37 『小フリイデマン氏』トーマス・マン

20世紀最高峰とも言われるマン

先生
先生

さて今回はその北杜夫がすごく影響を受けたというマンを読んでみよう。彼のペンネームもマンの『トニオ・クレーゲル』のトニオから付けたんだというからね。私も高校時代『魔の山』なんかに挑戦したが、途中でつまんなくなって挫折した経験がある。

さて、トーマス・マンを読んでみよう。私たちの世代では高校生に絶大な人気があった作家といえば北杜夫だったが、私も読んだねえ。特に「どくとるマンボウ」シリーズは読んだなあ。夏休みの感想文の宿題で北杜夫を選んで書いたら、先生に「文体まで影響されてはいけない」と返却された原稿用紙に書かれていたことを思い出すよ。

でも考えてみると、文体っていうのも不思議なものだなあ。~さんの文体、なんていうことがなぜ読者にわかるんだろう?村上春樹の文体って、好きな人にはすぐわかるんだろう?そしてそれこそが最重要事項なんだよね。ちょっとこういうことにも、いつかみんなに考えてもらおう。

母と二人の姉が帰ってくると、生後一ヶ月のヨハンネスは台から転げ落ちたなり、かすかなうめき声を出して横たわっていた。乳母はアルコールにやられていて、赤子のそばでぼんやり立っていた。

赤ん坊は、脳の障害はなおったが身体的なダメージは大きく”せむし”になってしまった(顔はあわれにも両肩の間に埋まってしまった)。

しかし彼は16になった年に、急に好きになってしまった少女がベンチで彼のよく知っている少女と接吻をしているのを見たが、切ない苦痛から決然と立ち直った。この決心にしたがって彼は安定した心を手に入れた。母が亡くなったことも、大きな苦痛だったが、その苦痛を、”卒業”した。苦痛に身をゆだねて、思い出としてはぐくむことを身につけた。

人生はたとえ幸福な、とと呼ばれる形をとろうが取るまいが、それ自身として善きものだと感じた。そして人生を愛し、ヴァイオリンに、文学にのめり込んだ。

彼が三歳になった年、聯隊区司令官が交代してフォン・リンリンケン中佐がこの町にやって来た。彼は非常な資産家で広大に屋敷に住んだ。しかしその夫人ゲルタはこの土地の人々には不評だった。女らしい愛嬌がなく、男たちを煙に巻くような女だった。夫妻がヨハンネス・フリイデマンの家にきた時姉たちが相手をして彼は出ていかなかった。

次の晩、市立劇場で歌劇が演じられフリイデマンも出かけた。席の隣はリンリンゲン夫人だった。彼はひどく緊張して、幕間に劇場から出て行ってしまった。帰り道、頭の中にあるのは夫人のことだけだった。彼は”今までは自分の「幸福」を成していたもの、それはみんな自分にとって今さらなんであろう」という思いだった。しかし朝になると落ち着きが出てきた。まだ遅すぎはしない。まだ破滅から脱れることはできる、と。

外に出て散歩をしていったが、中佐の家の門の前に来てしまった。彼は奥の鈴を鳴らした。もはやあとへひくことはできなかった。やがて案内があって夫人と面会し、夫人から後日の集まりへの招待を受けてしまった。

その小さな集まりで、食事の後夫人から庭へと誘われ二人は水際のベンチに座った。彼女はフリイデマンに身体のことについて尋ねた。彼は自分の30年が”嘘と妄想ばかり”だったと答えた。彼女も「私も少しは不仕合わせというものを存じております。」と応じた。

