最初の石が当たったとは思わなかった。いもりのそらした尾が静かにおりて来た。するとひじを張ったようにして傾斜に堪えて、前へついていた両の前足の指が内へまくれ込むと、いもりは力なく前へのめってしまった。尾は全く石についた。もう動かない。いもりは死んでしまった。

このへんの緊張感ある文章は、ちょっとすごい。そう思わない?

先生
先生

文を読んだだけで、誰の文章かわかるようだね。今日はプリントがないけど、『和解』という作品があって、そこに自分の赤ん坊が病気で死んでいく場面がある。この文章、描写がすごいんだ。それに『剃刀』という短編の、血が出るシーン。他にもあるが、どうしてこんなに文を際立たせることができるんだろうと思う。

さて、いもりの死は偶然にしても自分が殺してしまった死。それをしてしまった時、生きものの死を”自分”が当事者となって体験し、寂しさを実感する。

結局この寂しさで小説は終わるんだね

大隈が加えて発言した。

大隈
大隈

この寂しさって、なんだか他の小説にはないような気がします。生き物の中に、間違いなく僕も入っているわけだけど、根本的な寂しさがあるんですね。

これは、悲しいんじゃないですよね。それは悲しかったり、悪いことではないんですね。

意外な読み方があるんだな。もうちーっと他のも読んでみたい気がしてきました

思いがけず広い問題

先生
先生

つい、何にでもショーペンハウエルを出しちゃうんだけど、『意志と表象としての世界』の最後の方に出てくる、いろんな人たち。”意志”というものから離れることができた人たち。あの人たちの境地を思い出した。そしてまた、文学は実学であるという言葉も思い出してしまった。この『城の崎にて』はものすごく広い世界を描いているのかもしれないな。人々が求めるものは永遠の生なんかじゃなく、寂しくてもいい、静かな死の受容だということかな。

コメント