僕は李徴になりたくない、なのか?
さてこれも高校国語の定番「山月記」だ。2年生でやったね。感動したという人が多い作品でしょう。この作品についても、何か新しい解釈ができないか考えてみよう。
当然、自分の夢を捨てきれず破滅していった男の物語、という読み方が通常だろうし、それを否定することではないが、別の読みの可能性もあるんじゃないだろうか。どうかな
と、先生は切り出してきた。ぼく自身、この小説には考えさせられた。これから長い人生をぼくたちは送るわけだが、17歳でこんな小説を読まされることについて、ぼくは否定的な感情を持っていた。
現実の世界に生きるぼくたちは、夢や野心をどのように持ち続けていけばいいのか。そんなものは早く諦めて現実の生活に目を向けるべきなのか。それとも、どこまでも自分の夢を追いかけるべきなのか。あるいは、そういう夢自体を持っていないぼくのような人間は、どうやって生きていけばいいのか。夢って持ち続けなくてはいけないものなのか。いや、たとえば経済的な豊かさを求めて、社会の中で成功を目指していくことだって夢として認められていいはずだという意見を持つ若者だって大勢いるだろう。こんないろんなことを考えたものだ。
受験を控えたいま、そんなことを考えている暇はない、と思う。が、このさなかにあってもぼくは、芯となる考えを、希望を、何にも持たずに受験していく自分に対して後ろめたいような気持ちにもなっていた。生涯を賭けるものを持っていないで大学になんていっていいのか。
先生はみんなに言った。
私自身も自意識というものは大問題だったし、この歳になってもそれは変わってない。自分に自信が持てない、とか、自分を正当に評価してもらえないという不満はいつまでも自分を突っついてくる。誰が責めているのかというとこれも自分というものなのだね。君たちだってこの作品を読んでいろいろ考えただろう?
正直いうと、ぼくはあんまり自分のこととして考えられませんでした。というのは李徴という人が目指していたものは、詩人なのか高級官僚なのかわからないから。どうもそのふたつって相反するもののような感じがする。しかもこの人むしろ名をあげるということに執着している。ぼくは何も家族に対する愛の不足ということを言っているんじゃなくて、家族に対する愛がなくても、すばらしい詩を書く詩人は賞賛されるだろうし、実際ぼくの好きな太宰治なんてそうでしょう?たしか、生活こそが諸悪のもと、みたいなこと言ってたんじゃないかな。
李徴に言いたい。詩なのか、出世なのか。どっちがお前の目指すものなのよ、って
わたしもそれと似たような気持ちです。『舞姫』では出世か愛か、という選択だ、というふうに読んだんですけど(まあ、そうじゃない読み方があることもここで学びましたけど)、これは理解できるんですけど、李徴は詩人とは言えないんじゃないですか?いずれにしても褒められたいだけなんじゃないですか
めでたし、めでたし
だいぶみんな言うようになってきたなあ。でも、これまで一度も発言してこなかった男が手をあげた。これはちょっと驚いたね。なんでもシニカルに考えているような、”おとぼけ”とあだ名がついているやつだった。そのあだ名は本人も知らないのではないかな。でも知らないふりをしているのかも。本名は曽宗 流。授業でも発言してしまって、目立っちゃうのが嫌らしい
でも、おれはグッときちゃうな。今の自分に刺し込んでくる小説なんて他にないから。小説や音楽に感動するということはあるけど、こういう自分に刺さってくる感動ってのはないよ。だって他の小説や映画を考えてみてよ。おれジブリの映画好きだけど。あれは感動の種類が違うよ。まあ綺麗な感動、ということかな。『山月記』は汚い感動だよ。言葉は悪いけど。自分としては最高の褒め言葉だと思うよ
その綺麗、汚いはどこが違うんだろう?
と先生が“おとぼけ”に尋ねた。
綺麗な感動と汚い感動、ということ。理解できるような気もするけど、それをうまく表現できるとすごくいいんだがなあ
うーん。さっき先生が言ってた、自意識ということをダイレクトに問題にしていると思う。人が死ぬ悲しみとかすごい失恋をするとか、友情とか共感とか社会的な正義感とか、なんとかかんとか。そういうものって確かにおれの心の中をかき回すんだけど、それは心の中の表面を動かしていてそれはそれでいいんだけど、一番奥にある何かをグサッと刺してくるのがこの『山月記』なんだ。でも、これじゃあ国語の答えにならないよね、先生?
もちろん万人に当てはまる感想じゃないよ。
それにしても、李徴って悲劇的な主人公だっていうけど、それでも主人公なんだよねえ。対する袁惨って役人は絶対に主人公になれないやつだよ。どうして悲しむ必要があろうか、っていうことじゃない?
