82 『少年の悲哀』 国木田独歩

幼い頃の少年の記憶から醸しでるものを、作品から”感じる”ことができる

よし子
よし子

……読みました。これはまた全然違った印象ですね。この小説は好きです。なんだか、小説全体が雰囲気を感じさせていると思う。前回の授業で誰かが言ってた表現を借りれば、頭の奥で感じる作品ですね。

先生
先生

作品の概要はこんな感じかな。

「僕」は八歳から十五まで叔父の家で育てられた。そこは七、八人の男女が使われているような家だったが、十二歳の「僕」に徳二郎という下男が、今夜自分と面白い処へ行かないかと誘ってきた。徳二郎は二十五歳くらいの若者で土地の人々にも信用されているような男だった。彼は叔父たちには内緒にしておけと言い、二人で月影鮮やかな夜に川の堤から小舟で出ていった。入江の口に至るとそこは港で、街のさまざまな明りが「僕」の頭に強い印象として残った。「僕」は今この港の光景を詳しく説くことはできないが、その夜、目に映って今日なおありありと思い浮かべることのできるだけを言うと、夏の夜の月明らかな晩であるから、船の者は甲板に出で家の者は外に出で、海にのぞむ窓はことごとく開かれ、ともし火は風にそよげども水面は油のごとく、笛を吹く者あり、歌う者あり、三味線の音につれて笑いどよめく声は水に臨める青楼より起こるなど、いかにも楽しそうな花やかなありさまであったが、しかし同時にこの花やかな一幅の画図を包むところの、寂寥たる月色山影水光を忘るることができないのである。
 この「青楼」とは遊郭のことで、そこで働く若い女が、徳二郎に弟の写真を見せたところ、徳二郎が自分の居る家の「坊様」とうりふたつだと話した。それがもとで、女が本人と会いたいと、徳二郎に頼んで連れてきて貰ったのである。
女は、「僕」を舟に誘った。二人だけで舟を出した。舟の中で女は四年前に十二歳で生き別れになった弟について語った。そして両親が亡くなったあと互いに支えあって生きた姉弟が別れ別れになったまま、自分はもうすぐ(植民地の)朝鮮に連れていかれるので、もはやこの世では会うことはできないだろうと「僕」の顔を見たまますすり泣きに泣くのだった。

丸楠
丸楠

まあ、そういう”悲しい話”だね。僕らにしてみたら、現実の世界でのなんともならない悲しい話。
でも、それってそれこそ山のようにある、現実への批判。いや批判でもないような感じもする。こういうお話は珍しくもなんともないし、それこそ、僕たちだって、いつかそういう現実の厳しさには向き合わなければならないかもしれない。
だとすれば、この小説になんの意味があるのか?ありふれた話でしかないんじゃないか。正直言って、僕はまあ、ここでみんなで話し合う価値が感じられないの。先生には悪いけど、今世の中に出ているたくさんの小説、(もちろんそれを読んだことはほとんどないけど)そういう作品にはいくらでもあるようなことじゃないかな、いや全く現状の出版事情は知らないんだけど。僕の知識では、小説より漫画の作品の方がバラエティー豊、興味深いものが多いと思うよ。多分そこには”絵”という視覚要素で、オリジナリティーを高められるという利点があるから、ということも大きいと思うけど。
そんな現代、ここでみんな感想を言い合う意味あんの?もっと社会構造を変革させようとするエネルギーになる作品が欲しいよ。

確かに”悲しいお話”だけじゃあ……

曽宗
曽宗

だからこそ、”悲しいお話”で終わらせないような読みが大事だ、ということじゃないのかよ。
おれはこの小説、単なる”悲しいお話”で済まない仕掛けがあると思っているのよ。おれはこの小説は評価されるべきだと思ってる。なんか、深い印象っていうか、そんなものを与えてくれるような気がするんだ。
この姉弟の別離と最低辺の女たちの苦しみ、悲しみだけだったらそんなに印象深い感慨を与えなかったろうと思う。何が深い感慨を?あるいはイメージを与えてくれたのか?


