ポーランドの小説 読んでみよう
珍しい外国の短編小説も読んでみよう。東欧の小説は政治的な問題もあったりして、どうしても過去を引きずっているものが多いらしいけど(もちろん詳しくは知らない)、ここで経験してみることも良いだろう。
パナマの、ある燈台守がいなくなり、後任が捜されていた。燈台守は勝手気ままな人物では困る。ほとんど囚人と同様の生活ができる責任感のある人物で、毎日の単調ではあるが確実な仕事ができる人物が必要であった。この隠者のような生活に志願してきたのは、70歳を超えたと思うような老人だった。彼は色々な戦場で戦い、船乗りとなり、職業を転々としながら、今では流浪しなくて済むささやかな幸せを求めるスカヴィンスキーというポーランド人だった。
彼は採用されて、孤独な仕事をするようになった。しかしそれは彼にかつてなかった幸福をもたらした。燈台のある小さな島を愛するようになったのである。何より定住して落ち着けることができることに彼は満足した。
時が経って、ある日いつもの荷物のほかに合衆国からの郵便物を受け取った。中には数冊の本があり、米国のポーランド協会設立の寄附への謝礼であった。その本(詩集)への感動のため、老人は泣き出し地面に身を投げ出した。
されば御身よ、我があくがれの魂を運びて
かの森の丘へ、かの緑なる草原へとどかせたまえ
ふるさとへの思いを募らせている間に、彼は燈台に明かりを入れるのを忘れてしまった。これは燈台守にはあってはならないミスであった。彼は責められ、このせいで職を解かれてしまったのだった。
彼の先にはまた放浪の道がひらけていった。しかしこの数日の間に老人はひどくやつれ、腰も曲がってしまった。胸に自分の本を抱き抱えて。
運命が邪魔する、自分にとっての本当の仕事
この小説、仕事というものを考えさせられる。スカヴィンスキーははじめあちこちの戦争で武勲を立てた。のちは船乗りをして流浪の生活をしてきて疲れ切ってしまい、落ち着いた生活に憧れたんですよね。
僕らもいずれ仕事を持っていかなければならないんですが、そのことに強い不安が僕にはあります。正直にいうと、この僕でもこの学生のまま一生を過ごせたら……と思いますよ。でも仕方なく働く。自分に合った、正直言えば楽な、給料のいい仕事を。でも、何よりの安心できる(安定とはちょっと違うと思うけど)仕事を求めると思う。この作品はそういう人間が、不運によって流浪の運命に再び囚われていくということを描いているんじゃないか。
僕は大野の偽悪趣味をわかっているから、わざと発言した。
大野のようなモラトリアム人間はそうかもしれないけど、(大野は携帯で”モラトリアム”を検索し始めた。)僕は仕事をするということにもっと希望を持っている。自分に能力がどのくらいあるのか、という問題はあっても、それを試してみたいという気持ちがあります。……というカッコいい話は置いといて、本音を言うと、これもカッコいい言い方になっちゃうけど”やりがい”ということにつきますよ。これさえあればたいがいの人は仕事に我慢できちゃう。
ちょっと、先生。圭が気持ちよく発言してくれてたけど、僕の前言ったことは誰でもそう思うことじゃない?圭に反論するようだけど”やりがい”なんて幻想だろうよ。もっと大事なことは、やりたいことを仕事にするんじゃなくて、「置かれたところで咲くんだ」ということだ。これは親父が僕によく言う言葉んですがね。僕にはまだ実感はありませんけど、当たり前だけど、”やりがい”なんてあまり拘らない方がいいんじゃないかな。
やりがいのある仕事、と自覚している人はそんなにいるんだろうか。そういう意識が必須だなんていう職業観は机上の空論であり、それ以上に間違っているんじゃないかと僕は思うけど。
それにやりがいって一口で言うけど、これは生涯同じものを持っているなんていうのもあり得ないだろ。
小説の読み取りから外れたようでも、こういう発展していく会話こそ大事なことだな。でも仕事というものの意味や私なりの考え方はまた別の機会にしないか。いいか?