物語を求めるのが人間なんだっていう話があったよねえ。だったら李徴は甘んじて虎になるべきじゃないの?喜ぶべき結末で、めでたしめでたしだよ
先生は聞いていて、
”おとぼけ”すごい!いい解釈じゃん
と、あだ名で褒めちゃった。“おとぼけ”も“おとぼけ”で、嬉しそうな顔しちゃって。なにが”おとぼけ”だよ。
先生は、続けて言った。
自意識 このやっかいなもの 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も
ただ、李徴を主人公にした物語を創作したのは作者であり、李徴自身が自分を物語の主人公として意識はしていないのはどう考えるのかな。李徴は「めでたし」とは思っていないだろうしね。そんなことは無理だよな。
しかし、読者から見れば、李徴こそ主人公にふさわしい悲劇性を帯びていて、出世した袁惨は脇役にすぎない、ということは考えなければならないね。李徴のことを悲しく見る袁惨は自分の、李徴になれない悲劇性を自覚できるような人物ではないようだし。この人こそ、自意識の問題という面では、かわいそうな人なのかもね。
若者の自意識というテーマでいうと、アメリカの戦後文学で有名なのは『ライ麦畑でつかまえて』という小説なんだ。よく第二次世界大戦後の文学として名前が出てくるんだけど、知ってる?誰も知らないようだね。実は私も最近初めて読んでみたんだ。どうもこういう意識過剰な若者という設定は苦手で。まして訳者が村上春樹なんだよ。この人の小説、食わず嫌いかもしれないけど、どうも読みたくないんだ。でも、今回は翻訳だから読んでみた。スルスル読めたねえ。自分でも意外だったんだけど、面白いと思った
ある高校生が成績が悪く学校を“追放”されることになって、寮から家に帰るまでを書いているんだが、これがお決まりの大人や先生や学校や先輩たちや、なんやかやに悪態をつくわけだ。英語なら例の言っちゃいけない形容詞のオンパレードだらけなんだ。
『山月記』との違いを言ってみると、李徴は自意識に苦しんでいたわけだが、『ライ麦畑で……』の主人公ホールデンは自分では自意識の暴走(?)に苦しんでいるようには見えない。ホールデンにとって何が問題なのか、はっきりとしないが、どうもともかく不満だらけなのである。詳しいことは省くが、私が感じたことはこういうことだ。
主人公は明らかに、金持ちの家、頭の良さ、気持ちの優しさなどを持つ“いい子”なのである。それは読者によくわかるようになっている。それなのに周りにあるさまざまなもの、人に不満を持っている。つまり何ものかについての自意識が彼を怒りに誘うのだね。しかし、自分の自意識に対しての眼差しは持っていないようだ。『山月記』との違いはここにあるのかもしれない。小説自体は『山月記』は『キャッチャー……』よりも単純で、後者の方がより現代的であるように見える。しかし、私個人は前者により問題意識の深さを感じてしまうのは、この自らに向ける視線のせいであるような感じがする。
みんなはどう感じるかな。ぜひ一度『キャッチャー・イン・ザ・ライ』か『ライ麦畑でつかまえて』を読んでみて、その感想を聞かせてくれよ。(現在2種類の日本語訳があるので)
口の減らない奴は困ったね
それにしても、この小説を読んでみて、主人公の頭の回転能力に驚くね。言い訳やホラ話による会話能力をすごく持っているのだ。私も、昔女房から『あんたは滑舌が悪くて、舌が短いんじゃないかと思う。だけど、そのぶん舌は2枚あるようだね。』と言われたが、いやいや、ホールデンには敵わないよ。しかし幼い妹に、『けっきょく、世の中のすべてが気に入らないのよ』と言われて、『それを聞いてさらにぐんぐん落ち込んでしまった。』と書いてある。何もかもに対して悪態をついて否定するのが兄の正体だという言葉を投げかけられて、例のごとく驚異的な頭の回転で反駁するが、実は心に刺された言葉であったようである。もし、主人公の本質的な優秀なところや人間としての真面目さ、優しさが感じられない人物設定だったら、この小説はどう評価されていただろう。これはなかなか面白い想像だよ。少なくとも私は、こういう設定でない小説だったら、こんなに面白いと感じることはなかったと思うがね。子供の頃に読んだ『小公子』なんかを連想して、なんとなく安心して読んでしまったからね。
それで、またさっきの自意識の問題になるけれども、ホールデンが以前在籍した学校の先生の家に泊めてもらおうとした時、その先生からなぜ成績を悪くしてしまったのか、という質問をされるんだ。それに対してホールデンはスピーチの授業を思い出して説明する。スピーチするときは簡潔に、話を逸脱させないようにしなければならない。誰かのスピーチが逸脱すると、他の生徒が『わき道!』、『わき道!』と叫ぶ。そんな授業のルールには従えない、と彼は言う。先生は、なぜいったんルールに従うことができないかとも問う。ホールデンはそれにはっきりとした答えができない。
でも、この兄妹の会話の場面は頭に残っているなあ。
この気持ちは高校生である君たちはよくわかるんじゃないか。いやもうそんな気持ちを持っていない人もいるだろうし、あるいはそんな気持ちは最初からない、と言う人もいるだろう。いずれにしても、実は頭の良い、いい子ちゃんの反逆児はそれをどうにもできないのである。
先生はある言葉を紙に書いてくれる。それには
『未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ』
と書いてあった。ここのところ、野崎孝という人の訳ではちょっと違っていて、私は確かに村上訳の方がいいと思ったが…)
そしてみんな卑しく生きてきた
その他気づいたところはあるがもうやめよう。まことに自意識とは厄介なものではあるなあ。
ああ、それにもう一つだけ。最近の参加型の授業をもてはやす傾向について。私自身も今はみんなの意見を求める方にいるわけだが、それは手を上げてなんでも発言すればいいということじゃないからね。炎は青く燃える方が温度が高い、ということを前に言ったが、静かに考えている人もいていいんだからね。今は全くへんな教育系の学者どもの話に乗っかっているけども、潮の流れはいつかまた変わるということは必然なんだ。私の授業に『わき道!』なんて言わないでくれよ。」
といういつもの弁解で時間が来てしまった。
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