32 『善人 ハム』 色川 武大

ちくま日本文学全集 008

戦争の記憶、戦後の現実

第二次世界大戦に敗れ、焦土と化した東京。そこから混乱の社会を生き抜いてきた男を描いた作品。戦前に秩序をなくした混乱期であり、賭け事の記述などもあるが、たぶん作者は空襲や兵士としての体験から、生き延びた庶民の力、生活する意欲を中心にして描きたかったんだろう。

先生
先生

こうした町の人気者の話で、やっと戦争というひどい非日常から脱した日本の都会の庶民が描かれる。プライバシーなんかないような家族の延長が町内の人間関係にあったということだろう。

最初に描かれているのは、当時の町内にいた人気者たち。特に本物の柳家金語楼のことが書かれている。みんなは知らないだろう?有名な落語家出身のコメディアン(?)なのだが、まあその時代の爆笑王だった。この人は、実は私も幼少の時に変な顔するおじいさん、という印象が記憶に残っている。その頃(昭和30年代)には、テレビの人気者だったのだろう。もっとも本当の幼少期にはテレビはうちにはなかった。

焼け野原から人々の生活が戻ってきて、その中に善さんという人がそういう町内の有名人になっていった。彼は日中戦争で金鵄勲章をもらっていたのである。金鵄勲章というのは武功があった軍人に与えられた勲章。多くは戦死者に与えれたという。(生存している兵士が受賞したことにも意味あることと考えられていた。)

彼はがっしりとした体格で精力的に見え、町内の人々から英雄視されていた男だった。商売は肉屋だったが、戦争が終わり肉屋もできず善さんは町の人々の世話によって商売を始めたが、うまくいかない。

ある夏の夜、善さんとハンコ屋さんと3人で焼き鳥屋で呑んでいた。ハンコ屋が「善さんは怖いものなしだろう」というと、善さんは夢だけが怖いという。戦争中に大陸で上官に名指しされて、捕虜を銃剣で突き殺したことが夢に出てくる。それが怖いという。

昭和の商店街のオヤジたち

「善さんなんか怖いものなしだろう――」とハンコ屋がいった。「なにしろ金鵄勲章なんだから」

「あたしはね、鈍感だから――」と善さんが笑いながらいった。彼はお酒を呑むと、嬉しがってはしゃぐ方だった。

「怖いものなしだったんですよ。だけど、あれはいけません――」

「あれ、って?」

「そのゥ、ね、あれだけは、いやだ」

彼はちょっと口ごもった。

「――夢ですよ」

「夢か」

善さんは、拳骨を二つ並べて差し出すようにし、それをさらに前方に突きだした。

「こういう夢――」

「それは、何?」

「突け、っていわれたんですよ。」

彼はもう一度、両拳を突き出す格好をした。

「それであたしは夢中で突いちまったんだ、馬鹿だから」

私はあらかたを諒解した。

「つまり、戦場で――」

「ええ、二度目の応召のときね。あたしは勲章を貰った兵隊だってんで、やっぱり分隊じゃ皆が知っていて、何かってえと名ざしされるんです。勲章のことなんかあると、そねまれるんだな、軍隊っていうところは。――案外にくまれてたのかな。そのときもまずあたしが指名されて、――」

「当時のいいかたでいえば、支那兵ね」

「兵隊じゃない、普通の人ですよ。お百姓だ」

善さんは、まずそうに酒を飲んだ。

「なんというのかな、あたしがもしできないとってことになると、金鵄勲章に恥を欠かすような気が、してたんですね。どうかしてたんだ、あたしゃァ」

《……》

「戦争は終わるからいいよ。あたしだって昨日のことは片付けたいよ。ですがね、夢を見ちゃうんだ。夢はいけません。ずいぶん長く戦場を渡り歩きましたがね。鉄砲の弾丸ひとつ射ったことだって、いちいち夢を見る。あたしゃ忘れてるんだけど、身体はちっとも忘れてくれないんだから……」

善さんはそういう時でも、告白がいい恰好にならないように、慎み深く、深刻そうな顔にならないように努めていた。

その界隈は、都心に近い割には復興が遅くなった。それでも徐々に焼け跡も埋まってきた。しかし善さんのところだけはバラックのまま、店舗あとも空き地のままだった。善さんは家族を作ろうともせず、商売も取り残されたような状態が続いた。しかし彼はあまり頓着せず、麻雀屋に出入りして負け続けたり、みんなと笑いながら生活していた。いっさい自分を主張しない生き方を守っているようだった。見た目や態度からは想像できないほど頑なにその生き方を守っていた。

私もたまには生家に戻り親の顔を見て、自分の家の周りの馴染んだ商店に立ち寄ってあれこれ買い物をすることがあった。それは、

「魚屋も肉屋も、八百屋も豆腐屋も、長くなじんで、相互に気性や好みを飲み込んだお店に行きたい。ただ、物と金を交換するという関係にしたくない」

という理由だった。

しばらくして、魚屋の主人から善さんが嫁を貰ったという話を聞いた。やっと普通の市民の暮らしを自分に許したのだろう。

十数年経って、つい先日のこと、古くからの友人たちと麻雀を夜更けまでやったとき、ずいぶん善さんはウィスキーをあけた。その晩のこと、呼吸困難になっている善さんを奥さんが発見した。「苦しい――」としか言わない善さんに、奥さんは「ええ、駄目みたいね。あなた、安心して。娘も片付きましたし、あたしはなんとかやっていきますから、気持を楽にしてください。何にも心配することはないのよ」、「一足お先に向こうへ行っていてくださいね」と告げたそうだ。ところが医者に連れて行くと、急性アルコール中毒だったということで二三日するとけろりと起き直った。私はなんとなく似た物夫婦という気がしないでもない。

夢はどうしようもない

先生
先生

今回も、詳しすぎる説明になってしまったが、他ではあんまり読めないからこうなっちゃった。さて、どう?

