ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し
今回の『肉親再会』はだいぶ前だがセンター試験にも出題された小説です。
私はパリに着いた。私はむかし芸術家を目指してパリに留学していたのだが、それを諦めて日本に帰ってきたのだった。日本での仕事は成功し、その金で7年ぶりにパリに来たのだ。私は出発前に仕立てたトィードのコートを着てパリに降り立った。そこには顔色の悪い妹がいた。妹はパリでかつての兄のように、自分の目指す俳優になるための修行をしていた。
久ぶりに会った妹は、変わってしまっていた。パリにいる芸術家気取りの連中のなかでやっと生きているような印象だった。身体の調子も思わしくないのではないかと思われた。
妹はポーランド出身のある役者に師事しているようだったが、下宿を見せてくれず、どういう生活をしているのか心配だった。
次の日は一人でパリを歩いた。かつて自分が馴染んだ街には、以前と変わらず夢見る若者たちが居た。それを見て、夢をあきらめて日本に帰った自分の選択を思い、何かを置き忘れてきたような感覚も湧いてきた。
その後で私は中世美術館へ入っていく。そこには私にとって大事なものがあった。木彫りの基督の死に顔。この木彫こそが自分の目指すものだったのだ。しかし、私はそれをあきらめ安易な道を選んでしまったのだ。
美術館を出てから私は妹の下宿に行ってみることにした。下宿はパリの最下層の人が住むようなところだった。私は彼女の部屋で(要するに……こんなものだったんだな)と呟いた。その後妹に会い、日本に帰るよう勧めた。彼女は拒否し、「だからポーちゃんは日本に帰ったんでしょう。ポーちゃんは何か報われなければ嫌だったんでしょう」と私のことを批判するのだった。そして、俳優の師レーベジェフの素晴らしさを語るのだった。
何日かたって私はそのレーベジェフに会いに行った。彼もまた夢破れた人であったと私は知った。そして彼と妹が恋愛関係にあることも。私と彼と二人が飲んだ代金を私が払うときも彼は何もしなかった。
翌日私は次の目的地マドリードに向かうため空港に向かった。妹にはレーベジェフにあったことを知らせた。妹はたとえ報われなくても良い、もし、自分の死を知らされることがあっても、幸福だったと思ってほしいと私に告げた。私は空港へのバスの中で馬鹿野郎、馬鹿野郎と呟いた。
内容の前にまず、問題を出してみよう
こんな話だ。センター試験については後で解説するが、まず読んでみてこれはどう言うことを描いた物語か言ってみてほしい。そして、この小説に批判なり、賞賛なりをしてほしい。
でも、その前にひとつ現代文読解の例題を。上のあらすじ文の中で、主人公がレーベジェフと会った時、二人の飲み代を私が支払った。その時「彼は何もしなかった」とある。この描写は何を言わんとしているのか?みんな私が何を問わんとしているのか、わかるよな?このお互いの了解感が”間主観性”によって作られたということなんだな。
この例題は、誰もが同じ答えで、なるほど、”間主観的”だった。さて、感想は……
わかりやすい小説と思った。先生はどうしてこれを教材に選んだの?
いや、ちょっと現代文の入試問題にも言及したくてね。少しはそういうこともやらないとみんなに見捨てられちゃうんじゃないか、と思って。
『山月記』の李徴の苦しみ、とは……ちょっと違うか
なんだ、入試対策かよ。いいよ先生、そんなことしなくて。おれはてっきり『山月記』と絡めて読ませようとしたんじゃないか、なんて思ったよ。この主人公は実生活では成功したようだけど
え?『山月記』と…… なるほど!そりゃ思いつかなかった!
すると、この”私”(兄)は李徴とはどう違うの?
まあ、選択の結果が、”私”は実生活、李徴は芸術、ということかなあ。
いや、ちょっと待って、李徴は芸術を選択したんじゃないよ。そこが大事なところで、李徴が求めて得られなかったのは名誉よ
そうか。でも、今日のところは李徴は最終的に芸術を選んだということでいいんじゃないか。その内心に問題があったという今の指摘は後で聞こう。それに、この”私”にとっても、本当に欲しいものは、芸術だったはずなんだから、そう単純ではないもんな。
さて、そこでこの小説では芸術と実生活と、その二つのものを具体的にイメージさせるものはなんだろうか、という問いに対してどう答える?
つまり、芸術と実生活の代表選手って感じですか?
そう。それをなんという?
わからないけど、今まで聞いてきた言葉では”表象”かなあ。
そうだ。じゃあ何が何の表象ということになる?
芸術の表象が……木彫りの基督かな。実生活というか豊かさの表象?
なんでしょうか?パリ旅行自体ですか?
兄は芸術をあきらめて何を手に入れた?
ああ、ツイードのコートか。
キリストの木彫とツイードのコートがイメージの二項対立になっているというわけですか。単純な形式で捉えると。
でも、なんで豊かな生活追求が非難されなければならないの?