では、この小説を読んで、自分の解釈を言える人は?
詩の言葉に火をつけられた男の話、では?
運命が彼の仕事や願いの邪魔をするという皮肉っぽい読み方も当然ありますが。
でも、この小説の読者は職業の選択ということばかりに注目する人ばかりでないと思います。
私は故郷・ポーランドに、どうしても魅かれちゃう孤独な男という読み方をしてしまいます。本当の自分の願いに火をつけた詩の力と故郷というのがキーワードになるんじゃないでしょうか。特に中南米と東欧という距離感がありますね。「かの緑なる草原」なんていう言葉に触れてしまってなんかスイッチが入ってしまったんだろうなあ。
そう。必ずしも職業に狙いを定める必要はないんだけど、仕事と郷愁というのはここでは全く別とは言えないんじゃないかな。仕事と故郷という二つがある面で二項対立になっているのかも。この人の経歴はどういうふうに示されているかというと、戦争での働きはすごかったということになっています。前回の「善さん」と同じです。ところが彼は除隊後故郷に帰らず燈台守になる。やっと定住することができる、と彼は安心した。
この燈台守という職業がまた意味深だ。孤独で責任のある職業でありながら囚人と同じような生活を強いられる。もちろん作者が物語を作る、という観点で言えば何も主人公を燈台守にする必要はないはずだ。定着が目標ならば主人公に農場経営をさせても良かったはずだ。これだと物語は他の方向へ向かうことになるだろうが。何かのミスでまた放浪の人生になるという話は不可能ではないはずだ。なぜ燈台守なのか?
燈台って、船に正しい行き先を示すもので、そういう意義ある職業にありながら、自分は勝手に移動できない。だから故郷への想いのために仕事を全うできなかった人生になってしまった。まあ、そういう意味で、燈台守という仕事になったんじゃないかとは思います。考えてみると燈台守は「責任」の記号であり、故郷は「感情」の記号である。とかいうとどうだろう?
おや、かっこいいこと言いやがったな。
でも、
「世界をまたにかけて彼は戦いに加わった。そして流浪(さすらい)の間にほとんどありとあらゆる職業についてみた。根が働き者だし実直な男でもあったので、大もうけをしたことも一度や二度ではなかったが、いくら注意を払い、どれだけ用心を重ねても、いつもそれをやってしまった。」
と書いてある。
つまりどうにもならないことってある、ていうのが作者としてはテーマなんだよ。実直な人間で、ひどいめにもにも、悪人にもあまり会わなかった、とあるよ。諦めるという教訓を言いたかったんじゃねえの?いつかは万事良くなるという信念の持ち主でも、そうはならなかったんだから。
仕事を自分に合う、合わないと思うことは別にして、その仕事を捨てなければならなくなった原因は、故郷への執着よ。そして、それをこの人に持ってきたのは、詩の言葉よ。言葉の力によってこの人は行く先の光を失ったのよ。
灯台の光が故郷を指していたんじゃないの?
漱石の『こころ』でも黒い光がいく先を照らした、なんて出てきたな。光ってすごく強い記号なんだな。ここでは、光が指し示した方向が実はポーランドの方角ということかもしれないよ。
文法どおりのお話だ
そうすると、また前に教わったことだけど、物語の文法とか、そういう話と関連させることもできそうだな。どこかへ行って、何かして、帰ってくる。そういう構図が見える。つまり、ウラシマ型の物語になってる。内容はともかく、構図としてね。
最後のところで「このわずか数日の間に、老人はひどくやつれ、腰も曲がってしまい」って書いてある。まるで浦島太郎じゃない。これは変な連想か?
うーん、確かに……。すると『舞姫』なんかとも似てるのかな。面白いね。
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