21世紀ミャンマー作品集 (大同生命国際文化基金)
ビルマの短編
東南アジアにも、もちろん短編小説がある。図書館にあったからビルマ(ミャンマー)の作品を紹介しよう。今現在も大混乱の国であり、政権による人権侵害という問題があるようだが、本来穏やかな国民性と言われていた。
解説によれば、ビルマ(この国名表記も色々問題あるらしいが、ここからはビルマと表記する)は1980年代から短編小説が盛んに描かれるようになり、黄金時代とも呼べる状態だった。しかし軍事独裁政権で文学が衰退していき長編小説が書かれなくなっていった。その影響があり、21世紀には短編も衰退していった。2011年に民政移管がいったん行われて、これはその頃雑誌に掲載されたものだ、という。国が落ち着いてきて、これから文学界も、という機運も出てきたのだろう。
その後の混乱もある程度知られているが、この小説の時点ではやっと明るい光が見えた、という頃だったんだがねえ。いままた苦難の時が来ているけど、早く平和な日常が来てほしいねえ。
作者は1083年生まれの女性。残念ながらウェブで検索してもヒットしなかった。現在どうしているのかと心配せざるを得ない。
話は簡単。
長距離バスに乗った時、ある男から話しかけられた。ここからずっと男が語るのである。
ボクはおたく(あなた)とお近づきになれてうれしい。ボクは気兼ねし過ぎのところがあってかつて夜行のバスに乗った時この自分の性格で困ったことがある。
「車に酔ったんです。」「風なんか入れれば具合が良くなるんだが」とぼそっと言った。ボクは席をしばらく替わってやろうと思い、もうしでると。遠慮もせず彼は窓側に坐った。そして、しばらくすると日遠いいびきをかき出した。それでもボクは彼を起こして席をまた替えてもらおうと言い出せない。「自分はなぜこんな気兼ねをする性質(たち)なんだろう。」と自分を不憫に思う。生まれたてこのかた骨身に染みついた習性、と思うだけだ。この思いを彼は何度も語る。ボクは業(カルマ)を思う。通路の向こうの二人もボクを憐れんでいるふうだった。ボクほど気兼ねをする人間は……業に従うがいいのだ。
ボクは旅に出る時窓側の席を好んだ。この時も窓側がとれてバスで隣の席の人を待っていた。後から大荷物の男が来て、その大荷物を席の下にむりやりに押し込むようなことになった。さらに彼はしばらくして気分が悪いと言い出した。
食事時間に車が止まった時、彼は素早く食事に出て、素早く窓側にもどって眠ってしまっていた。終点までそんな様子で終わってしまったんです。
あれれ、ついオタクに親近感を持ってしゃべってしまった。これから下車する土地でボクは青果を栽培しているんです。サントゥンって名で尋ねてきてよ。運転手さん、この先で降りるからね。
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ふーっ、あの野郎ぼくが眠いのも知らず、気兼ねなくしゃべって嫌がって。ようやくゆったり坐ることができたよ。
という話だ。たわいないと言えばたわいないが……。
ビルマとかミャンマーというと、まず政治的混乱や、ひどい軍政の弾圧とかを連想しちゃうけど、こんな小説が書かれた時もあったんだと思ったね。ちょっと意外な小説を読みました。
人と人の間のちょっとした軋轢というか、こんなものがビルまで読まれていて、読者も「こんなやつ、いる、いる」なんて話していたのか、なんて思いますね。
ビルマってアウンサンスーチーさんの国でしょ。2010年に彼女が軟禁から解放とされたと解説にあるので、いずれにしても民主化しそうになった頃に違いない。この後、国軍のクーデターがあり、今(2022年)ひどい人権無視の状態が続いているので、この頃は明るい未来を民衆は信じていただろうなあと単純に気の毒です。この小説を読んでもそんな気持ちを持ちます、不思議な感じもしますが。
小説自体にはどんな感想?
どうかな。オチがついているところは短編小説としてわかりやすくて面白かったけど。多分ビルマの交通網は整備されていないだろうし、長距離のバスなんかも乗客でキツキツだったんだろう。僕はちょっと単純で独自性がないような気もするんだ。
しかしこの小説のキーワードは「気兼ね」じゃないかな。そういう点で僕は共感を持つなあ。気兼ねっていうのは気が弱いことですね。もっと主張しろよ、おれはおれの時間を過ごしたいんだ、おれは自分の席を使いたいんだ、と主張できない。こういうところがあるんですよ、僕にも。こういうのは、西洋では考えられない、とかいうでしょう?でもそれがビルマやそして日本のいいとこじゃないの?
私自身はこの気弱さを自分で認めたくなくて、つい強気のふりをしちゃうということがある。他の先生から私のことを「気が強く批判してくる」なんて言われたりしたこともあるんだけど。本当は全然そんな人間じゃないのに……なんて思ったもんだよ。
へえ、そうですか。まあ誰だってそうですよ。先生、気にすんなよ。
ありがとう、ってか、お前に言われたくないよ。
さっき言ってた国民性みたいな話についてね。それはやっぱりあるんじゃないですかね。ビルマっていうと親近感のある国民性なんじゃない?どこかの国では列の順番守らない、とか、絶対謝らないということ聞くじゃん。このバスの中の話だってよその国なら全く小説にもならないってことあるんじゃないの。
そういう面を考えたら、もう一つキーワードになりそうな言葉があるじゃない。
ハイ。「業」、「カルマ」ですね。
そうそう、それ気になるなあ。
ビルマ仏教では現世の苦しみが前世の行為によってもたらされる、というふうに説明があるけど。バスの中のいびきで苦しむのも自分の前世の悪事にせいだということですね。こういう考え方で今の苦しみを耐えるってのは、確かに個人の性質ではなく、もしかしたらその社会の知恵と言えるのかもしれないですね。日本だってそういう現実の解釈、この苦しさは大きな力が私たちにくだされている結果なんだという考え方は一般にあるんじゃないでしょうか。宗教とかにも。仏教に限らないですよね。
いや、それは一種の諦めの強制じゃないか。バスの中の小さな災難も作り笑いでやり過ごす。そうして納得してしまう、というのは僕たちにあるもあるけど、容認してはいてはいけないことだと思うよ。
私も、そう思います。全てはカルマ、というのは「違う」って思います。それは逃げることです。バスの中の小さな災難、と言言われましたが、これこそが問題なんですよ。みんながこれを拒否することが第一歩ですよ。
いや、僕たち東洋の人間も、本音ではカルマなんて関係なしに生きている。これは運命だ、とか言ったり、カルマだと言ったりするのはその言い訳が必要な時だけであって、僕たちはもっともしたたかに生きているよ。バス内の「気兼ね」なんか一種のポーズにすぎない。そういう話ですよ。最後に言った言葉でこの被害を受けた奴のしたたかさがわかる。
うーん。それじゃ君たちそれぞれの考えをまとめてみよう。発言しなくてもここでひと言という機会を与えるよ。本音を書いてみ。
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