悲しい別れ
「それでは」と先生が次へ話を進めた。
もうひとつ宮本百合子の『一つの芽生え』も読んでみるか。これはあんまり読めないから、話の流れを簡単に言っちゃおうか
晩ごはんの時、母親が私の次弟の顔色が悪いのに気づく。一家はこの瞬間に楽しい気持ちを失ってしまう。普段から健康に不安があった弟のことを心配していた家族。その家族に対して弟はなんでもないようにふるまうが、その夜彼の容体は悪くなっていった。
私は姉として彼の病気に「純然たる絶望」を感じてしまって、その嫌な予感に自分で驚く。
「けれども、不思議なことには、そんなにも否定し紛らわそうと努力する意志が強いにも拘らず、大部分はそれを肯定するような傾向にあるのを知ると、なおさら恐ろしいような妙な心理になってしまった。」
弟の死の予感がなぜかどうにもならないものに思っている自分を発見するのである。
翌朝、弟の体調は良くなったり悪くなったりしていたが、家族の不安は高まっていく。迷信的な不安もあり、「悲しい考えを揉み消そう揉み消そう」とする気持ちも起こってきた。次の日に入院。家族も疲れてくる。
その後徐々に病状も重篤になり、看病の母から家にかかってくる電話も混乱している様子だった。脳膜炎の症状について、こんなふうに語られる。
あの魂を引きむしられるような叫喚。
あの物凄い形に引きつった十指、たえず起こる痙攣のあの恐ろしい様子を、私はどんな言葉で云い表すことができるだろう!
神よ!全く堪らない。
それは実に、私っと同様の半狂乱の真剣さで、肉親の弟の上に起こった、「あの」苦難をまのあたり注視し尽くした人々のみ同感し得る感銘なのである。
あの夜以来、自分の否定しようとしていた予感は、もう予感と言葉を許されないほど歴然としている事実ととともに、一層しゅんとした心の用意を促しているように思われる。《……》
ハアッと号泣して、彼を死なせるようにした「天の無慈悲不公平」を呪詛し怨恨することのできない大きな、偉(おお)きな力の暗示に撃たれるのである。
彼に死なれるのは辛い、悲しい。
という姉の思いの後、病人の様子が詳しく書かれるが、最期の日、私は彼がいつか輪廻説を信じているようなことを言っていたのを思い出す。そして、生まれかわる時、もしいつも可哀相だと思っている宿なしのちっぽけな犬や、鞭でピシピシ叩かれながら、何も言えずに荷を挽く馬などになったらどんなに苦しいだろう、と思う。弟はウワごとで「どこへ?…」と言っている。
ごく浅い、軽い呼吸を一分ほどすると、ハァと溜息を吐いて、頭を右の方へ傾ける。《……》
そして十二時二十三分過ぎ、ハァと最後の溜息をつく。
すると「わたくしども」の一人は彼の十五年の生涯を終わった。
と、書いてある。姉は弟の最期の何日かをどう思いながら見ていたか、作者は丹念に丹念に書き込んでいる。姉としての悲しみを嫌というほど込めながら。
さて、みなさん、この死に対する小説もどのように評価するんだろうか?
今日はよし子が口火を切った。やっぱり、作品ごとに発言したいと思う人が違ってくるのも面白い。
本当に弟の死を体験したと思うんです、作者は。だから批判しにくいんですけど、私はちょっと感覚が合わない感じがしました。私にも弟がいますが、私の弟への感覚とまるで違う。別に弟と仲が悪いわけじゃないんですけど、それにしても、と考えてしまいました。
でも、小説の解釈とか読み方の方面での感想は全く単純なもので、この小説で解釈のバラエティーが広がるもんでしょうか?”かわいそう”という感情が膨らむ、その程度問題しかないような小説ではないですか
肉親の死は悲しいが……
次は原さん。
私も似たような感じです。これはいつ頃の話ですか?1918年ですか。大正時代ね。
ちょっと書きすぎっていうところがあるんじゃないでしょうか。私は一人っ子でわからないけど。お姉さんの悲しみはそれとして、あんまり小説として完成してないっていうか。先生、素人としての正直な感想ですよ、これ。でも、死を扱う小説として、言い方は悪いんですけど、感情の押し付けのようなものを感じました。
先生に言われて、つい先日志賀直哉の短編を読みましたが、幼いころの実母の死を描いたのがありましたね?そう、『母の死と新しい母』です。これは私にとってこんな小説があったのかという驚きでした。いい小説だなと思ったんです。同じ肉親の死でも、だいぶ違います。作品への向かい方が違うんです。やっぱりいったんは現実から離れる、ということが必要で、この『一つの芽生え』はそうなっていない感覚があります。
単なる素人読者の感想で申し訳ありません。
うちの婆さんのよく使う言葉、「お涙頂戴だね」なんです。人が感動した話を、その言葉で貶めるんです。よくない婆さんでしょう?