そう考えてみて、結局自分の心を動かすものは、港街の、花街の赤い光と、小さな舟を暗い夜の海の上に配した景色。これだろうと思ったのよ。
どうも悲しくせつない姉と弟。そしてその姉を遊郭で「買った」これも親のない若者の、女への同情。そんなストーリーが、夏の夜の赤い光と、黒い海という景色の中で、読む人の頭に侵食してくる。
もし、設定を悲しい話を真冬の山中の寒村を背景にしてみたらどうだろうか?想像してみてほしい。おれの結論は月夜の、夏。波の立たない瀬戸内の海。一艘の小舟という舞台の巧みさ。独歩の上手い面が出ている作品と言える。この夜の情景はまさしく絵画のように、頭の中に納められたということ。

佐々木
佐々木

確かに絵画的ですよね。
また、徳二郎という若者がいいですねえ。少年の「僕」には、本当に良いメンターだ。「僕」にとっては兄貴分の存在で、こうした、言わば番頭的指導者っていうのは基本的な物語の人間関係のパターンなんでしょうね。

徳二郎は十一二歳から叔父の家で使われている孤児でありながら、いつも歌を唄いながら仕事もしっかりできるような男だった。しかも、周囲からは期待されるような人物。
この夜、女と「僕」が小舟に乗って出ていったのを、酒を持って追いかけて来た。彼は女が外国に売られていくのを既に聞いていたが、それがもうすぐのことであるのを知ったんでした。そしてその女のために弟に似ていた「僕」を連れて来て、せめて女にひと時の安らぎを与えてやろうとしていた。女の、現実を変えて助けてやることは、彼にはできない。小舟に酒を持ってきて、歌を唄ってやることしかできないんだ。考えてみると、こういうのもある面で物語のコード(?)のひとつとして重要なテーマとして考えられるんじゃないかな。

この場面、ぼくは古文でやった『平家物語』を思い起こしたよ。「木曽の最期」だよ。木曽義仲は死ぬ間際まで今井四郎っていう乳兄弟を頼りにしていた。ナラティブの常套として、戦闘の血なまぐささに、人間としての情たっぷりのエピソードが付け加わっていたね。たぶんこういうエピソードは世界中にあるんじゃないかな。少くとも日本の物語読者としては好まれる関係ですね。もしかして、漱石の『こころ』だってそういう構造かもよ。そして最後に、その後徳二郎は僕の叔父の世話で立派な百姓になり今では二人の児の父親になって居る。というふうに書いてある。そして、女はどうなったのか、「僕」も知らないし徳二郎も知らないらしい、ということになっている。
ということで、この小説は「僕」が擬似的な兄に導かれて、大人の世界に初めて触れた、という物語。こんなふうな読み方をぼくはしているんだけど……。

大隈
大隈

新潮文庫の解説に、批評家の中村光夫が、彼の初期の短編の作因は、文学的というより、むしろ倫理的哲学的なので、うまい作品を書くことより、ある人間の問題をなげかけるところに、その主眼があります。そしてこの特色は彼がずっと小説らしい小説を書くようになった晩年にも、他の作家にくらべて見れば、はっきり感じられます。 
(*作因……芸術などで、表現の動機となる中心の考え)と書いている。この解説では独歩の作品を「よくもわるくも素人くさい」と言っている。(この解説に対しては、ぼくは、ちょっとどうかな、と思うところもあるんだけど)とにかく「倫理的哲学的」な匂いのすることは確かなように感じられる。でもそれが国木田独歩なんだ!ということ。反対に、中村光夫のように考える読み手はこの小説を、やはり素人の書くものと評価するんだろう。ぽくなんかこの小説を、たとえばこの時代、この環境で生きていく女たちの裴しさという観点から批評しようと思うかもしれない。いや、女の、神から切り捨てられたような人生と海に漂う小舟を象徴的に描いた作品、というような解釈をするかもしれない。

同じようなパターンの小説もあったよ

二知
二知

先走ってしまうかもしれないけど、小説の構造として似ている作品に、『馬上の友』という作品、わたしには印象的だった。構造というのかわからないけど、子供の頃の記憶を語り、ひとつの感慨を持つという点で同じパターンであると言えます。
成人になった海軍士官が、子供の頃一時的に仲良くなった乗馬の師範の子供との交流を描いたもの。やはり物語る人物の、その相手の少年は相手は貧しいのですが、しかしこの作では二人は一応成功者として再会を果たします。

