29 どうしても暖かみとユーモアを感じてしまう

なんで感じちゃうのかなあ 作品から……

『厄除け詩集』講談社文芸文庫より

『休憩時間』井伏鱒二  井伏鱒二自選全集 第一巻

 さて、今回は『休憩時間』井伏鱒二。昭和5年2月雑誌「新青年」に掲載された作品だ。井伏鱒二は知ってるよね。

『山椒魚』の作者でしょう。すごく頭の中に残っている話です。「山椒魚は悲しんだ。」で始まる。うっかりしているうちに穴から外へ出られなくなるなり、苦しむ。ところがその窟に蛙が入り込み、それを彼は外に出そうとしない。相方は悪態をつきながら、2年が経ってしまう……という話。

そう。ところどころ井伏らしいユーモアがばら撒かれているようだが、われわれは自分の身の上を山椒魚に置き換えて、絶望的な生をあらためて考えてしまう。でも、今回は同じ時代に書かれた『休憩時間』という小説を読んでみよう。

大学の教室。この教室はかつて有名な文学者たちが抗議していたところだった。私は約40分の休憩時間に友人と雑談していた。学生はほとんど20歳。彼らはそれぞれ互いに文学、演劇などを熱く語り合っていた。ひとりは黒板にヴィヨンの詩の一節を書き、そして消し、を繰り返していた。

そこに学生監(生活指導の教官)が巡ってきた。教室は下駄履きが禁止されていたが、黒板の前の学生は下駄履きだったのである。学生監と黒板の学生とはいざこざになって、学生は靴がないのだと主張したが、教官は強引に引き下ろされてしまった。

実際この教室だろう。先生は坪内逍遥

そのときひとりの学生が立ち上がって演説をしはじめた。みんなで学生に寄贈してやろうというのであった。私たち一同は「異議なし異議なし」と口々に言った。しかしあの学生はそれを辞退し、しばらく教室外に出たあとで戻ってきた。そして黒板に短歌を書いていった。それはわれわれ未来豊かな芸術家に対して刑罰を与える学生監たちを嘲笑すべきを歌ったものだった。彼の足元は裸足だった。そして彼は黒板を離れた。がすぐに、他の学生がすぐに他の学生がその短歌を消してしまい、その後に白いチョークで四つのスタンザ(節、句のまとまり)から成立する英語で詩を書いていった。それは一か所の綴りの間違いもないものだった。私たちはこの詩に感心しなかったが、そのあとでまたもや別の学生が教壇に立った。彼は争いを拒否することばを発し、教室を出ていった。そして次に出てきた学生はまた黒板に赤いチョークで「ソンナニオコルナ」と書いた。

――今は最早、私は知っている。青春とは常にこの類の一幕喜劇の一続きである。壁に人体の素描をこころみるものは、なるべく大きな人体を肉太に描け。編上靴の紐をしめるものは、力をこめて紐をしめよ。《……》足駄をはいて教場へはいるものは、大きな足音をたててはいって行け。学生監の腕力や叱り声に驚くな。束の間に青春はすぎ去るであろう。そうして休憩時間などは――その追憶以外には決して……。

こういう作者の言葉で小説は終わっている。あまり問題にならない作品かもしれないが、ぜひみんなの感想、解釈を知りたいな。

圭

下駄で教室に入ってはならない、といういわば校則なんですね。これに反する学生がいて、取り締まり、圧力をかける学校側。という構図の元に起こったいろいろな行動を描いた作品。くだらなくないですか?去年授業で”個性”という題で作文を書かされたとき、僕が学校が校則で服装や髪型を制限するのは、個性を認めないということだ、と書いた。先生、覚えてますか?

先生
先生

いやーすまない。うまい文章しか記憶に残んないのよ。

でかいものに怒れ

圭

ひどいな、先生。

でもそのとき、先生は「怒るんならもっとでかいものに怒れ」って言ってた。この小説はそのことを思い出させた。ピアスだ、髪の毛の色だ、という問題と同じことを、昔の大学生も怒ってた、ということなんじゃないですか?小説としては幼稚な問題にこだわってる、と感じた

先生
先生

なるほど。学校の規則への抵抗という題材によって、小説が浅いものになっている、という感想だな

岡野
岡野

でも、今の話は違いも大きいよ。学生たちに抵抗の仕方を見ろよ。黒板に短歌を次々と書く。英語の詩を書く……これ等がこの小説の眼目だよ。大正末か昭和初めか、大学の文科の若者はそういう集合体だったということを言っている。たまたまそれが出現したきっかけが下駄だっただけよ。これはむしろ問題のきっかけの落差が印象的になる

原戸
原戸

今聞いていて、私もなるほどと思いました。最初にこの教室の由来が書かれていますね。それにはちょっと気持ち悪いエリート意識も感じられるけど、下駄の話とのギャップは確かに何かの意図を感じますね

よし子
よし子

それにしても、大先生たちが講義した教室だから下駄はいけない。ということもあったのかな。そうだとしたら、その考え方のピントはずれの権威主義みたいなことも感じますね。失礼ですけど、先生もその一員ですね。学校ってそういう変な強引さみたいなところありますね

先生
先生

う——ん。……ぁる。

圭

いや、あの先生、また言っちゃったよ。”ぁ”は小さかったけど……

先生
先生

まあ、君たちみたいな”大人の”高校生相手だから言うんだよ。

さて、そこでだ、最後のところ、作者が書いていることね。休憩時間の描写から、作者が言っていることをどのように捉えるか。省略されているところをどう読者は補って読むのか、そこんところどう?これは試験問題としても出せそうなところじゃないか?