ところが今回、作品としてこういう印象を持つというのは、僕も同じです。僕たちは共感や反感を高ぶらせて読むんだけど、残念ながらこの小説はそうはならなかった。
ただ、新しい解釈っていうことについて、「死」というテーマよりも、題が「一つの芽生え」だということに引っかかったんです。何が「芽生え」たんだろうか、ということがいちばん解釈しがいのあることではないか、と。
「おっと、そうか…」という声があがった。僕も気づかなかった。弟の死で何が芽生えたのか、がわからないといけないということか。
先生は何も言わずただニヤニヤしていた。このおじさんの思い通りに進んでいるらしい。
大野は続いて言う。多少気持ちよさそうだ。
まあ、普通の生徒、(つまり君たちだがね)が考えるなら、芽生えといったら植物の誕生しか頭に浮かばないだろうけど。
大野らしいユーモアなんだ、こういうの。
悲しみを希望に、ということ?
気になるのは弟の死の直前の「どこへ!」という言葉だな。「どこで生まれかわるのか?」という疑問を言っているように姉ちゃんには聞こえたということなのよ。弟は必ず再生する。これこそが小説のキモでしょう。ちょっと変な感じはするけれど、うまい説明が出てこないんだ。
それを考えると単なる「お涙頂戴」とも言えない別の読み方があるのかもな。
そう言われてみると、末尾にある、
決して離れずに遊び暮らした「わたしどもの一人は彼の十五年の生涯を終った」
という部分に違和感があったよ。なんで「わたくしどもの一人」なんだろうか。確かに「わたしどもきょうだいの一人」なんだけど、カギカッコがわざわざ付いているのも不思議。
ちょっとどうかなとも思うんだけど、「私たちのきょうだいとしては、弟は生涯を終えた」、ということかも。さっきの話で輪廻転生に関連して思いついたんだけど。だから弟はどこかでまた生を得るに違いない、という姉の諦めきれない気持ちを「一つの芽生え」としているんじゃないか、と思ったりする。
そうなんだ。最初から題名が気になっていたんだ、私も。そのほかに弟の生まれかわりについてのエピソードが小説に出て来る必然はないしね。これは作者の話の道筋に仕組まれているような気もする。もっとほかに解釈があると面白いんだが。くどいようだが、も一度ゆっくり、この小説は何を語っているか考えてみてほしいな。
先生や友人の解釈をただ鵜呑みにする勉強なんて、本当の勉強じゃないから。ぜひ”別解”を見つけてほしいもんだ。
さて、もう一つ”死”について考えてみよう、という小説を次回は読みます。
それと、これも脱線だけど、宮本百合子全集では『面積の厚み』という面白い小説もある。これも授業でやりたかったんだけど、今回は紹介だけする。
ある女生徒が、縦と横を掛けると面積が出る。面積には厚みがないことを教わる。それが女の子には不思議で、面積には厚みがないのに土地を買うとその下の土だって自分のものになるのに、って。厚みが0なら土地を買うとき、縦✖️横✖️厚みとなると答えは0になるのに、と。0なんて数字がどういうものかわからない。マイナス、負の数なんていうもんがわからない、まして虚数なんててんでわからない、という私なんか数学がわかるはずがないけどね。
それに比べてこの講座なんか、みんなで小説を読みましょうなんて言ってる。みんな楽勝でよかったね。
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