しばらくして、彼は啜り泣きながら押し殺した声でこう言った。

「ご存知じゃありませんか……どうか私を……もう私はなんにも……ああ、どうしたら……どうしたら……」

と。

しばらくして夫人は、やにわに、短い勝ち誇った、さげすむような笑い声を上げながら、男の指から両手を抜いて、男を投げ倒し姿を消してしまった。

彼は腹ばいのまま動き、上半身を水の中に落とし込んでしまった。首は二度とあげなかった。長い並木道を伝わって、笑い声が響いてきた。

先生
先生

今回はマンの初期短編。身体に障害を持つ30歳の理性的な男が自分を抑えられなくなり、ある人妻に自分の恋を語る。しかし、女はその直後ガラッと態度を変えて男にひどいショックを意図的に与える。男は水の中に上半身をつけて自殺する。

この小説は何を語っているんだろうか、例の如く疑問や感想を自由に言ってみて。そこから新しい発見も出てくるだろう。

不運の主人公 それでも意志の力で生きる

羅漢
羅漢

ゲルダ・フォン・リンリンゲンという女の意地悪さを描いた物語、としか思いつかない。あるいは女という恐ろしい生き物、男という突き動かされてしまう悲しい生き物、というような物語ですか?あまり心を動かされませんね。

福生
福生

なんか類型的で面白くないね。

尽明
尽明

この男は裕福な市民出身で、家政婦のアルコール中毒での不注意で、というか怠慢で、身体に障害を持ったということですね。そしてたぶんはじめて恋を告げた女にひどい目に遭わされる。彼女は彼の身体的な障害を受け入れるふりをして、かえって彼に打撃が強く残るように仕組んでいる。ひどい人!

このフリイデマン氏はかわいそうです。そういう感情は小説を読むには邪魔な感じもしますが、でも彼に対する同情はどの読者にも起こるはずです。彼の自制心はこの小説の大切な柱ではないですか?30年の自制の年月は、やっと手に入れた心の平穏はあっという間にどこかへ行ってしまったんです。この女性を知ってしまったために。

だからどうしても運命の非情さを描いたものだと読んでしまうんです。もちろん女の人の罪深さは強く感じますけど。

先生
先生

うん、運命の非情さね。運命は非情だよね。……でも運命の非情さはもう全ての面で成立しちゃうんじゃない?なんでもかんでも、運命の非情さって言えるもんだろ。ちょっとほかの切り口はないかな。

風向
風向

フリイデマン氏の幼少の頃の事件、彼の障害を持つ原因となった家政婦の事件の時、医者は、とにかく最善を期すると強調していましたね。この”最善を期す”という言葉がこの家族のモットーになっていたんじゃないですか。とにかくもできるだけのことをする、という姿勢がこの家族の生きるモットーであったのでは?

彼の生き方もそういうことの影響にあったんじゃないかと思います。この小説のオリジナリティーというか、素晴らしい点は主人公のこの設定です。自分自身をコントロールする術を持って生きていく、という人物像。客観的にいえば確かに大きなハンデを背負って彼は生きていた。しかし16歳の夏の午後好きだった少女とよく知る少年とがキスをしているのをみて、鋭く切ない苦痛を知ったんですね。その時の思いが、

「これでおしまいだ。二度と再びこんなことに煩わされるのはよそう。ほかの人たちはそのために仕合わせになったり喜んだりするだろうが、おれはそのために、いつもただ恨んだり悩んだりするだけなのだ。もうこんなことはやめだ。それはおれにとっては、既にすんでしまったことだ。こんなことはもう決してしないぞ――」という言葉でした。

私はこの人物像にちょっと感動しました。この設定だけでこの小説が好きになりました。教養小説っていうんでしょうか、昔読んだ『次郎物語』と同じような感動を予想したんです。フリイデマン氏の幸せを願いました。

これも、「期待の地平」だったんですかね。もちろん変更しちゃいましたけど。

福生
福生

確かに僕もこの人の青春の自己規制は立派だと思いました。僕も共感しました。自分を抑えるのは悪いことじゃないですよね。

彼にしてみたら自分の身体的な障害はどうにもならない、いわばそれこそ運命が与えた前提条件です。それを持って生きていかなければならない。でも彼はそれを前向きに捉えていたのではないですか。前向きというか、問題と正しく向かい合っていたように思いました。

