プロフィール

ブログ 御神酒徳利の教室 にご訪問いただきありがとうございます。

ブログの名前は、この落語が好きなだけで、私自身は下戸です。運の良い人生を送りたいなと思って…。

略歴

1957年神奈川県南足柄市生まれ

県立小田原高校卒業

早稲田大学教育学部国語国文学科卒業

足柄高校、大和高校、伊志田高校、小田原養護学校、大和西高校。小田原高校で国語科教諭として勤務

定年退職後は平塚江南高校、足柄高校、小田原城北工業、厚木清南高校で再任用教諭として勤務

趣味

囲碁、山歩きなど好きでしたが、どちらも中途半端でものになりませんでした。最近は坂道が嫌いになって、平坦な道をゆっくりと歩くくらいです。体がどんどんダメになっていくのを実感しています。

写真はこれから上手くなりたいなと思っています。いちおうカメラはフジのXーPro2という趣味感の強いやつを持っています。山の写真は少しずつ貼り付けていきます。

ブログの目的

高校の国語科の教員をしていましたが、その授業の目的について、あやふやな意識しか持っていませんでした。生徒の皆さんには申し訳なかったと思っています。

私は、特に若かりし頃、現代文の授業で、何を教えてその結果どういう力を生徒につければ良いか、という具体的な目標を持っていませんでした。特に嫌だったのは「〜という点をおさえる。」なんていう表現で授業の目標が書いてある「指導計画」でした。「おさえる」という表現が気持ち悪かった。もっと具体的な、国語という科目の目的を自分の中ではっきりさせたかった。

もちろん、道徳的に円満な良い人間を作ることが目的ではないし、溢れるような読書量と知識を持つ人間を作ることでもない。だいたい「作る」なんておこがましい。俺はそんな人間じゃない。なんていう思いがありました。

文学という言葉は、何だか怪しい言葉でした。数学だの法学だのはイメージできる。では文学という学問は何を勉強する学問なのか。これもずーっと引っかかることでした。社会では、全く役に立たない意味のない学問であり、「国語」という教科に対しては、文学を教えないでほしい、という発言も多々ありました。「読解力」という言葉もまた怪しい言葉でした。高校の国語科の教員は存在意義のないものじゃないか、という気持ちも何年かあったのです。そんな人間が学校現場にいるのは罪でしたねえ。

それが、だんだんはっきりしてきたのは、いわゆる構造主義言語観を自分なりに理解できていった頃からです。

ソシュールの「言語は差異の体系」であるという考え方を遅まきながら知って、その差異こそが文学の成り立つ根本的理由なんだということを(本当はもっと複雑で厳密な研究だったろうと思いますが)理解し、それを基本にして作品を読み解くことが読解にもなるんだと思いついた時でした。でも、生徒から「先生とは読んだことの受け取り方が違う。」という話を聞きました。ある生徒からは、「国語ってセンスの問題で教えてもらうことじゃない。受験に必要なテクニックを教えてもらえないなら、科目として選択する必要はない。」なんて言われましたが、あるとき、現代文という科目の最終的な目標は実は各人の意見対立、信念対立を乗り越える「間主観性」を求める方法を身につける、ということなんじゃないかと気がついたのです。

それだったら確かに、「国語」の授業には存在意義がある。国語という教科はもっとも基本的な重要科目と言ってよい。意味ないどころか、これだけが教育の意味を持つと言ってもいいくらいの勉強だ、ということになります。大学4年生の時、高田瑞穂先生から「文学は総合的な人間研究だ」という言葉をお聞きしたことを、やっと実感したという、全くお恥ずかしい限りです。

そのために、小説を読み、各人の解釈を言い合い、それを聞き合う。こういう授業がなければならないというふうに考えました。ところが、こういう授業は遂に私にはできませんでした。大学受験で競争に勝つことを目標とする生徒や受験のための訓練を教育として強いる高校ではこんな授業は認められません。受験は二の次という高校では、もっと基礎的な学力しか期待されません。漢字の書き取りや言葉の意味のテストの繰り返し。多くの生徒は、それが国語という教科だと思っていたと思います。(どの学校でも、ゲリラ的に自分の好きなように授業をやってしまいましたが、今の高校は教員のダイバーシティーは全く認められません。どこでも同じ教材を同じようにやらねばなりません。ただし工業高校のクラスはノリが良くて、面白かったですが…)

退職後、興味を持ってくれる生徒、素直におじさんのいうことを聞いてくれる生徒を前にして、空想の授業をやってみるかと思ったのがこのブログなのです。むろん、非常に少数ですが現実に私に授業が楽しいと言ってきてくれる生徒はいましたし、そういうふうに生徒全員を仕向けるのが本当のプロの教師だという方のご意見はもっともですが、現実にはできませんでした。

今から、私は思い切り空想を楽しもうと思っています。特に哲学や外国文学について素人なので、勘違いや稚拙な議論等あると思います。平凡な論をありがたがったりしていたり、頓珍漢な批評などもあると思います。どうかそのようなものについてはご教授いただきたいと思っています。

それにしても、段落の一字下げって流行らないの?なんか気持ち悪い。