そういうことになるね。
でも、なぜ芸術の方が豊かな実生活より価値あるものなのかなあ。その根本的なところがわからなくちゃあだめだよね
つまりそこが僕らが従わねばならないコードじゃないんですか。本音は金だ。でもコードは芸術を指し示している、ということかもしれません。だから学校という旧コード型人間製造装置では、もちろん授業では芸術を選択するような方向へ誘導しようとする。それなのに、誘導係の教師は、実は実生活選択派だったりするわけだ。文学部や芸術学部へ進学しようとする生徒に、経済や法学や工学をやらせようとしたりね
いや、昔、私の話を聞いていて哲学科に志望を変えたいという生徒がいて「やめとけ」って言ったことがあったよ
より表象性の高いものにこそ価値がある、ということかなあ。ゲンナマより芸術作品の方が欲望からは距離があると考えられませんか?表象ってそんなもののような気がする。ただ、そんなことは建前よね。
でも、よくわからんお茶碗に何億円とかいうこともあるわよね。
なんか難しい話になっちゃったね。そういう価値観はどこから来るのか、これはここまでにしておこう。
さて、さっき言ったセンター試験問題なんだけど、これが実際に出題されたものだよ
と先生はプリントを配った。
あれ?でも途中でぶったぎれてる。問題文には私とレーベジェフとの会見はない!
(2005年度 問題・正解は下記)
当時のセンター試験問題として適当であったのかな?
そうなんだ、これは重大なことだよ。ここがないと小説が単純な芸術と実生活の二項対立になってしまって、作者の描いたものが薄っぺらいものになってしまわないか。どこかの本で「学校という閉ざされた世界の中の”道徳”に準拠した小説からの出題、という点で批判していたけれど、それがまた問題の質にも影響するものになってしまっているんだ。つまり、「長く芸術の道を異国の地で目指している妹に接し、妹のこれからと共に、自分はかつて芸術の夢をあきらめたことにも思いを馳せる物語」っていうのが一般的な読み方だろう。兄は自分を妹より価値のない人間だと評価している、自己批判の物語だということを前提にして問題も作られているように見える。
しかし小説全体から見ればもっとずっと複雑な物語だよ。妹は必ずしも称賛すべき人物とは見えない。生活の苦しさか、思い通りにいかない演劇の道の険しさか、あるいは家庭を持つ中年の男との恋愛か、彼女の精神的な荒廃も感じられる。さらにはどうも彼女には健康面でも問題があるようだ。今の彼女にあるのは兄に対する意地だけかもしれない。
作品は、そこで、「俳優への道を異国で探りながら、どうにもならない状況にある妹に対して、助けてやりたくても妹の心も開くことのできない兄の苦しさを描く物語」とでも言えるんじゃないかね。
だから、こんなふうに、作品を恣意的に切って試験問題にすることについて私は問題ある、とずっと思っていたのだ。確かに、妹の師匠は夢破れた妻子持ちの男で、あろうことかその男と不倫していたということでは全国版試験問題のネタにはできない、というのもわかるけど。でも途中で切って問題文としてOKというのもねえ。
その中で、芸術作品が「基督の死に顔」というところに、何かありませんか。キリストが人間の罪を背負って刑死する、というストーリーが芸術の表象として置かれるというのは芸術の真実の価値が幻想でしかないことを示している、とか?
へえ!そういえば、芸術を代表するものが「ゴッホの自画像」でも良かったわけだからねえ
それから、最後の場面が気になりますね。自分が死んだと聞いても、幸福だったと思ってちょうだいね、というのは…。これは単なる負け惜しみの言葉かね。もう自分の命が果てようとしていることを自覚している、ということなんじゃないか
キリストの木彫は「報われない」意識も否定している?
「報われる」っていう言葉をキーワードに使っていることも気になる。
「報われる」ということが具体的にどうなることをいうのかしら。「報われなくてもいい」とはどの程度までの生活なり、感情なりをいうのか。単なる強がりなのか。
『ヨブ記』って有名でしょ。あれは報われるとか、報われない、とかいう概念自体否定する話でしょう?少なくとも運命に対して人間は合理性を求められない。すると、基督の死に顔の木彫りはそういう考え、「報われなくてもいい」という考え自体を否定するものなんじゃないかな。単なる芸術の表象とは言えないと思う
そうすると、この小説は物語というもの自体を否定するものになる。でも何も妹ばかりではなく、報われたいという感情は全ての行動に絶対あるはずだよ。具体的な報酬より感激なり、感動なり、感心なり。読んだ後に得たそういうものは物語の報酬ではないですよ。人間が生きるには「報酬」はなくても「物語」があればいいんだ、と読むことはできるな。たとえそれが悲劇でも。もっと言えば、喜劇であっても。
うーん。みんななかなか面白いこと言うなあ。高校生じゃないみたい!!
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