先生
先生

そうだね、この二作の比較も面白いテーマかもしれないね。差し当たって『少年の悲哀』について言いたいことがある人いるよね。遠慮なく発言して。その後で『馬上の友』を取り上げようか。

原
原

国木田独歩っていろんな小説書くんですね。知らなかった。この小説なんか、本当は教科書にあっても良さそうだよ。花街の女がいけないのかしら。でも現実にいた人々だし、こういう仕事をしている女性はいつもいたし、いるんですから。そういう女だからこそ、読者を惹きつけるんだし……。って、これこの授業で取り上げていいの?ああ、架空の授業だからね。現実の高校の授業じゃダメなのかな。
それはともかく、なぜ「少年の」なのかね?「悲哀」は直接的には女が感じたことなのに。「その時の僕の心持ちを思い起こしてさえ堪え難い、深い、静かな、やる瀬のない悲哀(かなしみ)を覚えるのである。」と最後の方で書いてあるんだけど、これはちょっとどうかな。だって、これはあくまで他人事じゃん。そしてこういう説明も、書きすぎているって感じるところじゃない?この少年の心中の深いところで何かの影響を与えただろうことは想像がつくが、何かそれを誇張して書いている印象を持ちます。
でも、全体を膨らまして演劇にすると、なかなか雰囲気の出たいい舞台になりそうな気もするけどね。

「徳二郎」とは何か?

 徳二郎についての記述はどう?さっき今井四郎の話が出たけど、単なる少年の先導者でいいのか?もう少しなんかない?最後の”徳二郎のその後”についてもみんなはどう捉えるか、聞きたいところだな。

原戸
原戸

これはあってよかった、と思う。徳二郎の成功という記述ね、これは入れておいて欲しかった。なぜか徳二郎にはそれなりの人生が待っていた、というのはホッとする。たとえば、彼が独身のまま兵隊に取られて戦死してしまった、なんていうのだったら、ちょっと後味悪くて。この作品の味付けに合わない感じ。あるいは、女を追って朝鮮に出国し、これも行方が知れない、なんていうストーリーだってありえるでしょう。でもこうなっていると、少し、家父長的秩序の後継者みたいな匂いもする、その安心感なんて感じるのはあたしだけかしら。

拝出
拝出

安心感と言ったけど、確かに今自分の中にそういうのがあると気がついた。なるほどなあ、って思ったよ。後味がいい、悪いも、よく聞く言葉だけど、最近ここで読んだものは後味悪いのもあったね。でも、それが作品の価値に関係しているとも思えないよ。
もう一つ感じたこと。この悲哀を持った少年も、いま現在語っているこの時点で、家父長への道を歩いているんだろうなあ。悲哀はあるけど、怒りはないみたいだしなあ。だから、少年の悲哀という題名で良いということかな、と言うこと。
まあ、「僕」と言う語り手は当事者ではないわけだから、女と対比される徳二郎のその後の有り様は、必要な記述であるんだろうね。

岡野
岡野

でもねえ。徳二郎は独り立ちして立派な農家になった、というのは、本当に必要な記述なのかなあ。この一文が作品の中で、なんか働きを持っているかなあ。読者にとっても、徳二郎のその後の成功が、同じ孤児として生きてきた”青楼の女”と対比されていることは読み取れるんだけど、あってもなくてもいい記述じゃなかろうか。これはダメ押しのような感じがするな。何か作者の素人っぽさがでてるような……。自分が素人なのにすみません、独歩さん。

先生
先生

なるほど、これもちょっと後で考えたいところであるな。
それと、「家父長」という言葉は、国語の授業で久しぶりに聴いた気がする。昔の近代文学批評ではよく聴いたもんだが。ここも後で考えてみようか。
さて、この小説は、もう一つのある短編小説と対になっている、という話をさっきしたね。大人になった男が少年時代の思い出を語る、という構成の小説だ。それは『馬上の友』という作品だったね。こういう傾向の作品は、独歩の好むところなのかも知れない。

広田
広田

おれも、両方読んでみました。気がついたことは、少年の頃出会った二人が、経済的というか、あるいは身分として、社会的に格差のある状況にある、という設定があるということだ。『少年の悲哀』ではもちろん金持ちの坊ちゃんと大陸に渡る運命の女。『馬上の友』では仲良かった少年二人。それぞれの組み合わせの中の社会的な格差が、読者の鑑賞の底部で響いているような気がするんだよなあ。そういう底部で、普通の読者、つまり研究者とか批評家ではない読者には、なんとも言えない哀愁というのか、そんなものが漂っているように感じる。