苦悩を苦悩として受け入れたとも書いてある。苦悩を享楽したと。「苦悩に身をゆだねて、数知れぬ幼年の思い出でそれをはぐくみながら、最初の力強い体験として、あくまで味わい尽くしたのである」とあります。ちょっとわかりずらいけどなんとなくわかる気がする。

そして、苦悩を享楽としてするためには教養が必要だということ。彼にとってはつまりは芸術らしい。それを力として生かすことを僕は立派な生き方だと思います。

タブー は破られるものなのか

二知
二知

私、障害を持っていたということで、こういう連想は本当はあってはならないことかもしれないんですけど、正直にいうと、画家のロートレックを連想してしまいました。障害があるということ、それも目に見える形であることを、忌まわしいこと、とか不愉快なこととかは全く思っていないですよ。でも、ハンディキャップという言葉の意味通りに不利な条件のもとに生きる人という意味で、ロートレックを思い出しました。ロートレックは精神的にも苦しんだそうですね。でもそれを絵画にぶつけた。私ロートレックの絵が好きなんです。

フリイドマンは、人生を愛し、苦痛を享楽した。すごいことだと思います。創作ではありますが。

先生
先生

すると、その後の展開はどういうことなんだろう?

二知
二知

フリイデマンが株式取引所から出てきた時、ゲルタを見てしまったんですね。「例の黄色い馬車」を自分で馭しているリンリンゲン夫人。見逃せないのはこの馬車の色なんじゃないですか?黄色の馬車!よくはわかんないけど、黄色の馬車なんてどうなんですか?あまりにも変じゃないですか?本か写真か、なんでもいいんですけど見たことありますか?

先生
先生

いや、言われてみると……。でも、どうなのかなあ。黄色い馬車か……

二知
二知

それをどう考えるべきかは思いつきませんけどね。

この時いっしょに歩いていた豪商のシュテフェンスは慇懃に挨拶した。フリイデマンも挨拶しながらしげしげと布陣を見守った。

つまり、私、ガラにもないこと言いますけど、これ禁忌を破ってしまった瞬間です。”鶴の恩返し”じゃないけど、タブーを犯したものは罰を受けねばなりません。あんなにしっかりした自制心を身につけたはずなのに……。

福生
福生

おお、いかにも深読みっぽい。

二知
二知

つまり、私はこの物語は教養小説っぽいけど、タブーを破って破滅していくという公式に沿った物語ということになる、と考えるんですけど。

先生
先生

なるほど。確かにそういう構造になってるもんな。彼はリンリンゲン家の集まりの前には、自分の破滅を、あらがいがたい暴力を、予感していた。わかってて集会に参加してんだもんなあ。タブー破りだなあ。

嘘と妄想の30年なんて……

風向
風向

私は、さっき言ったフリイデマンの30年間の穏やかな人生について当のフリイデマンが、夫人になんと言ったか、に注意したいと思います。これ、読んで本当に残念でした。夫人から、ここまでの人生が仕合わせでなかったんでしょうね、と言われて、こう書いてあります。

「フリイデマン氏は首を振った。唇が震えた。『ええ、』と彼は言った。『嘘と妄想ばかりでした。』」

彼の30年間が彼自らによって否定されたんです。障害を持っていても穏やかに生きようとしていた自分を”嘘”と言った。これはこの小説の一番のヤマじゃないでしょうか。これがトーマス・マンなんでしょうか。

私漱石の『それから』で、男の告白の後で女が、三千代でしたか、「しようがない。覚悟を決めましょう」って言いますね。その言葉が頭に残っちゃったんですが、それ以来の記憶に残りそうなセリフでした、嘘と妄想でしたって……。作者に騙されてたのかしら。まあそれが小説の面白さですけど。

圭

僕はこの風向さんの感想を聞いて、思いがけなく同級生の心のうちを聞いた気がした。漱石の『それから』を僕も読んでいて、思いがけない女の力を感じていたから。なんとなく国語の授業の意味がわかったようにも思った。

先生
先生

もうひとつ。

このフリイデマンの嘘と妄想だったという話の後で、夫人はなんと言っている?「私も少しは不仕合せというものを存じております」って言ってるね。これは単なる儀礼的な返答かな。そうじゃない気がするね、どう?