赤いチョークで書いた意味もわからない

圭

ちょっと待ってください。その前に赤いチョークで「ソンナニオコルナ」と書いて、チョークを叩きつけた、という学生。これをどういうふうに見るのか。どんな気持ちなのか整理したい。

丸楠
丸楠

そう、そこに引っかかる。この人「オコルナ」と言って怒ってるんですね。何に?僕は、学生たちに……ではないかな。子供っぽい学生たちへの怒り。いい加減にしろと。違うか?イカルならもっと大きなものにイカレと。

栄古
栄古

ただそれをかっこいい短歌や英文で示せない怒りかもしれない。「チキショー、おれには怒りを表現するガクシキがない!」っていう。これは違うかな。でも、この休憩時間は学生たちのそれぞれの切磋琢磨の時間だった、という意味。これ、ちょっといい解釈じゃない?イカルならもっとかっこよくイカリたかったと。

先生
先生

そうすると、さっきの省略のところを考えると、どうなる?

丸楠
丸楠

まず、「青春は「一幕喜劇」である、と言ってる。学生の行動は「ちょっとした喜劇」なんだ。若くて薄っぺらい行動なんだ、ということだろう。

栄古
栄古

確かに喜劇だ。本人たちだって自席に戻ってしばらくすると自分の行動に顔を赤らめるかもしれない。ただし、それは否定されるべき時間ではないっていうことだろう。

曽宗
曽宗

え―?そうか⤴︎? 休憩時間などは、の次にくるものは「なんの意味もないものだ」なんていう言葉じゃないの?できるうちにやっておけよ、という年長者からの冷ややかな忠告ではないのかな。

先生
先生

いや、私はもう二度とできないものだから大事な追憶として取っておけ、という、むしろ若さをプラスの面から見た言葉だと思っていた。

曽宗
曽宗

だって、最後は「その楽しい追憶以外には決して……。」で終わっているね。「決して」は後に否定する辞を要求するでしょ。とすると、「~しない」などという言葉が考えられる。すると、「追憶以外には ? ないから。」という言葉が想定される。には何が入るの?

「自分の身に残ら」ないから、だと思う。

「もう新たに体験できるものは」ないから、だと思う。

「意味を持つものは」ないから、はどう?

「意味をもつものが他には」ないから、という方だよ。

圭

一人が言い出すと、次々にでてくる。これもこのクラスの悪い癖だよ。

省略部分の想像こそ鑑賞を高める

先生
先生

人の青春時代に未熟な軽薄さを感じているのか、その軽薄さ、意識過剰というのか、そういうものに尊さを感じているのか、両方想定できるよね。私は両方あっていいと思う。両方感じているという文だと思う。それをあえて言わない、という不思議な小説ではないかなあ。

下駄を履いていくならどすんどすんと入っていけ、描きたいものがあるなら太く描け。と言っておいて、だって青春は束の間で、今過ごしている時間はかりそめで……と言って、その後「だからこそ貴重だ」ということなのか、「だからそうでない時間をしっかり生きろ」というのか。判定できないだろ?

まさしくこの小説はそこを放り投げられているのだと、私は思う。何かそれこそ根拠があれば別だが、私にはそれが発見できなかった。読者はそれを自分の感覚だけで判定しなければならない。そういう物語だと思うんだ。

圭

クラスのみんなは中途半端な納得感で、先生の話を聞くより他なかった。つまり僕たちに任された青春への価値判断。そういうことなのかなあ。もう一度読み直さなければならない。

先生
先生

次はこの小説とは直接関係しないのだが、井伏は詩人としても活躍していて、非常に暖かい、ユーモアあふれる詩、訳詩を多く作っている。詩集は『厄除け詩集』が有名でその一つが、次の詩である。休憩時間が終わればどういう現実が待っていたのか、これを読むと彼の心情はわかる。我々が小説を読んで最後の省略部分を想像する材料になるのではないか。もちろんこういう想像は個人個人違っていいわけだ。作品は違っているんだしね。これには絶対的な正解はない、として良いと思う。

厄除け詩集  井伏鱒二

それでも詩を書く痩せ我慢

母者は手紙で申さるる 

お前の痩せ我慢は無駄ごとだ 

小説など何の益にか相成るや 

田舎に帰れよと申さるる

母者は性来ぐちつぽい 

私を横着者だと申さるる 

私に山をば愛せと申さるる 

土地をば愛せと申さるる 

祖先を崇めよと申さるる

母者は性来のしわんばう

私に積立貯金せよと申さるる 

お祖師様を拝めと申さるる 

悲しいかなや母者びと

左の詩を読めばこの小説家の姿勢である、暖かさやユーモアが感じられると思う。しかも、自分の道は頑固に守っていこうという意志も感じられる。母はなんと言おうとも、「痩せ我慢」を貫こうと、故郷には戻らないと。

最後にもう一つおまけ

勧 酒 (于 武陵) の訳詩

勧 君 金 屈 巵 コノサカヅキヲ受ケテクレ

満 酌 不 須 辞 ドウゾナミナミツガシテオクレ

花 発 多 風 雨 ハナニアラシノタトヘモアルゾ

人 生 足 別 離 「サヨナラ」ダケガ人生ダ

そう、青春時代に対しても「サヨナラ」ダケガ人生ダ、なのだな。

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