さらに、この社会の底部にいる若者には、対する恵まれた環境の少年に、怒りや、嫉妬、嫌悪などは感じていないような気がする。前に、プロレタリア文学って読んだね。しかしここにはそういう悪(特に社会悪)への怒りは感じられません。おれは、そこんところが「良い」と思うんだ。現代の若者たちは、おれを含めて極めて「嫉妬深い」よね。それはネットでおこなわれる「炎上」というものからもわかる。今のSNSで「左翼」とか「意識高い系」なんて、ある傾向の人々を攻撃している人々は、こういう傾向を持っているように見える。SNSで人を攻撃するような性状なんか、この嫉妬が原因と言える。違うか?
だからかえってこの小説が妙に心地よい。僕自身は嫉妬深い保守主義者ということは、自覚しているけどね。

先生
先生

ちょっと話が広がってきたけど、『馬鈴薯』『少年』そして『馬上』と、読んできて自分なりの読み方に気づいた人、まだいるだろう。どうだい?

よし子
よし子

やっぱり『馬鈴薯』だけがちょっと毛色が違っているという感じがする。なんだか筆者のメッセージのための小説、っていうような印象なんです。ただ前に誰かが言ったかな、「驚き」こそが生きる意味っていうのはなんだか軽いなあと……。

自作の解説を追加する、その作者の意図は何か。 Shake offこそがそれなのか。これは難しいなあ。

先生
先生

こんな作品が、作者の追加解説みたいな作品が文庫本に載ってる。「岡本の手帳」という。なんか不思議な自作解説。ちょっと引用してみよう。

左は「牛肉と馬鈴薯」の主人公、岡本誌夫の手帳より抜き書きせしものなり、この主人公に同情ある人には多少の興味あるべし
わが願は世のつねの願にあらず[・・・・・・]しからば何ぞや、わがこの願とは。美と真と善と、わが頭はこれを求めんことに非ず。若しわが「この願」叶はずんば、美も善も真も、空のみ、影のみ、まぼろしのみ、題目のみ、呼称なみ。カライル曰く、Awake,poor troubled sleeper      :Shake off thy torpid nightmare-dream.
わが切なるこの願とは、眠より醒めんことなり、夢を振ひをとさんことなり。この不思議なる、美妙なる、無窮無辺なる宇宙と、この宇宙に於けるこの人生とを直視せんことなり。われをこの不思議なる宇宙の中に裸体のまま見出さんことなり。不思議を知らんことに非ず、不思議を痛感せんことなり。死の秘密を悟らんことに非ず、死の事実を驚異せんことなり。

カーライルもテイラー・スィフトさまも同じようなこと言ってんの?(ちょいとお前らに媚びたこと言っちゃったか?)
ちょっと自分のこと言うと、驚きたい、それが生きる原点なんだという岡本の主張はなんだかわかるような気がした。それが私の高校時代の思いだった。その頃「自己実現」なんていう言葉が、大学入試に臨む動機で使われていたと記憶するが、最初は、ジャガイモであれ、ステーキであれ、結局「成功したい」という欲望に違いはないじゃないか、という気がしていた私には、むしろ「驚きたい」という欲望はそれとは違う気がして、やや新鮮な観点のように思った。前にも言った通り、私のそういう読み方は一種の現実逃避のあらわれだったと、今では思うけれど。

小池
小池

つまり、先生は独歩の作品にはある一貫しているものがある、と感じているんですね。「驚き」という言葉が何を意味しているのかは難しいですけど……。
でも、『馬鈴薯』の岡本は独歩自身だと決めつけていませんか?

先生
先生

その通りだね。語り手と作者は区別して読まないといけないね。たださっきの『岡本の手帳』が追加で出されていることを、どう考えるかということもあると思うんだ。こんな文章があるから中村光夫のような評価がされる一因なんじゃないかとも思う。
ただ今回『少年の悲哀』に改めて驚かされたというところがあってね。この辺の話は次回ということにして、中途半端になっちゃだけど、今回はここでやめておこう。

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