あんまり良くなかったか?

拝出
拝出

いや実はむしろ面白い、嫌味のない小説だったと思います。読んでよかったと。

この「善さん」という人。麻雀に負けても負けても笑いながらカモになる。賭け事がいいとか悪いとか言っちゃいけないよ。そんなことを超越した人で、しかも日中戦争での苦労ばかりでなく、復員後の仕事でも色々苦労してきた人だ。この人魅力的な人だなあ。

風向
風向

兵隊としてやってしまったことをハンコ屋さんに話すところは善さんの部の一つの山場ですね。捕虜を銃剣で刺すところです。日本軍の中の兵隊たちの陰湿な嫉妬心、金鵄勲章というものがしばってしまう兵隊への呪縛。こういう構造は現在の会社や役所などの組織にもありそうですね。もちろん私たちには全く実感できないことですけど。よく精神的なことで離職したり、ひどいと自死に至るようなニュースがありますけど、こういうことは日本の組織の”伝統”なのか、なんてことまで感じてしまいます。

拝出
拝出

ここんとこの会話は、記憶に残っちゃうね。僕は銃剣が伝えてくる善さんの手の感覚まで伝わってくるようだよ。こういうところが文章の力なのかなあ。

購買は、金と物の交換が本質ではない

風向
風向

その感覚こそが、戦後の善さんを動けなくしちゃったんでしょうね。

商店街の活気…今でもあるところにはある

それと比して、変化していくものとして町の復興が描かれます。善さんの店は置き去りにされる、バラックのままで。名前が「善」だけに彼は変われないんです。

でも、私はそこで大事なことは、周囲にいる「~屋さん」という人々。その人々は彼を置いてきぼりにはしないんです。ここが私たちが読み取ってしまう重要な点ではないですか。ここにある小さな世界は、商売仲間を疎外してはいないんです。本文中の”私”という人物は言ってます。

「魚屋も、肉屋も、八百屋も。長くなじんで、相互に気性や好みをのみこんだお店に行きたい。ただ、物と金を交換するという関係にしたくない」って。去年これも先生の雑談で、南洋の島々である変なものがぐるぐる回っていくという風習のことがありましたねえ、あれを思い出しました。

先生
先生

ああ、よく覚えていたな。なんだっけ?”クラ”とか言ったか?まあ例の如く浅薄な知識なんだけど、ニューギニアの方の風習の話だよな。でも、それとこれは関係あんの?

風向
風向

いやー。だって、人間が集団で生活するときはニューギニアであろうが、ヨーロッパであろうが、東京であろうが、共通する人間の営みがあるんだっていうのが基本認識だったんでしょう?贈与が根本的な欲求なんだということが記憶に残っています。この下町の人々の行動だって同じなんじゃないですか

先生
先生

うーん。まあそう言えるのかな。自分の親のことを思い出すと、隣近所の付き合いの濃密さは強かったね。それに最近は個人商店というのがどんどんなくなっているような気もするね。確かにこの商店街のようなコミュニティーは東京とかなら今でも元気だろうが、ちょっと地方になると商店街は少なくなっているんじゃないかな。

でも、その後の善さんの結婚後のエピソードはなんですか?テーマが分裂しちゃってるような。

拝出
拝出

だからこそ、読者は救われてるような気がする。モデルになった人もいるんだと思いますが、たとえば耳が遠いように思っていたら、昔耳栓にしていたものがずっと入っていたのだったとか、死にそうな苦しみをしていたら奥さんが安心して逝けと言ったり、ユーモラスなエピソードで人間一人の人生を優しい目で眺めさせてくれる。

町が有機体のように暖かさを持っている、というのも一貫して流れている。その上でどうしようもない過酷な運命もそれなりにあるんだ、という構造があるんじゃないかなあ。

『善人ハム』のハムってなに?

大野 右
大野 右

ただ『善人ハム』という題名の問題がある。どういう意味を持たせているのか、ということね。どうもこういうのが多いんだよ。もちろん映画『善人サム』がもとにあって、善人という言葉に善さんの名前が連想されることがもとになっていることは想像できるが、「ハム」がわからない。映画のもじりであることはわかるが、それでもどうして「ハム」なのか。映画のまま『善人サム』という題だってよかった。

二知
二知

笑われるかもしれないけど、肉屋さんだったからじゃないの。私はハムが紐で縛られていることをイメージしてしまうんですけど。善さんが軍隊でも、戦後にもその記憶に縛られていたことも同時に考えてしまうんです。善さんとハムという結びつきを作ってしまうんです。

先生
先生

なるほど。文でまとめると、戦中から戦後まで変わらない町の人々の結びつき。それからそこに住んでいたある肉屋の男を縛り付ける記憶。それからその男と妻の笑い話とも言えるような暖かさも感じるエピソード。こんなことを取捨選択して物語を説明する文を作るということだな。

さて、麻雀でも将棋でも色川武大の描く男たちはかっこいいね。作品の背景には多く都会的な匂いがするし。それは今のタワーマンション居住者の都会的とは違うものだよ。

この善さんのようなどっしりとした人格には、正直なところ一種の尊敬に似た感情さえ持つね。そして、混沌とした戦後という時代にも。それは現実にその時代に生きることは大変な苦労だったことは、私の親の世代だからよく聞いてきたことだけど。

みんなはどういう時代にこれから生きていくのかなあ。この善さんのような消えない記憶だけはさせたくないな。これはホントだよ。

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