羅漢
羅漢

そりゃ、なんかあったんじゃないですか。だってこの返答はしなくても構わないし。何か意味ある答えじゃないですか。自分には自分なりの苦しみはあるんだ、という主張でしょう。フリイデマン氏ほどではないにしても……ということでしょう。

もしかしたら、それは自分を見失うほどの感情だったのかもしれません。残念ながら証拠は何も見つかりませんが、彼女は自分のコントロールできないところを自覚していたのかもしれないと思う。

拝出
拝出

夫人がフリイデマンを庭に誘うところがあるね。その直前に彼女の様子は「そこ(夫人のまなざし)にあるのは、なにか無感覚な死んだようなもの、鈍い、力も意志もない献身といったようなものであった。」とある。つまり彼女の問題はこれじゃないの、退屈だよ。

苦悩と退屈のはざまで

先生
先生

そういえば、何度も出てくるようでみんなにはそれこそ退屈かもしれないが、ショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』にこうある。

周知のように、我々の歩行とは、身体が倒れることがたえず阻止されていることにすぎないが、これと同様にわれわれの身体が生きているということは、じつはそれは死ぬことのたえざる阻止、つまり死ぬことがそのたびごとに先へと延期されることにほかならないのである。おしまいに、われわれの精神に活気があるということも、これと同じように、退屈感がひきつづいて先へ延期されているというだけのことなのだ。《……》

人間の人生はだからまるで振子のように、苦悩と退屈の間を往ったり来たりして揺れている。じつをいえば苦悩と退屈の双方は、この人生を究極的に構成している二部分である。(第57節)

退屈というものが苦悩の正反対のものなら、フリイデマンと婦人とはまさしくそのものじゃあないか。退屈ってささいなことじゃあないんだよ。

ショーペンハウエルによれば、人生は苦悩と退屈の間で揺れながら過ぎていくんだ。

拝出
拝出

最初にフリイデマンが彼女を見かけた時、いっしょにいた豪商シュテフェンスは「ぶらぶら乗り廻してから、いま帰っていくところなんですな。」と言っているし、その後の会話で自宅へ来てほしいという夫人の言葉にフリイデマンが承知した時、「すると突然、夫人の表情が変った。ごくかすかな残忍な嘲弄を浮かべて、その顔がゆがみ、その眼がまたあの不気味な震えをおびて、前にもう二度もあったごとく、じっと探るようにこっちを向いているのを、彼は見たのである。」と書いています。悪くいえば、餌を見つけたということかも。

先生の、退屈というのが私たちの大きな問題だという話は、そうかもなと思いますね。夫人は二十四歳と設定しています。若いんですよね。退屈というのは別の言葉で言えば、物語がない、ということじゃないですか。物語を食べてわれわれは生きていくんですから、そりゃあ大問題です。

先生
先生

うまい。私も同じように考える。彼女にとってはフリイデマンは物語の種なんだ。黄色い馬車というのもそれと関係あるかもしれないな。

大野 右
大野 右

今こっそりまたネットで検索してみたら、フリイデは「平和」と関係ある言葉みたい。でも彼はどうしようもない障害という運命と平和的に折り合うことができなかった、という皮肉も感じたんですが、先生、これは違いますかね。

先生
先生

うーん、ドイツ語は全くわからないから、誰か詳しい先生に質問したいとこだな。彼、平和な人生とは言えないもんなあ。

今回も中途半端だけどここでやめておくか。

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